「恋の終わり、春の始まり」
――ここで待つと決めました。
私は、ここであの人を待つと、決めたのです。
「…………土方さん……」
入れ墨の暗号が解けて、函館の駅に着いた時から、私は一人海辺の宿で彼等が帰ってくるのを待っていました。
「お前はここで待っていろ」
「で、でも、」
「ゆき」
私の名を呼ぶ土方さんは、今までで一番――優しい顔をしていました。
だから私、あの日みたいに「着いていきます」とは言えなくて――
「……わかりました、私、待ちます」
「ああ」
聞き分けの良い子にそうするように、彼は私の頭を撫でる。
私はこうされるのが好きだった、この瞬間だけは、自分がいい子になったような気がするから。……別にこれまでの自分と何が変わるわけでもないのに。
よくやったと褒めてくれるのが嬉しい、彼に頭を撫でてもらえるのが嬉しい。
力強く、そして優しい、彼の手つきが、大好きだった。
(土方さん、)
私、貴方に伝えたいことが。
「わたし……」
……言いかけた言葉を飲み込んだ。今から戦に行くという彼にかける言葉は、きっとこれではないと感じるから。
「――……待っています」
「……ああ」
もう一度だけ同じ言葉を繰り返して、彼の体温は去っていった。物悲しいと感じるのは今だけだと、その時の私は自分に強く言い聞かせていた。
――それから、どれくらい時は経ったのだろうか。
時折響いていた砲撃の音も止み、周囲の家々から顔をのぞかせていた野次馬たちも姿を見せなくなったころ。
彼、が。この宿に帰ってきた。
「永倉さん……!」
後ろには沈んだ面持ちの夏太郎、門倉、キラウシの三人もいるようだった。だった、というのは、正直彼が背負っているその人のことばかりが目に入り、他のことなど気にしている場合ではなかったというのが実のところである。
「……っ! ひ……土方さん……ひどい怪我……! す、すぐ薬を」
永倉さんの背中を赤く染めているのはすべて彼の出血だろうか、とにもかくにも一目で重症とわかる彼の容態に、私は駆け寄りたい気持ちを抑え彼らに背を向けた。早く手当てをしなくては、その一心だった。
「必要ない」
その私の背に永倉さんの静止の声がかかる。呟くような、言葉を溢したみたいな小さな声であったのに、その言葉は私の足をぴたりと止めた。
「必要、ないわけないじゃないですか、だって、そんな、大怪我……」
「良い、……必要ないんだ」
押し殺したような声が聞こえる。多分、夏太郎だろう。うめくような、泣いているような、そんな声だ。
恐る恐る振り向いた私の目の前にいるのは永倉さんと、その永倉さんに背負われている彼……土方さん。ぴくりとも動かないその人の姿を真っ直ぐ視界にとらえながら、私は「どうして?」と震える唇で問いかけた。
「……土方さんは、もう――」
言い淀んだのは彼の悲しみか私への配慮か。しかして続けられたその言葉に、私は目を見開く。
――嘘。
と、声に出せたかどうかすら定かではなく、私は呆然と動かなくなった彼のことを見つめていた。
「て、あて……だって、手当てしなきゃ、わた、私……それくらいしか……だって……」
だって非力な私が彼の力になれるのは、それくらいで。
重い足を動かして、震える手を伸ばす。永倉さんに背負われたままの彼の頬に指が触れ、その余りの冷たさに、私は小さく悲鳴をあげた。
「でも、じゃあ、必要無くなったら……私、なにが……」
ならば、ならば今の私には何ができるのか。
(私には、何も、できないの?)
もう、なにも――なにも、してはもらえないのか。
――ゆき、
「…………なまえも、よんでは、くれない、の?」
――涙と共に、声が溢れた。もうその場にすら立っていられなくて、崩れ落ちる私の視界はひどくぼやけている。
明確な言葉には程遠いその慟哭をどこか他人事のように感じながら、私はただ、これが|そ《・》|う《・》なのか、と、ようやく知り得たその気持ちを噛み締めた。
私はこの気持ちを知っている。父がいつも言っていた、あぁ、何度も、何度も、今でも思い出せる、きっと私も、あの時の父と同じ顔をしていた。同じことを考えていた。
――最期まで、お供すれば良かった。と。
彼の遺体は、永倉さんが埋葬したらしい。
本当は私も共に弔いたかったけれど、それは、多分、永倉さんに任せるべきなんじゃないかなと思ったから、あえて何も手を出さなかった。その後は姓を「杉村」と改め、正式に私は永倉さんの養子となって、彼の勤めを手伝って生活している。
「書き物ですか、おじい様」
「ん、そうだな……京にいた頃のことを、少し」
その呼ばれ方にはまだ慣れんな、と苦笑した彼は、彼が新撰組として生きていた頃のことを手記にまとめるつもりだという。暖かな日差しの中、淀みなく動く筆の先を眺めながる時間が嫌いではなかった。
……一度だけ、金塊戦争のことは書かないのかと尋ねたことがある。
「そうだな」
彼の返事はそれきり。
結局、今の今に至っても彼は二度目の五稜郭に至るまでの話を書くことはなかった。
(これを読むであろうどんな人間にも、伝えるつもりはないということだ)
それはきっと武士の矜恃であり、あるいは秘密の独占であり、はたまた……
「考え事か?」
「ん、そうですね……少し?」
おどける私の言葉に、彼は少しだけ眉間に皺を寄せ小さくため息を吐く。
「暇ならお前も何か書いたら良い」
「何かと言われましても」
「手紙なんかはどうだ」
「おてがみ……」
彼が何処からか白い紙と新品の鉛筆を取り出した。彼の気遣いに苦笑しながら受け取ったそれを見つめていると、「必ず届けなければならないというわけでもないだろう」と何かを想うように目を伏せる。
「それも、そうですね」
それなら。と、私は彼の隣に腰を下ろし、はて手紙の書き出しとはどういうものだったかと思案する。
少し考えて、けれどまぁ例えどんなに可笑しな文章だったとしても想いの込めたものを嗤うような人では無し、と、私は思うままに文字を綴った。
――拝啓、大好きな貴方へ。
息の白む季節も過ぎ、最近ではすっかり温かな日々が続いております。あなたの今いる場所は、どうなのでしょうか。同じようであれば良いなと思います。
きっと私はあの日々を、貴方のことを生涯忘れることはありません。
けれどこれは悲しい意味ではなくて――
貴方が成したことも、ここで生きていたことさえ歴史には残りません。それでも、
――私たちの心には、遺されたものが確かにあるのです。
(土方さん、)
もしまた会えるのなら、そこが天国だろうと地獄だろうと、お伝えしたいことがあるのです。
あの時飲み込んだ言葉を、今度こそ伝えたいのです。
(私貴方の事を、本当に、心から)
――お慕い申し上げております。