恋の話


「悪いな有古、お前まで残らせちまって」
「いえ、構いません、俺で力になれるのなら」

 終業時間をとうに過ぎ、陽もすっかり沈んだ後のオフィスにはもう俺と有古の二人しか残ってはいなかった。なんとか今日中に……と言われていた資料の作成も明日の朝イチの会議の準備も終わり、俺は「今度飯でも奢らせてくれ」と笑いながら有古を見た。

「ぜひ。……というか、珍しいですね」
「なにが?」
「菊田さんなら『これから行こう』と言い出すものかと」
「え? あー……確かにそうかもな……」

 時計を確認する。たしかに今から飲みに行っても明日の仕事には差し支えないだろうし、週中の居酒屋はそう混んでもいないだろう。しかし不思議とそんな気分にはならず、俺は「また今度な」と苦笑いをこぼした。

「……その、もしかして、避けられてますか、俺」

 え。と漏れそうになった声を堪え、「避けられる心当たりがあるってこと?」と聞き返した。少しばかりの沈黙の後、有古は言いずらそうに、はい、と小さく返事をする。

「この間、随分と生意気なことを言いましたから」
「っはは! なんだよ、気にしてんのかお前」
「まぁ、それは……当然じゃないですか」
「そうか、じゃあ、まぁ、気にすんなよ」

 そういうのじゃないから、と手をひらひらさせれば、どこか安心したように有古は息を吐いた。……これ以上可愛い部下を不安にさせるのも忍びないとは思いつつ、俺は今のいままで言うべきか迷っていた言葉を口にする。

「……あのさ、俺も伝えたよ。あいつに」

 静まり返ったオフィスに、時計の秒針の音が数度響いた。有古が息を呑み、瞳を揺らしながら「そうですか」と静かに応える。

「……もう、返事はもらったんですか」
「いや、まだだ。……お前には先に言っておいたほうがいいかと思ってよ」
「それは何故です」
「フェアじゃねぇだろ」
「……そうですか」

 納得したのかしていないのか、有古はそう言ってから自席のモニターへと視線を戻した。どうせもう作業も残っていないだろうに、なにかやり残しでもあるかのようにマウスと視線を滑らせて、「そうですね」と付け加えるように呟く。

「……なぁ有古、お前はなんであいつのこと好きになったんだ?」
「は。……前にも聞きましたよね、それ」
「あー、いや、違う違う。切っ掛けみたいなもんあるだろ? 答えたくなきゃ言わなくてもいいけどよ」

 まぁ、なんとなく? 気になったから。同じように画面上の何かを確認するフリをして、顔は見ないままそう尋ねた。……本当になんとなく、知りたくなっただけだった。

「……あいつは……俺を、俺として見てくれるので」

 意外にも有古は口を開いた。俺は邪魔をしないよう、何も言わずその横顔に視線を向ける。

「……俺の生まれを知った時、大抵のやつは俺を特殊な人間≠ニして扱います、良い意味でも悪い意味でも」

 生まれ、というのは、恐らくこいつがアイヌの生まれであることを指すのだろう。流石に、俺の部下にそれを理由に何か言うような奴がいるとは思いたくはないが……しかし有古の口ぶりからは、きっとそういう奴が少なくはなかっただろうことが窺える。

「でもあいつはそうじゃなかった。心底不思議そうな顔で、『力松もイポプテも、何が違うのか』と……」

 それが俺には、嬉しかった。
 照れたようにはにかむ様子に、俺も釣られて頬が緩む。似合いの二人だと思うんだ、本当に。……俺が引けば、全部うまくいくのにと思うくらいには。

 ああ、いや、そうじゃない。そんなつもりはないんだ。そんな考えはもうしないと決めたはずなのに。

「……菊田さんはどうなんですか」
「えっ、俺? ……いや、いいだろ、俺の話は」
「良くないです、俺だけ言わされるのは、それこそフェアじゃない」

 先ほど自分が口にした言葉を返されれば、どんな言葉も言い訳には足りず……俺も腹を括り、「大した話でもないけどよ」とほんの少し声を潜めた。

「あいつ、よく笑うだろ? それだけ」
「……それだけ?」
「おう、そんだけ」

 もっと言うなら。
 自分に向けられた笑顔が打算や下心のない、掛け値なしに純粋な好意によるものだと気づいた時。
 言葉にしてみれば簡単にも思えるがそんなことはないと俺は知っている。特に、俺のような……歳の離れた上司などは、本人が意識するしないに関わらず、緊張や時には恐怖なんかの感情で顔が強張ることもあるだろう。……それでも彼女はそうじゃなかった。
 休日に街で彼女を見かけた時、隣を歩く友人に笑いかける顔が、俺のよく知る顔だった。そのことに俺は本当に驚いたよ。

(いやぁ、だってさぁ、おかしいだろ。……違うもんじゃねえのか? そりゃ、プライベートと仕事では……)

 そう思った翌日。改めて彼女のことをよく見てみた。仕事中はやっぱり真剣な顔してさ、じっと画面や書類と睨めっこしてるけど……俺とか、有古とか、誰かが声をかけるとパッと花が咲くように笑うんだ。尾形相手の時なんかは、流石にちょっと強張ってはいたけど。
 そういうの見るとさ、なんというか……可愛く思うのは世の常だろ。素直に自分に懐いてくれるやつを、憎からず思うのは仕方のないことだろ。俺の場合、それが行き着くところまで行き着いたってだけで。
 ……まぁ、上司が部下の休日の様子を知ってるなんて気持ち悪いだろうから、こんな話は口が裂けたってしないわけだが。

「まだ何かありますよね、その顔は」
「ええ? ……ははは、なんだよ有古、食いついてくるな」
「俺ばかりが恥を晒しているようで不服ですので」
「そいつは悪かったな。ま、嘘はついてないんだ、許してくれよ」

 笑いながら俺も自身のモニタの電源を切る。帰ろうぜ、と肩を叩けば、素直な返事と椅子を引く音が静かなオフィスに響き渡る。

「……なあ有古、もしあいつから返事が来たら、そん時に飲みに行かねえか? 俺とお前と、……あいつの三人で」

 エレベーターを待ちながら、俺は少し後ろに立った有古にそう声をかける。戸惑うように吐かれた微かな息遣いの後に、有古はつぶやくように言った。

「それはさすがに気まずくないですか?」
「意外だな、お前そういうの気にしないタイプだと思ってたぜ」
「いえ、俺じゃなくて、菊田さんが」
「へえ、なに、今からフラれちまった俺の心配? 優しいなお前」
「……ちょっと楽しんで言ってますよね、それ」
「あ、バレた?」

 軽快な音とともに目の前の扉が開く。無人のそれに乗り込んだ俺たちは会社を出る直前まで似たような軽口を言い合って笑いあった。いい年したおっさんが若者相手に何を、なんてのは、今ばかりはご禁制だ。若者に手を出そうっていうんだから、気持ちくらいは若くなくっちゃあやってられないだろ。

「どっちが選ばれても恨みっこなしだぜ」
「ええ、選ぶのはあいつですから」

 それでは、とあいつが会釈するのに軽く片手を上げ返し、俺はその背中を見送った。……繰り返しになるけれど、いい奴なんだよあいつはさ。
 だから――譲る気はなくても、有古相手なら諦められるよ、俺は。

(絶対、言葉になんかはしないけどよ)

 大人げのない恋に落ちたなら、せめてそこくらいは年長者ぶらないとな。

 たとえどんな結果になっても。