鯉登音之進の場合



07


「ちょっと感動もののドラマを見ちゃって」

 翌日、赤くなった目元を誤魔化すためにそんなことを言って回った。「まぁそんな日もあるわな」なんて感じで返してくれる者が大半で、私はなんとか誤魔化せているのだと安堵する。

「男にでもフラれた?」
「! ……宇佐美さん、そういうの、今はセクハラに当たりますよ」
「はは、冗談じゃん、何、図星?」

 ただ一人、この宇佐美時重だけが勘の鋭いことに肝を冷やしながら、私は「別に」と否定も肯定もせずにモニタへと視線を戻した。

「用がないのであればご自分の席にお戻りいただいて」
「は? 用もないのに来るわけないじゃん、馬鹿なの?」
「…………はぁ」

 この態度がなければ仕事もできるし嫌な奴ではないんだろうけど。
 そんなことを胸の内で考えながら、「用件とは」と仏頂面を隠すことなく彼に聞き返す。それでも何故か愉快気に口の端をゆがめたまま、彼は応接室の方を指さした。

「お客さんだよ」



「――すまない、仕事中に」
「……………………いえ」

 今、一番会いたくない顔が目の前にはあった。申し訳なさそうに眉尻を下げる鯉登さんの顔を見ながら、私は昨日確認したスケジュール帳のことなどを思い出していた。

「……確か、次の来社予定は二週間ほど先だと記憶していましたが」
「う、む、その、今日はそういうことではなく」
「はぁ、緊急で何かありましたでしょうか」

 ならば電話でもよかっただろうに、と自身の社用スマホを確認する。着信履歴は特にない、なるほど、私の確認漏れではなかったかとひとまず息を吐く。

「いや、今日は別件で――おい、どうした、その目」
「!」

 しまった、と私は咄嗟に彼から顔をそらした。突然の訪問に驚きすぎて、すっかり自分の泣き腫らした顔のことなど忘れていたのだ。慌てて「昨日見たテレビが」なんて用意した言い訳を口にするも不自然にうつ向いてしまった事に彼が違和感を覚えないはずもなく、怒気を含む声が「嘘を吐くな」と私を責め立てる。

「――わいを泣かせたんな誰じゃっ!」

 私の肩を掴んだその力が強くて私は言葉を詰まらせた。いつもならそんな乱暴なことしないだろうに、そうまでなるほど、私の心配をしてくれているのかと思うと、枯れていたはずの両の目にまた涙が滲む。
 そんなに、怒るくらい、心配してくれるなら、なんで――

「――っ、鯉登さんの、せいですよ……っ!」
「なんっ、お、おいの……?」

 ないごて、と狼狽する彼の手を振り払い、私は彼に詰め寄った。

「そうです、貴方のせいです……! 婚約者がいるなら、なんで私に声をかけたんですか!?」
「……!? ちごっ……」

 何かを言いかける彼を両の手で突き飛ばす。……しかし彼はびくともせず。それが無性に腹立たしくて、私は彼の胸に置いた手をぐっと握りしめた。
 腹は立つのに、やっぱり好きだと思ってしまう事が悔しくて。腹は立つのに、怒りよりも悲しみの方が強い事が悔しくて。
 それがあまりに、情けなくて。

「……こんな思いするくらいなら――好きだなんて気づきたくなかったのに……!」
「!」

 触れた部分から彼が震えるのが伝わってくる。傷ついたとでもいうのだろうか、そんなの私のほうがずっと――

「ち、ちがっ……違う! 話を……」
「何が違うんですか!」
「ええい、話を聞けというのに!!」

 彼の手が私の顔を無理やり上向かせ、彼と目があった。彼は狼狽した様子で瞳を揺らしながら、叫ぶ。

「――そいは兄さあの話じゃ!」

 よく通る彼の声が応接室に反響した。私が「兄さあ?」と聞き返せば、彼は頬を赤く染めながら「そうじゃ」と深く頷く。

「兄さ……兄がいると前に話したことがあったろう……それで、その兄が、だな、婚約した。私ではない」
「……鯉登さんじゃ、なくて?」
「あぁ、いや、兄も鯉登ではあるが……ややこしいな……とにかく、私ではない、勘違いするな」

