月島部長の場合



07


 一週間はすぐに過ぎた。
 普段なら恋しいはずの週末が、近づくたびに俺の頭痛を酷くする。

「なにか考え事か? 月島」

 それでも仕事がなくなるわけでもなく――会議室で鶴見専務といつものように打ち合わせを行っている最中に、ふとそんなことを問われてしまった。

「悩みがあるなら聞くぞ」
「……いえ、個人的なことですので」
「そうか」

 気もそぞろな俺を責めるとも気遣うとも取れる視線と言葉に少しヒヤリとする。会議室には彼と自分の二人、逸らす話題もなく、捕食者ににらみつけられる獲物のような心地で彼の目を見つめ返した。
 そもそも、進捗の報告だけならわざわざ対面で、しかも一対一で行う必要などない。……にも関わらず、この人はどうも一人一人とこのように話をするのを好む。それもこれも、こういった探りのようなことをするためなのだと考えれば納得がいった。ようはそういう人なのだ、この人は。

「ふむ、まぁお前なら大丈夫だとは思うが、仕事に支障は出すなよ?」
「はい」
「それで……報告は以上か、月島」
「はい」
「よーしでは雑談でもしようじゃないか月島、最近何か変わったことはないか?」
「はぁ」

 ……結局話すまで帰さない気だな、この人は。
 半ば諦めのような心地で息を吐く。鶴見専務はそんな俺ににこにこと笑いかけながら、茶菓子でも用意しようか、と言って席を立った。正直、そのままご自分のお仕事に戻ってくれれば良いのにという気持ちでしかない。

(……雑談、か)

 ――彼女も、こうやって何度も鯉登さんとの時間を重ねたのだろうか。
 俺の知らないところで、俺の知らない話をして――

(それがどうした、…………どうしたっていうんだ、俺は)

 いつの間にか目の前に差し出された菓子に手を付ける気にもなれず、その日の俺は柄にもなく俯くばかりであった。



「疲れもあるだろう、今日は早めに帰るといい」

 結局あの後小一時間ほど俺を拘束した後に専務はそう言って俺を帰した。時刻も丁度定時を過ぎたあたり。急ぎの案件もなく、今から新しく手を付けるのにも気が進まず、それならばと甘んじてその言葉に従うことに決めた。
 幸いにも残っている部下も居ない。俺は自身のデスクを片し、多くもない荷物をまとめてオフィスを出る。
 そして、エレベーターに乗ろうとホールへ向かったところで――彼女と、出くわしてしまった。

「あ……」
「……お疲れ、お前も帰りか」
「は、はい、お疲れ様です……」

 ――気まずい沈黙が流れる。どうしたものか、と考えはするが、いつも話のきっかけを彼女に任せきりだった俺は、なんと切り出していいかもわからずただ黙って点滅するランプを見上げていた。
 そしてようやくエレベーターが到着し、搭乗。一言も交わさぬまま、それは一階にたどり着き、外へ。そのたった数分のはずの時間が、まるで何倍にも感じられるほどの居心地の悪さに、俺は吐きかけたため息をぐっと飲みこむ。
 しかしこのまま何も言わずに解散するのもまずいような気がして、会社を出てすぐに俺は「ちょっと飲んでいくか」と後ろを歩く彼女を振り返った。

「いえ、今日は……その、明日は鯉登さんとの約束がありますので」
「あ、ああ……そう、だったな」

 ――そういえば、明日はもうその土曜なのか。と、いまさらながらに思い出す。
 なら、仕方がないな。と、その一言を口にしようとして、俺は口を開いた。

「明日は……――」

 しかし漏れたのはそんな一言。いや、文章にすらなっていない、言葉未満の何かだった。明日は、なんだ? ……自分でも何を言おうとしていたのか理解できず、俺はまた黙り込んでしまう。
 そんな俺をじっと彼女の両目が見つめている。……何か言わなければ、それか、帰してやらねば。彼女には優先すべき事由があるのだから、と、そんな気持ちばかりが俺の胸を締め付けた。
 それでも続く言葉は声に出せず。そんな俺を見かねたのか――もしくは彼女も今の今まで言葉を探していたのか――彼女の小さな唇が開き、「わたし、」と小さく声を漏らした。

