困惑


 彼女は悩んでいた。どうするべきか、なんと返事をするべきなのか、と。
 なにより、有古の言っていた「別の誰か」とは誰なのか……。

「悩み事?」

 終業時間も迫る中、どこか気もそぞろな彼女に声をかけたのは上司である菊田部長だった。彼女はすいません、と慌てたように謝罪を口にし「プライベートなことでして」と有古が近くにいないことを確認した上で付け足した。

「なら仕事の時間外でもよければ相談に乗るよ、今日、飯でもどうだ」

 その申し出に彼女は少し驚いた。彼はその歳にしては珍しく(というのも失礼な話だが)昨今のハラスメントに対してとても慎重な人間である。他の誰かがいる状態でなければ異性の部下を食事に誘うなど、いままではなかったように思う。
 しかし彼女も彼の下についてそれなりに長い、今更二人きりで食事をしたとて有難いと思うことこそあれど不快に思う理由などはなかった。二つ返事で快諾をし、その日は互いに残業にならないよう気をつけようと笑いあった。

 そして夜。
 菊田のおすすめだという居酒屋に連れてこられた彼女は、思いの外しっかりとした店の内装に密かな緊張を感じていた。個室のある静かな店内は、いうなれば恋人達のデートなどで利用されるような……。

「何飲む?」

 しかし慣れたような様子でメニューを手に取り、俺のおすすめは……と話し始める菊田を見て、ほう、と感心するようなため息を吐いた。流石、彼はきっとこのような店にもよく来ているのだろうと納得し、社内で流れている彼の女性関連の噂の一体どこまでが真実なのだろう、と、そんなことまで考えてしまっていた。

「摘めるもんは適当に頼むか……食えないもんはなかったよな?」

 こくり、彼女は首を縦に振る。それを見た彼は満足そうに微笑み、呼び鈴に手を伸ばし店員を呼んだ。メニューの内容を把握しているのか悩むことなく五、六品を伝え、最後に「あと灰皿も」と付け加えて青年の背中を見送った。

「とりあえずお疲れ、乾杯」

 早々に運ばれてきたハイボールをお互いに交わし合い、カン、という小気味良い音と共に笑みを浮かべる。そこからしばらく運ばれていた料理に舌鼓を打っていたところで、話を切り出したのは菊田の方だった。

「あのさ、お前が今悩んでるのって、有古のこと?」

 どきりとした。どうしてそれを、と声を震わせると、彼は少し困ったように笑いながら「あいつから聞いたから」と目を伏せる。
 ではなぜ、有古はそんな話を、この人に? そう疑問を抱いたところで彼女はハッとする。膝の上に置いた左手を握りしめ、あの日の有古の言葉をもう一度思い出した。

『――他にもお前のことが好きな人が……』

 いや、そんな、まさか。

「………………タバコ、いいか」

 しばしの沈黙の後、菊田は黙り込んだ彼女の目の前で開封済みの箱を左右に振った。硬い動きで頷いたのを確認し、彼は遅鈍な動きで取り出したそれに火を着ける。
 ふぅ、と吐き出された煙が空気に混じり消えていくのを何度か見送った後……また、口を開いたのは菊田の方だった。

「俺もな、好きなんだよ、お前のこと」

 あいつには先越されちまったけど……と目を伏せた彼の表情は、煙に隠れて不明瞭だ。その上わざとらしく何度も口に運ぶタバコとそれを持つ大きな手が、彼の表情の大半を覆い隠してしまっている。彼が何を考えてそれを口にしたのか、そもそも本気なのか、全てが彼女にはわからないことだった。

「……もう答えは出たのか?」

 彼女は首を横に振った。

「じゃあ、俺にもまだチャンスはある?」

 彼女は「はい」とも「いいえ」とも言えず、困ったように目線を彷徨わせる。

「……俺も今すぐ答えは聞かないから……考えてくれると、嬉しい」

 最後まで男の顔色はわからず。彼女は依然、頭を悩ませたまま――長いままのタバコが、じゅう、と音を立てて消える音が、やけに耳の奥に残るようだった。