 落ち着きを取り戻した私を見て、彼は目の前で短く息を吐いた。私は、「そういえば兄がいるとか、兄の恋人がどうとか、そんな話も聞いたことがあったかもしれない」なんてぼんやりと考えていた。

「……そう、なんですね…………そうなんだ…………」

 一気に身体から力が抜け、ふらり、と後ろによろけた私の背を彼が支えてくれる。お礼を言おうと彼を見上げたところで、思ったよりも距離が近づいてしまっていることに気づき、思わず頬が熱くなった。

「あぁ……それよりも、その――お前、今、私のことが好きと言ったか」
「!」

 つい先刻の自分の発言を思い出す。

『……こんな思いするくらいなら――好きだなんて気づきたくなかったのに……!』

 ――言った。間違いなく、この口で。しかも勢いで思わず本音が! ……みたいな様子で。これでは今更嘘だと言ったところで誰も信じはしないだろう。私は自分の顔がさらに熱くなるのを感じながら、「忘れてください」と彼から目を逸らした。

「なっ……何故だ!」
「とにかく忘れてください」
「理由を言え、でなければ絶対に忘れん」

 私を逃すまいと彼の腕には力が入る。理由なんて恥ずかしくてとても言いたくはなかったが、この体勢のまま詰め寄られるのも耐え難い。仕方なしに私は重い口を開いた。

「……こんなふうに伝えるつもりじゃなかったんです、どうせならもっとちゃんとしたかったのに」
「! ……ふ、ふふ」

 一瞬目を見開いてから、彼は心底可笑そうに破顔する。笑いたけりゃ笑え、と諦めのような気持ちでため息を吐くと、彼は笑みを浮かべたまま「いや、すまん」と言って咳払いをする。

「馬鹿にしているわけではない――私も、あの時同じことを考えていたから」
「!」

 ――あの時、というのは、この前のレストランでの……?
 あぁ、ならば、あんなにも眉間に皺を寄せていたのは、機嫌が悪かったとかではなく、やってしまったと後悔でもしていたから……?
 ……今の、私みたいに。

「……ふ、ふふ、変なの、二人揃ってかっこ悪い……」
「ふふ、な? 笑ってしまうのも仕方ないだろう」
「そうですね」

 そうやって二人で笑い合ってから、彼はようやく私から身体を離す。彼はどこか吹っ切れたような表情でまた話し始めた。

「……かっこ悪いついでにいうとな、今日も別に仕事の用事ではないんだ。改めてお前と連絡を取ろうと思ったのだが会社のメールしか知らないことに気がついてな……直接会いに来た」
「お仕事は?」
「無論休みだ」
「でも私は仕事中なのに?」
「む……すまん」
「ふふ、冗談です、ごめんなさい……実は私も、昨日同じことに気づいたばかりです」
「! そ、そうか……同じか」

 嬉しそうに顔を綻ばせる彼を見て、存外私たちは似ているのかもしれないな、なんて考える。私が何も知らず、勝手に穿った見方をしていただけで……
 申し訳ないと思うと同時に、もっとちゃんと彼のことが知りたいと改めて思う。……きっと、彼も今、同じように私のことを知りたいと思ってくれているはずだから。

 これから色々知っていこう――まずは、お互いの連絡先から。

 


「では、改めて交際を申し込むための場を設けたい、週末は空いているか」
「ええ、要りますか、それ……」
「こんなぐだぐだでいいわけがないだろう! ……今度は失敗しないように、もう少し良いところにしておくか」
「あれより……? やめてほしいですね……」