ロマン・ステイ

 髪を撫ぜても頬に触れてもぴくりともしないナマエは肌触りの良いシーツに包まれて規則正しい呼吸を繰り返している。
幾らか無理をさせてしまっただろうかとほんの少しの申し訳なさは感じるものの、この溺れるような一夜に対する後悔など彼は微塵も持ち合わせてはいなかった。

 結局閉め忘れたカーテンはそのままに窓の向こうへ視線を向ければ、まだ薄ぼんやりとして明けきらない空が伺えるもののそれも直に白んでくるだろう。そんな気配が漂う時間帯だ。
 名残惜しいなどと言っていられる時間ももう僅か。
隣に眠る彼女のあどけない寝顔に後ろ髪を引かれながら、マルコは2人の体温ですっかりぬるくなった寝具からゆっくりと身を起こすのだった。

 マルコが部屋を出たその数時間後に目覚めたナマエは大きくあくびをしたかと思えば、ベッドの上でまるで猫のように背を仰け反らせて「よく寝たなァ」なんて一人ごちた。
何となく身体に鈍い違和感を感じながら、しんと静まり返る室内を見渡して人の気配がないことを悟る。
ああ、あの人はもう行ってしまったのだろう、と。

 途中で寝落ちする程酒を飲んだのはいつぶりか。そもそも旅に出てよりそんなことが果たしてあっただろうか。
ナマエの記憶の大まかな部分はバーで自身の名を名乗ったところまでだった。ご丁寧に部屋まで運んでくれた上に、支払いも全て任せてしまったのだろう。チクチクと感じる罪悪感はもちろんあるものの、「ま、過ぎたこと気にしても仕方ないしね」と彼女の切り替えの速さは一級品だ。

 シーツを身体に巻き付けてバスルームへ向かう途中、卓上メモに「時間は気にせずゆっくりしていけ」なんて一言のみの走り書きを見つけて思わず笑みが溢れた。
 チェックアウトの時間にはまだ少し時間があるからと、ならばお言葉に甘えてのんびり湯船にでも浸かろうかなんて考えながらシーツを落とした先…全身鏡を見てナマエは固まった。


「は…え…な、何これ…」


 そこに映った自分自身に…というより胸元にいくつも散りばめられた鬱血痕にしぱしぱと瞬きをして記憶を手繰り寄せると、ダムが崩壊したかのように思い出される昨夜の情事に彼女は大きな溜め息をついた。
それならこの身体の怠さも頷けると納得して胸元を撫ぜる。
 説明しておくと何も彼女はそれが不快だったわけではない。先程の溜め息はそんなことを忘れていた自分への呆れからだった。むしろ決して良い出会い方ではなかった女をあんなにも丁寧に抱いてくれたことに幾許か嬉しささえ感じたくらいだった。

 思い返してみてもあの不死鳥マルコは世間一般で言うW海賊らしさWなど感じさせない男であった。言葉遣いにしても態度にしても、酒の飲み方一つとっても荒々しさなど感じない出来た男だったと思うのは少しばかり贔屓目に見すぎているだろうか。そうは思っても彼女の中で答えは「否」だった。
思い出など作らない、過ぎたことは気にしない主義のナマエが「一期一会で終わらせるには少々勿体なかった」と思うくらいには、彼女の中でマルコとの邂逅は良いものだった。


「お礼の一言くらい受け取ってくれたら良かったのに」


 きっともう会うことはない。だからと言ってわざわざ会いに行こうという気もない。住む世界が違うのだ。二人の道は普通であったら交わらない。それが何の因果か一瞬だけ重なった。ただそれだけのこと。そこに後悔なんて存在しない。それは間違いなく彼女の意思だった。
 ちゃぱちゃぱと湯船に肩まで沈めて目を閉じる。それならば、初めてW思い出Wとして記憶に残しておこうと彼女は思うのだ。そうしてたまに、本当にたまに思い出すのも良いかもしれない、と。
 
 チェックアウトギリギリまでゆっくりと寛いだナマエは気分良くホテルを後にした。
昨日購入した次の島へ渡る船の時間まではまだ十分に猶予がある。またあの酒を調達すべく酒屋へ足を向けると、店主は「昨日も贔屓にしてくれたから」と数本おまけを持たせてくれた。少々重くなる荷物など気にもならない。良い気分のまま向かったカフェで昼食を摂り、昨日から引き続き盛り上がる街並みを窓越しに見つめた。
 海賊の…しかも四皇がナワバリを敷く島だというのにその平和な景色と言ったら。
脳裏にありし日の故郷が思い浮かび、すぐに首を振って頭から追い出した。比べる物ではない。




 瑞々しく胸の躍るような、春と夏の混ざり合った匂いのする島での些細な夜咄だ。
もう慣れてしまったくらいには何の変哲もない、たまに訪れる一夜の戯れ。彼女にとっては道端の石ころを眺めるくらいの感覚ではあるけれど、どうしてだかあの出逢いを忘れられないのはそれがただの石ころではなくて、ルビーやエメラルドみたいな価値のある石ころだったからかもしれない。

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I don't know