尾形 百之助


「一晩でいい、何もしない。ただ一畳分、寝る場所があれば、それで」

 差し出されたのは一晩の宿にしては多いと思える金銭。片目を失くしたらしい軍服の男は、うちを訪ねてくるなりそんなことを口にした。

「まぁ…はぁ……」

 はいともいいえともつかぬ私の返事を肯定と取ったのか、彼は「邪魔するぜ」と言ってズカズカと家の中へ入ってくる。平時であれば誰ぞ大声で呼びつけて、官憲の方々にしょっぴいて貰うのだけれど。
 何故かその、そういう気にもなれなくて。

「へぇ、人は呼ばねえのか」

 それが彼にとっても意外だったのか、どこか機嫌の良さそうな怖色がそんな言葉を紡ぎ出した。なんだか揶揄われているようでムッとしたが、「では呼んでも?」と不愉快さをそのままに返せば「それは困るな」なんて笑われてしまう。

「このお金でお宿でもとられては?」
「……訳ありだよ、わかるだろ」
「まぁそうでしょうね」

 だからと言って、ならば何故この家に。私は戸口の外に怪しい追っ手でもいるんじゃないかと少し警戒しながら外に顔を出す。特に不審な影もなく玄関を閉め切った私の背後から、「あんた、表の宿の女将だろ」と男の声がした。

「よくご存知で」
「まぁな、……何度か来たことがある」
「あら……それは失礼致しました」

 こんな素敵な・・・殿方、一度見たら忘れないと思いますけど。……そういえば、ガタイの良い背広姿の男性と共に、軍服姿の青年も何度かうちの宿を利用していたかもしれない。その軍人さんは流石に、両目揃っていたはずだと思ったが。
 我が物顔で火鉢の前に座り、解けかけた包帯を巻き直す彼の目元をじっと見る。そこにあるはずの眼球が見えないのがなんとも、不気味ではあるが痛々しくもあり、私はそれを見てしまったことを少しだけ後悔した。

「……本当に追い出さねぇんだな」

 残った方の左眼が、私をじろりと見上げている。なんと答えたものかと一瞬戸惑うが、なにも誤魔化さなければならないことがあるわけでもなし、私は素直に「気まぐれですよ」と伝え仕方なしにと来客用の寝具を探しにその場を離れた。

「やっぱりな、読みが当たった」
「読み?」
「そこの女将は金に目がないってね、……どっかで聞いた。だからもしかしたら気まぐれ≠煖Nきるんじゃねえかってな」
「……それは……随分と失礼な噂をご存知ですこと」

 客間を整えて戻れば嫌味な顔で青年はそう告げる。今からでも本当に追い出してやろうかとも思ったが、寒さで丸まった姿が小動物を想起させ、流石に可哀想かと思い止まる。正直、こんなに怪しい男相手に同情なんて馬鹿馬鹿しいし、通報した方が良いとはわかっているのだ。
 ……わかってはいるのだが。

「はぁ……」

 結局そのまま一室を貸してしまい、何事もなく翌朝に。自分は何をしているんだと正常な判断が戻ってきたあたりで、「世話になったな」と玄関口で靴を手にして今まさに立ち去ろうするか彼の言葉が耳をついた。

「ええ、ええ、そうですね、なんのお構いも……ああ、ちょっと兵隊さん、その靴」
「ん……」

 彼が手にしていた彼自身の靴底を指差した。寿命がとうに来ていたのだろう、べろりと剥がれたそれはちょっとやそっとでは修繕できそうにもなく、男はそれに気づくと不愉快そうに眉を顰める。

「それではここを出ていくのも大変でしょう。……仕方ありませんから、こちらを」

 私は彼の横に、彼のものではなく私が部屋の奥から引っ張り出してきた靴を並べる。

「軍靴じゃねえか、なんでそんなもん持ってんだ」
「……忘れ物ですよ、以前居た方の」

 彼はこの家にある軍服の男の写真を見ただろうか。あげられた線香と、この靴の意味を、理解するだろうか。

「……へえ、俺に貸していいのか」
「ええ、貸す、だけですから、きちんと返してくだされば」
「ふうん……——まぁ、気が向けば、そうするさ」

 あの人の靴を履き、軍服の彼は私の元を去った。その背中がやはりどうしても帰ってこなかったあの人≠想起させ、私はひどく痛む胸を押さえ込む。

(つい、つい家にあげてしまったけれど、話してみたらやっぱり、違う人だって理解したはずなのに)

 それでも、もしかしたら、と。つい見知らぬ男に面影を求めた私に、あの青年は気づいていただろうか。

(顔なんて、似てるか似てないかもわからなかったわ、だって、半分しか見えなかったもの……)

 あの靴を返しに来た時は、きっとその包帯をひん剥いてやろう。そうして、やはりあの人ではなかったと悲しんで、それと同時に「この人は帰ってこれたのね」とまた別の帰還を喜ぼう。きっとそうすることで埋まる穴もあるのだから。
 ——きっと、そうしよう。