「私は……月島さんに、行くなって、言って欲しいです」
「――そ、れは」

 明日のことか、などと、鈍感だと言われた俺ですら聞かなくても理解できる。だがそれでも理解らないのは、彼女がそんなことを言い出した理由だった。

「乗り気じゃないなら、最初から行くと言わなければよかっただろう」
「行きたくないんじゃなくて、止めて欲しいんです」
「……何が違うんだ」
「違いますよ、月島さん」

 寂しそうに笑う彼女の顔が、あの日の彼女と重なった。ああ、そうだ、あの時もお前、そんな泣きそうな声で俺の名前を呼んでいた。

「私、あんなふうに伝えるつもりじゃなかった、伝える気だってなかった。……だけど、だからといってなかったことにされるのは、やっぱり、悲しい」

 拒絶よりもずっと辛いのだ、と、彼女は眉尻を下げて笑った。その顔をさせているのは紛れもなく自分なのだと思うと、息が詰まる。うまく、呼吸ができないような気にさえもなる。

「なかったことにはしないでください。……応えてくれなくても、いいですから……」
「…………」

 ならば、と、謝罪の言葉を口にしようとして、俺にはそれができなかった。
 応えなくても良い、と彼女は言ったのだ。今まで通りに戻りたければ、希望通りにそうすればよいだけ、それだけなのに。
 
 ――そうしたくないと感じるこの心の正体に、本当はもう、薄々勘づいてはいたのだ。

 金曜の告白に、俺は本当に、たったの少しも、喜びはしなかっただろうか。
 鯉登さんとの接近に、ほんの少しでも、嫉妬の気持ちはなかったろうか。

 考えなくたってもう答えは出ている。つまるところそう、俺は――もうとっくの昔に、彼女に惹かれていたのだ。

 神崎、と名前を呼べば、俯いた小さな肩がピクリと震える。恐る恐るといった様子で顔を上げ、俺の目を見た彼女は――固まった。
 そうだろうな。多分、今の俺は相当情けない表情をしていただろうから。

「……あの日のアレは、まだ有効か」

 離れていた一歩分を踏み出して、震える彼女の腕を引き寄せる。そのまま自分の腕の中に収めてしまってから、彼女の耳元で「俺もだ」と小さい声で囁いた。
 震える声で本当に? と漏らした彼女をさらに強く抱きしめれば、鼻を啜るような音と、しゃくりあげるような泣き声が聞こえはじめる。

「う、うれしい、月島さん、私……でも、うそ、ほんとうに、? わたし、わたし……」
「ん、落ち着け……悪かったな、お前の気持ちまでなかったことにしようとして」

 背中を撫でなだめるつもりが、えーん、とさらに子供のように泣かれてしまった。
 これは果てがないな、と苦笑がこぼれるのを隠すこともせず、俺は一旦彼女から離れ、真正面から彼女の瞳をのぞき込む。

「で、どうする。明日の食事は」
「……ぐすっ……それは……い、いきますけどぉ……」
「行くのか……」

 もう約束したから、それはちゃんと果たさないと。と顔を上げた彼女の涙をぬぐう。それもそうだな、と納得し、さすがにこれは諦めるしかない、ここまで彼女を傷つけ続けた報いでもあるのだろう。
 ――そんなことを考えて一人で納得しかけていた矢先。

「……っでも大丈夫です! 鯉登さんが、ちゃんと三人で予約取ってあるからって言ってました!」
「は?」

 先ほどまで泣いていた彼女が一変して笑顔を咲かせ、そんなことを言いながら俺の腕に抱きついてきた。いや、それは当初の話だろう。とか、さすがに変更した後では。とか、そういったことを言っている俺のことなど気にも留めず、彼女はスマホでどこかへと電話をかけ始める。

