それに答えてはいけない
わたしは今春めでたく受験に合格し、その厳かな門を潜ったばかりのぴかぴかの女子大生である。
それこそサークルや同好会というものに参加してはいないけれど、友人関係やバイト環境にも恵まれ、至って普通の大学生活を謳歌している。
先日行われた定期試験でもレポート含めオールクリアし順風満帆な前期を終え突入した夏休みの今、バイト浸けの毎日を送る――筈であったというのにどうしてわたしはまだ大学校内にいるのだろうか。
それは遡ること1週間前のことだった。
最後の試験科目を終え、友人達と試験会場であった講堂を後にしたわたしはバイトやら用事やらに時間を追われる彼女達と別れて一人学内の図書館へと足を進めていた。
面白そうだと履修した民俗学の最終評価がレポート提出だったので、いくつか参考にしようと借りていた資料を返却する為だった。
試験期間も終盤、しかも今は昼休みに当たる時間である。学部棟の最奥に位置するその場所は何となく薄暗く、普段からも人通りは少ないがこの日は特に人を見かけない。
何なら蝉も鳴き始めた真夏の今時分、エアコンが効いているわけでもないのにどこか冷んやりとする廊下が薄気味悪いと感じたのは今回が初めてではない。
早く返却して自分も帰ろうと、止まっていた足を進めようとした…その時だった。
「図書館に用事?」
「ひッ…!」
いきなり真後ろから掛けられたその声に盛大に驚いたわたしは手に持っていた数冊の本をバサバサと取り落として固まる。
先程まで人の気配など微塵も感じなかった。誰、一体いつからそこにいたの。聞きたいことは喉を通って声になってくれない。それどころか指一本動かせないわたしに、後ろの男が隣に並ぶ。
身を屈めてわたしが落とした本を拾いながら「驚かせちゃったね、ごめん」と言いつつこちらを見上げた彼の顔を見て、わたしは今度は別の意味で言葉を発することが出来なかったのだ。
「へぇ。名字さんも民俗学取ってたんだ」
「うん。完全にフィーリングで選んだけど、わりと面白くて」
所変わって学内のカフェテリアにて。
現在、わたしは先程度肝を抜かされた彼――赤葦京治くんに誘われて優雅にティータイムを楽しんでいるところである。
え?どうしてこうなったかって?そんなのイケメンだったから意外に理由ある?(真顔)
長身、程良い筋肉、少し癖のある短髪にキリッと意思の強そうな目尻、それに溢れ出る色気…え、何て目の保養?ご馳走様です。
…なんて考えていることなどおくびにも出さずに微笑を浮かべるわたし。自分で言うのもなんだけど本当怖い女だよ。
移動してくる間に自己紹介を済ませると彼も同学年だと言う。そしてわたしと同じく図書館に用があったのだが、本日は休館日らしく閉まっていたので引き返してきたところでわたしを見つけて声を掛けてくれたらしい。とても親切な人だなと思うと同時にちょっとした違和感があった気もしたけれど、首を傾げてわたしを見やる彼に心拍が上がってそれどころじゃなくなった。イケメンこわい。
「そういえば名字さんってサークルとか所属してる?」
「ううん。何もしてないけど」
「そうなんだ。そういうの興味ない感じ?」
「うーん。そういうわけじゃないんだけど、あんまり惹かれるものがなかったというか…」
「じゃあ絶対に入りたくないってわけじゃないんだね」
ぎらり、と赤葦くんの瞳が光る。
けれどこの時のわたしはマドラーでアイスコーヒーをかき混ぜていた為それに気付くことはなかった。ここでその妖しい眼光に気が付いていたら、もしかしたらわたしの未来は少し違ったものになったのではないかと思うけれど、そんなの後の祭りだ。
赤葦くんはゆったりと話を続ける。
「学生自治会って知ってる?」
「あ、うん。何となくだけど、高校で言うところの生徒会みたいなものって認識で合ってる?」
「うん、概ねはそう。ただうちの場合は大学側からの拘束はなくて学生が自主的に活動している組織でね。自分達で学校生活をより良く出来ることを探して実行するのが活動内容だから、結構活動の幅は自由なんだよね」
「へえ。というかうちの大学にもあるんだね」
学生自治会の活動内容はその学校により様々であり、尚且つそういう団体がない学校もある。勿論わたし自身、自分の大学にそのような団体があることを初めて知ったので少し驚いた。
だがそれが何だろうと思えば赤葦くんの次の言葉で更にわたしは驚くことになる。
「俺も所属してるんだけどあんまり知られていないからか人が足りなくてさ。名字さん、もし良かったら一緒にやってくれないかなって思ったんだけど、どうかな?」
「わ、わたし?!」
突拍子もない話だった。
つい先程出会ったばかりの人にこんな誘いを受けるなど微塵も思っていなかったのだ。
パッと彼の顔を見上げるとそれはそれは綺麗な笑みで頷く赤葦くん…ウッ本当にイケメン!…ってそうじゃなくて!
「何でわたしにそんな勧誘を?そういうのってちゃんと仕事が出来る人の方が良いと思うんだけど…」
「民俗学って教授の話だけでレポート書いてもA判定貰えるって有名な授業でしょ?なのにわざわざ図書館で資料探して書いてるような子にきちんとした印象を持つのは当たり前だし、それに」
「?」
「俺が、名字さんと活動出来たらきっと楽しいんじゃないかと思ったんだけど…そんな理由じゃ駄目、かな?」
凛々しい眉を下げ、薄い笑みを携えた彼がこてり、と首を傾げる。そのだだ漏れる色気を放つイケメンにそんなこと言われたらもう…どうか想像して欲しい。そして悶えて欲しい。わたしはもう悶えている…!!!
…で。その後どうなったかって?そんなの頷かないわけなくない?もうほとんど無意識だったけど。
そのまま赤葦くんと無料トークアプリのIDを交換していつの間にか家に帰って、そこから数日後にその彼から届いたメッセージによって冒頭に戻るというわけだ。
既に夏休みに入り誰もいない学内のバスターミナルを抜け、指定された学部棟へと足を向ける。ジリジリと肌を焼く太陽と鳴り響く蝉の声に ああ夏だなぁ なんて思いながら近道である中庭を横切った瞬間――いきなりわたしを襲う得も言われぬW違和感Wにふと足を止めた。
蝉の鳴き声が聞こえないのだ。さっきまで煩いくらいに聞こえていた、蝉の声が。
それだけじゃない。肌を焼く太陽の光が翳り、暑さも、ぬるい風の感覚すら感じない。
――なぁ、こんな話知ってる?
動揺するわたしの耳を掠めた、そんな一言。
バクバクと心臓が嫌な音を立てている。何だこれ、何だこれ…!
息が荒くなる。嫌な汗がこめかみを流れて顎を伝う。肌が粟立つ感覚が気持ち悪い。
恐る恐る視線だけで周りを伺えば、気付いてしまった…わたしの真横に、何かがいる。
気付いたらわたしは走り出していた。
どこへ向かうわけでもなく、ただ呼吸を乱して何かから逃げていた。
どのくらい走ったのかわからない。今、自分がどこにいるのかもわからない。見知っている筈なのに知らない景色…それがいつの間にか完全に知らない景色に変わって、わたしの視界はとうとう暗転したのだった。