鯉登音之進の場合



06


 そうして、件の水曜日が来て。
 さてどんな顔で彼に会ったものか、いやいや仕事なのだからそんな浮ついた気持ちで向かうのもいかがなものか、そんなことばかり考えて、どうにも仕事が手につかない。
 別に今日お気に入りの香水をつけてきたのは彼に会うからではないし、化粧や髪型にちょっといつもより気を遣っているのだって特段なんのためでもない。強いて言うならそう言う気分だっただけで、本当に他意はないんです。
 何はともあれそんなおのぼせ状態の私であったが、ふと聞こえてきた話し声に、思わず、立ち止まってしまった。

「聞いたか? 取引先の……鯉登さんとこの息子さんが婚約したって話」

 ――冷や水を頭からかけられたみたいだった。誰が? なにを? 話の聞こえてきた方を向けば、先輩方が世間話のように彼の話をしているのが視界に入る。

「らしいな、うちもだいぶお世話になってる会社だし、祝いの品でも贈るかって話してたぜ」
「はー、律儀だよなぁ、うちの専務も」
「な、……というかその婚約者のお嬢さんもめちゃくちゃ美人らしいぞ」
「そいつは美男美女でお似合いだなぁ……」

 そんな、話が、聞こえて来た。

「……きいてない……」

 婚約、なんて――そんな、人がいるなんて、そんな、話――

「――おい、神崎?」
「あ……はい、すいません……」

 ――気づけば私は彼と二人で、いつもの会議室の中にいた。
 ここまでどうやって来たのかも、今までなんの話をしていたのかもよく思い出せない。けれど机に広げられた資料の書き込みを見る限り、仕事自体はきちんと終わらせたのだろう。
 心配そうな表情で彼が私の顔を覗き込む。その切長の瞳と目があって、先ほどの会話をまた思い出した。

『婚約したって――』
「…………大丈夫か神崎、顔色が悪い」

 大丈夫です、と気のない返事を返しながら彼の顔をぼんやりと見つめる。本当に、心底私の体調が気になっているというような様子に、私の胸は酷く痛んだ。

(……こんなに、私のこと気にしてくれてるのに?)

 全部、勘違いなんだろうか。あの時の言葉も深い意味なんてなくて、私が勝手に想われてると思い違いをした? ……いいや、ならどうしてあんなに……やはり何もかも金持ちの道楽だったってこと?
 ぐるぐると仕事とは関係ないことで頭の中が埋め尽くされる。そんな私の思考なんてつゆ知らず、彼は「先日のことだが」なんて話を切り出した。

「その……良ければまた、食事に行ってほしい」
「あ…………」

 つい数時間前までの私なら当然のように首を縦に振っただろう。けれど今はどうだ、彼のその言葉の真意がわからなくて……彼が、わからなくて、私の視界はぐるぐる回る。どうしよう、どうしよう、と考えている間にも彼はそんな私のことを見つめていて――
 ――それが、どうにも苦しくて。

「…………すいません、その話は、また今度――」

 そう言って、今日ばかりはいつもの雑談も交わさずに、私は会議室を後にした。



 彼はきっと、婚約者がいるような身分で他の女に声をかけるような人ではないだろう。
 業務が終わって家に帰り、ようやく冷静になった私はそんな事を考える。短い付き合いでもわかる、あの人は真摯で嘘のつけない人だ。身を固める前に火遊びを……なんて、しようともしないし、できもしないだろう。
 なにより本当にそのつもりだったとしても、仕事で付き合いのある女を選ぶほど馬鹿じゃない。

(でもきっと噂は本当だ、あの鶴見専務が祝い事の準備してるなら)

 彼がいつもベタ褒めしていた鶴見さん。直接の関りはないけれど、鯉登さんがいつもいかに素晴らしい人物なのかを語っていた。そんなにいうなら、きっと、その通りの優秀な人物なのだろう。
 それならば――やっぱり、あの日のことが、嘘?

(だめだ、考えたって答えが出るわけじゃない。ならやっぱり直接きい、て――)

 そう思って、手帳で今月のスケジュールを確認して、そこで――ああ、そういえば、私には|仕事《これ》しか彼に会う方法がないのだと、自分自身の立場を思い知る。

「…………私用の連絡先一つ、知らないんだ……」

 はらりとページの隙間から落ちたのは彼の名刺。そこに載っているのはもちろん業務用のメールアドレスで、私は会社名の入ったそれを震える指でなぞった。
 きっと、とか、だろう、とか、そんなことばかり考えていたけど――そうか、全部、自分のうぬぼれなんだ。だって、本当は彼のこと、何も、わからないんだから。
 だから、きっとあの日感じた好意だって、きっとうぬぼれで――

「………………全然、知らないんだ、私…………彼のこと、ひとつも」

 ぽたりと一粒雫がが手元に落ち、彼の名前を滲ませた。