同僚・有古の場合



07


「今日暇? 飲みに行こうよ」

 彼の家で目を覚ました日から数日が経ち、ずっとギクシャクしたままでいるのも嫌で私は有古くんにそう声をかけた。

 彼からすれば突然の誘いだったのだろう、微かに視線を揺らした後、「今日は飲みすぎるなよ」と、遠回しな了承の返事をして彼は少しぎこちなく笑った。

「心がけるね」
「そうしてくれ」

 朝、そんな話をして――業務後。私たちはいつもとは違う居酒屋の個室で、向かいあってグラスを傾けていた。

「乾杯! 今週もお疲れ様でした!」
「ん」

 カン、と軽い音を立ててグラスがぶつかる。思えば、彼と二人で飲みに来るのはこれが初めてかもしれないな、なんて、甘いカクテルを口にしながら考えた。
 先日のこともありグラスを持つ手にはじわりと汗が滲む。緊張に比例して、酔った私はいつも以上に饒舌になった。……後から思い返せば、何を話したのかなんてちっとも覚えていなかったけれど。
 今日はビールじゃないんだとか。
 先輩の愚痴とか。
 最近の互いの仕事の話とか。
 道で見かけた猫が可愛かった、とか
 ……そういう他愛もない話ばかりをして、どんどん時間は過ぎていく。
 結局、私は本題・・には何一つ触れられないまま――
 
 ――気づけば、彼の広い背の上で揺られていた。

「……飲みすぎるなと言っただろう」

 はぁ、と息を吐く音が耳元で聞こえる。私は言葉の体をなしていない、もはやうめき声にも似た謝罪を口にした。

「うう……ごぇん……」
「…………まぁ、いい、今日は流石に送っていくから」
「……ありあと……」

 飲みやすいお酒ばかり選んだせいだろうか、とっくに限界を超えたことにも気づかず飲み続けたアルコールが私の呂律を甘くする。それがまた情けなくて小さく声を漏らすと、彼は居心地が悪そうに息を呑んだ。

「…………ごめんねぇ」
「いや……」

 抱きついた身体が熱い。お酒のせいだろうか、それとも別の理由があるのだろうか。……その理由を知りたくて、私は今日、彼を誘ったはずなのに。

(…………何をやってるんだろうな、私は)

 また彼に迷惑をかけた。その申し訳なさから目を瞑りしばらく黙ったままでいれば、いつもよりずっと固い声で彼が何かを言っているのが聞こえてくる。

「下心がある奴の前で酔い潰れるのは止めろ……危ないだろ」

 あるんだ、下心。
 ……と、聞いてしまえたらどんなに楽か。
 いや――楽も、何も、本当はそのために今日彼を誘ったのだけれど。

(情けない)

 私に配慮しているのだろう、ゆっくりと歩く彼に揺られながら私はまた吐きそうになったため息を飲み込んだ。今、一番そうしたいのは彼に他ならないのだから。

(たしかめたいことがあったのに)

 確かめたかった、そう、確かめたかったのだ、私は。彼が、こうして特別優しい理由を。
 私にだけ向ける表情の理由も、あの日も今日も、手を出すわけでもなく嗜めて、その耳を赤くする理由も。
 きっとそれは、私が彼のことばかり目で追っていた理由と同じはずで――だから――
 ――ううん、もしそうじゃなくても、伝えたいことが、あって……。

「……神崎?」

 唸ることすらしなくなった私の様子を心配して、彼が振り返るみたいに首を捻った。私はそんな彼から顔を隠すみたいに、彼の肩に顔を埋める。

「……有古くんの、前だからだよ」
「え?」

 彼は足を止め、聞き返す。

「有古くんの前だから、飲んだの、飲みすぎちゃったの……他の人となら、絶対、我慢するもん」
 反応はない。私は顔を上げないまま、なけなしの勇気と声を振り絞った。
「あのね、有古くん……私、有古くんのこと、好きだよ」
「……!」

 はっと、息を呑むように彼の肩が揺れる。それでも彼の表情は確認しないまま、私はぎゅっと彼に抱きつく腕に力を込めた。

「……お酒に頼らないと言えなくて、ごめんね……」

 彼はやはり何も言わない。鼓膜を揺らすのは風の音と、彼の呼吸音。それから、二つ重なるやけに速い心臓の音。……なんでもいいから何か言ってくれ、と思いながら目を強く瞑ると、少ししてから彼はまたその足を動かし始めた。私はその心地よい振動に身を任せながら、彼が口を開くのを待つ。

「……謝るくらいなら、早く酔いを覚ませ」

 数歩歩いてから、彼は今まで聴いたことがないほど優しい声でそう言った。言葉だけ聞けばそっけなく感じるようなセリフも、なぜだろうか、彼に言われるとそうは思わない。それは、私が彼のことが好きだからなのか、それとも……
 耳元でかすかに笑う彼の声がする。少しだけ顔を上げると――柔らかな笑みを浮かべる彼の口元が視界に入った。

「早く酔いを覚まして——今度は、酒の入ってない時に俺の気持ちも聞いてくれ。お前が言えないのなら、俺がその分伝えるから」
「……!」

 今度は私の方が黙り込んで、彼もそれ以上は何も言わなかった。私は彼のその広い肩に顔を埋め、規則的な彼の足音を聞きながら――もう少しだけ、酔っているふりをすることにした。