月島部長の場合



06


「来週末、店を予約したぞ」
「は?」

 久方ぶりに彼女と鯉登さんの打ち合わせに同行した際、唐突に彼がそう言い出した。俺の知らない二人の約束の話だろうかと隣に座る彼女の方を伺えば、自分と同じようにぽかんと口を開けた横顔が目に入る。

「なんの話ですか」
「うん、この間の飲み会では月島が支払いを済ませてくれていただろう」
「はぁ、まぁ」
「だから今度は私が出す。土曜の夜六時に駅前に来い、いいな?」

 全て決定事項のように捲し立て、なぜかドヤ顔で胸を張り出す目の前のボンボン。

「いえ、良くはないですが」
「何故だ」
「そんないきなりいわれても、俺もこいつも都合がつきませんよ」
「む」

 すねるように下唇を突き出し、「そうなのか」と今度は彼女へ向き直る。断りにくいのか存外に乗り気なのか、彼女は強く否定することもなく「場合によっては」とあいまいに返した。

「それに、どうせ貴方の選んだ店ということはドレスコードもあるような店でしょう」

 俺には不釣り合いですよ、と広げていた書類に手を伸ばせば、「私が片付けます」と少し焦ったような声とともに白い手がこちらに伸ばされる。彼はそれも気に入らないらしく、もう少しくらいいではないかと腕を組んでふんぞり返った。

「はぁ、暇なんですか、鯉登さん」
「暇なわけがあるか、大忙しだ馬鹿者め」

 なら早く帰ってくれないだろうか、面倒くさい。大方いつもこの調子で予定時間ギリギリまで神崎をつき合わせているのだろうと察した俺の口からは、深いため息が漏れるばかりだ。

「まったく……これだから月島は付き合いが悪いと言われるんだ」
「言われてるんですか」
「言われているだろう、私に」
「そうですか」

 とん、とん、と資料を整え、俺は早く自社に戻ろうと席を立つ。そしてこのまま神崎を一人置いていくつもりもなかったので、何かを考えるみたいに顎に手を当てて立ち上がる気配のない彼女に「行くぞ」と声を掛けた。

「――私は、いこうかなぁ……」
「なん」
「ほんのこっな!?」

 飛び上がるように喜ぶ鯉登さん。それに驚く様子もなく、神崎は「どんな服着ていけばいいかわかんないですけど」と何事もなかったかのように話を続けた。

「なんだ、なら私が服を見立ててやってもいい」
「え、じゃあ、もしかしてそれも鯉登さんのお財布から出してくれるんですか?」
「まぁ構わんが……お前、思ってたより図々しいところがあるな」
「ふふ、いやいやさすがに冗談です、恋人だったとしてもそこまでしてもらいませんよ」

 気心の知れた仲のように談笑する二人の横顔に、俺は思わず呆気にとられた。同世代だ、きっとうまくやれる――そんなことを考えていたのは、他でもない俺自身だったはずなのに……なんだか、意外で。

(……やっぱり、杞憂だったじゃないか)

 初日の不安そうな様子からは考えられないほど気心の知れたやり取りに、俺は「良かった」と胸を撫でおろし――
 ――それと同時に、その笑顔が俺に向けられることが、なくなったことに気が付いてしまった。

(――いつから、)

 きっかけは明白だ、あの日、俺が彼女の言葉をなかったことにしたあの日から。
 けれどそれが、一体どれくらい前の事だったのか。俺はすぐに思い出せないでいた。



「神崎さん、取引先の坊ちゃんと仲良いんですね」

 喫煙室に入るなりそう声をかけたられた俺は、咥えた煙草に火をつけながら、なんとも言えない心地で「あー……」と肯定ともつかない返事を漏らす。

「それで、どうなんですか部長的には」
「なんだ俺的にはって」
「いやぁ、部長的にはぶっちゃけどう見えるのかなぁと……やっぱ、そういう感じなんですか? あの二人」

 下世話な男め、そんな気持ちを込めたため息を返せば、男は少し慌てたような声色で「怒んないでくださいよ」と苦笑する。……別に、怒っているつもりはないのだが。

「いや、だって、あの人と対等に話ができる新人なんてなかなかレアじゃないっすか? やっぱ向こうとしてもそういうことなのかなって思うんですよね」
「いや、そんなことは――」

 ない。……とは、俺には断言できなかった。
 仕事にプライベートを持ち込むような奴じゃない、とは言える。しかし、それはそれとして、仕事外でも交流があるのかどうかなど俺にはわからないことだ。
 もしかしたら商談など関係ないところで仲を深めることもあったのかもしれないし、個人的に連絡を取り合っている可能性だってなくはない。別に、それが悪いことだとも思ってはいない。
 
 そもそも二人の間に何があって、どんな関係なのかなんていうことは――俺には全く、関係がないのだ。

(――俺に好きだと言っておきながら?)

 そんな自分勝手な苛立ちを隠すように紫煙を深く吸い込んだ。普段なら疲れも不快感も取り払ってくれるはずのそれが、空虚な肺を素通りし、逃げるみたいに消えていく。

「…………俺がなかったことにしようとしているくせにな」
「え? 月島部長、何かおっしゃいました?」
「いいや、なにも」

 漏れた言葉を誤魔化すように呟いて、俺はすでに短くなっていた煙草を灰皿に押し付けた。