同僚・有古の場合



06


 ピー……ガシャン、ガシャン、ガシャン。

「…………ふぅーー……っ」

 ピー……ガシャン、ガシャン、ガシャン。
 忙しなく動くコピー機を見下ろしながら私は深く深く息を吐いた。次の会議で使う資料三十部、全て刷ってホチキスで止めて会議室に用意しておけというのが今の私に与えられた指示だった。
 いや、雑務はもちろん下っ端である私の仕事だと言われればそうなのだが、私にももちろん通常業務はあるわけで、その合間を縫って雑務をやらされるのはいささか不満なところがある。……しかし今回ばかりは文句も言えず、私はここでひとりため息をついていた。

「――これ以上ミスして俺の仕事を増やすくらいなら、馬鹿でもできる作業をしてこい」

 ……と、私のミスのフォローでタスクを増やし、青筋を浮かべている尾形先輩に地の底から響いてくる声で言われてしまえば、どんな人間だって従わざるを得なのは自明の理。例に漏れず私も大人しくその言葉に従い、少し離れたオフィス用複合機まで足を運んでいるわけで。

「……これ終わったら、あと、お茶も用意しなきゃ……」

 情けなさやら先輩への申し訳なさやらで再度ため息を吐けば「だいぶお疲れだな」と背後から優しさと同情のこもった声が聞こえ、私はその声の主を振り返った。

「谷垣くん……!」
「お疲れ、神崎。……また尾形先輩か?」

 また、という言い方に、私は肯定も否定もせず苦笑をこぼす。それをどう解釈したかはわからないが、彼は「あまり気にするな」と言って手にしていた資料を机の上に置いた。

「あ、ごめん……使う? もう少しかかりそうなんだけど」
「いや、ゆっくりでいい、俺のは急ぎじゃないから」
「そっか、ありがと……そういえば谷垣くん、この前の飲み会には来てなかった、よね?」
「あぁ。……なんだ、そんなことも忘れるほど飲んでたのか、お前」

 ははは、とまた笑って私は答えるのを避けた。毎月の飲み会に毎回参加する私とは違い、同じく同期である彼の参加は不定期だ。どうやら奥さんが家で待っていてくれるらしく、あまり遅くまでは飲み歩きたくないそう。いい旦那さんだ。

「……あー……谷垣くんさ……その……飲み会でのこととか、なにか、きいた?」
「? いや、なにも……もしかして本当に酒で失敗したのか?」
「あっ!? あー、いやぁ……ま、まぁ、大した失敗じゃないと思うけどさ? うん」

 どうやら誰からも何も聞いてはいないらしい、とホッと胸を撫で下ろす。よかった、噂が一人歩きとかしていたら有古くんにも申し訳ないし……。

「でも飲みすぎたのは事実らしいな、倒れて有古の世話になったんだろ」
「言ってんじゃん聞いてんじゃん全部さぁ」

 深く深く深く息を吐く私に、谷垣くんは瞬きを繰り返した。「何かまずいことを言っただろうか」という顔でおろおろする彼の横で、私は自分を隠すみたいに座り込む。

「うう……最悪……有古くんに合わせる顔がないよ……」

 さめざめと膝を抱えたまま落ち込む私。そんな私を見下ろしながら――

「だが、何もなかったんだろ?」

 ――と言われ、私は跳ねるように顔を上げた。

「そ……そう、そうなの! 何もなかったんだよう! そんなんじゃなくて有古くんはどうしようもない私を親切で助けてくれただけで! 邪推されるようなことは何もなくて!」
「だろうな」

 驚くことも笑うこともなく、当然のように頷いた彼を見て私は立ち上がる。自分でも自分が笑顔になっていくのを感じながら、彼の広い背をバシバシ叩いた。

「もぉ〜! 谷垣くんってばわかってくれるじゃん!」
「ぐ、ま、まぁ、有古はそんなやつじゃないからな」
「そう! そうなの! さすが谷垣くん〜! ……それに比べてあいつはさぁ」

 例の同期への愚痴を口にすれば、今度は彼が苦笑いを浮かべる。それでも否定はせず聞いていてくれるところが優しいというか甘いというか。

「だいたい、有古くんに対しても失礼なことばっか言って……嫌がってるのに」
「へぇ、珍しいな」
「そう? そうかなぁ、結構顔に出てるよ」
「……有古が?」

 何故かそう聞き返されて、私は「うん」と首を縦に振る。

「…………ふ、よく見てるんだな、有古のこと」
「え?」

 数度瞬きをしたあと、彼は堪えきれなかったみたいに笑みをこぼした。何がおかしいのか不思議に思いながらそんな彼を見上げていると、眉尻を優しげに下げながら、彼は続けた。

「あいつは言葉も少ないし、あまり顔に出さない方だろ?」
「……え?」

 そんなはずないよ、だってあんなに、わかりやすいのに。
 たしかに、口数は多い方ではないけど、それでも顔を見たらわかるじゃない。
 先輩に無理言われて困ってる時とか、悲しんでる時、焦ってる時、楽しそうな時――

「――神崎、」

 ……朝、真っ先に私に声をかけて、笑いかけてくれる、時。

「…………っ」

 あれ――もしかして、そういうの、わかっちゃうくらいに私が彼のこと――

「神崎」
「……うん」
「有古はいい奴だぞ」
「…………知ってるよぅ」

 最後の一枚がコピー機の出口から吐き出される。それを全てまとめて手に取ってから、彼に軽く挨拶をして足早にその場を後にした。
 頭の中には、彼の笑顔ばかりが浮かんで離れなかった。