「もしもし、鯉登さん! お忙しいところすいません! 月島さんも明日来れるってことになりました!」
「は!? いや、おい! 行くとは一言も……!」
「つきましては明日、私だけじゃなく月島さんのお洋服も見に行きたく……はい、はい、大丈夫です! では改めてそのお時間で!」

 電話の向こうからは聞きなれた声が漏れていた。やっぱり個人的な連絡を取っているくらいには仲が良いのか……と落ち込んでいる暇などなく、俺はトントン拍子に決められていく明日の俺自身の予定に異議を唱える。

「待て、勝手に決めるな!」
「月島さん、明日は午後三時に駅前だそうです!」
「だから勝手に……はぁ、思ったよりも強引だな、お前」

 これはもう諦めるしかないかと息を吐けば、彼女は一瞬黙り込み、不安げな瞳で俺を見上げる。

「……もう嫌いになりましたか?」

 先ほどまで無茶を言っていた彼女が自信なさげに肩を落とすのを見て、俺は思わず噴き出した。それをからかわれていると取ったのか、今度は唇を尖らせたその様子が愛おしくて、俺は口元を必死で隠しながら堪えきれなかった笑いを漏らしていた。

「笑わないでください……!」
「すまん……くく、……」

 怒ってはいるものの不安はぬぐい切れないのか、少し控えめに抗議する様子に、俺は頭を捻る。
 この程度で人を嫌いになるほど(特に対人関係に関して)ぬるい生活は送っていないつもりではある、が、それをどうやって伝えたものか……と。

「ん……ああ、そうだ、賭けをするか、神崎」

 賭け、ですか? と小首をかしげる彼女に、俺は続ける。

「そうだ。――俺に、お前のことを嫌いだと思わせたらお前の勝ちだ。なんでも一つ言うことを聞いてやる」

 逆に、俺がお前のことを嫌いになれなかったら俺の勝ち。そういうと彼女は「月島さんが勝った時は何をしたらいいんでしょうか」と問い返してきたので、俺は間髪入れずにこう答えた。

「その時は、そうだな――ずっと俺の隣にでもいてもらうかな」

「……!」

 悪くないだろ、と彼女を見下ろせば、真っ赤な顔で「ずるいです」と呟く彼女がいた。俺はそれを肯定の返事と捉えることにした。

「神崎、俺はお前が好きだ――傷つけて、悪かった」

 大切なものを取りこぼさないためにもと、そう改めて言葉にして伝えれば、彼女は耳まで赤くしながらも俺を見上げ、「わたしもです」とか細い声で返事をよこす。
 そんな些細なことで頬がほころんでしまう俺を見て彼女もまた微笑み返し、それだけのことに胸のあたりが温かくなった。

「きっと明日は、鯉登さんにいろいろ言われちゃいますね」
「ああ、……あと、週明けは鶴見さんにもな」
「?」

 不思議そうな顔をする彼女の手を引き、帰ろうか。と俺は歩き始める。それに「はい」と明るい声色で応え、彼女は俺の隣を歩き始めた。
 我が事ながら単純なもので、自分の気持ちを一度認めてしまえば、この一段と熱を持つ彼女の手の体温すら離し難く――

 ……ああ、そうか。なるほどあの言葉は正しかったようだ。
 俺は自分のことになると途端に鈍くなるらしい。

(――そうか、愛しいというのか、この気持ちは)

 ようやくそれが理解できた。だから――これからは、きちんと向き合って、伝えていけるようになれればと、思う。



「家まで送る」
「駅までで大丈夫ですよ、今日は酔っていないですし」
「俺が送りたいんだ……彼氏になったんだろ、それくらいはさせてくれ」
「! ……は、はい」