理解を求めてはいけない
おかしい。わたしはつい数秒前まで確かに真昼間の大学校内にいた筈だ。だというのにここは何だ。
覆い茂る木々、膝下まで伸びる雑草、そして極め付けは枝葉の境目から漏れる月明かりと無数の星々…そう、文字通りわたしの視界は暗転したのだ。どう考えたっておかしい。これじゃあまるで…。
「夜の森の中だ…」
言葉にしてその事実がじわじわと指先から蝕んでいく。ありえない、ありえないありえない…こんなの絶対におかしい。
だというのに頭の中はどこか冷静でいて、聴覚は虫の声や遠くの方で梟の鳴き声を捉えている。それが何故かわたしにちぐはぐな安堵を寄越してくるのだ。ああ、ここにはW音Wがあると。
だがそれが何だというのだ。いきなり移り変わった環境の方が恐ろしいに決まっている。
頭を振って切り替える。どうしてこうなったかはわからない。神隠し、超常現象…そんな非現実的なことは考えられなかった。そこで頭を過ぎったのは「熱中症か何かで倒れて夢を見ている」という説。
それならば目が醒めるまで何をしようか。ここでずっと星を眺めているのも悪くはないけれど…なんて考えて、ふと聴覚がこれまで聞こえていたものとは違う声を拾った。
――おぎゃあ!おぎゃあ!
こんな所で聞こえる筈のない赤ちゃんの泣き声…そんなのどう考えたっておかしいに決まっている。
肌が粟立ち、心臓がおかしなくらいに暴れている。嫌な予感しかしない。
それでも確認しなければ。そう考えるわたしの頭からは先程立てたW夢Wという仮説はとうに消え去っていた。
足を進めれば泣き声に近付く。あと少し。たぶん、この茂みの向こう。
がさり、と両腕で茂みを掻き分けて見渡すと、そこは今までと同じような景色が広がっているだけ。
連なる木々とその奥の闇を見渡していれば。
「おぎゃあ」
WそれWは俯くわたしのすぐ頭上で聞こえた。
どうしてそんなところに?木の上にいると言うの?そんなところ危ないじゃない、と声につられて視線を上げて。そうして、呼吸すらも忘れる。
だってその赤ちゃんの泣き声は…WそれWは…
「オギャー」
わたしを見下ろしている、理解の範疇を超えた大きさの梟から発せられる鳴き声だったのだから。
再び世界が暗転した。いや、あれは文字通り気絶したというのが正解だろう。
キロ、とわたしを捉えたあの猛禽類の瞳孔が脳裏に焼き付いて離れない。がばり、と起き上がったわたしは瞬時にそれを思い出して荒い呼吸のまま必死で辺りを見回した。幸いそいつはどこにも見当たらなくてようやく一息ついたものの、冷静になった頭でもう一度視線を上げて眉を寄せるハメになる。
周りは闇。森の気配はない。ただ真っ暗な空間が広がっていて、聴覚は何も捕えない。ただただ自分の呼吸音が耳に木霊する。
状況を理解したくて、でも理解したくなくて。夢であれと念じれば念じる程頭の中がクリアになっていく。
とうとうしゃがみ込んで両手で顔を覆った、その時だった。
「ねぇ、どうしたの?」
突如頭上で聞こえた声に「ひッ」と息を飲んで尻餅をつく。今度は何だと、がばりと顔を上げれば、そこにはキョトンとした表情で首を傾げる少年が一人。「ダイジョーブ?」と手を差し出してくれる子を前に冷静な自分が幾らか戻って来て「ありがとう…」とその手を取れば、色素の薄いミミズクのような髪をした彼はにっこりと嬉しそうに笑った。
「なーなー、姉ちゃんこんな所で何してんの?ここ、何もなくてつまんないだろ?」
「ごめんね。わたし、どうしてここにいるのかよくわからなくて…。君はここで何してたの?」
「ん〜。俺もよくわかんない!気付いたらここにいたんだよな〜」
それはわたしと同じ、ということだろうか。
不思議そうに悩む彼に親近感を覚えて「ここに来る前は何をしてたの?」と聞くと、彼は先程までの天真爛漫な笑みではなくて、少しだけ悲しそうに笑って「俺、要らない子だったみたいなんだ」と言った。
それはどういう意味だろうか。親と喧嘩してしまったのか。それはそれで親が子どもに言って良い言葉じゃないだろうと憤りを感じていれば、彼は耳を疑う言葉を続けたのだった。
「俺が産まれちゃったから、家族みんな食い扶持に困ったんだって。だから殺されちゃったみたい」
「…それ、どういう、こと」
「俺が一人いなくなれば何とかやっていけるってさ、二人とも悲しそうな顔してた。それだけは覚えてるんだけど、それからどうしてここにいるのかはわかんないんだよね」
「殺されたって…でも君、今ここにいるじゃない…」
「ん〜じゃあ、姉ちゃんも死んじゃったの?俺、てっきりここって死後の世界だと思ってたんだけど」
「え…」
鈍器で殴られたような衝撃が走る。冗談はやめてと言いたかったけれど彼の目は、表情はそんな風に見て取れない。
呑気に「せっかくならテンゴク?って所に行きたかったのになー」なんて唇を尖らせる彼と、自分が死んだかもしれないという仮説を天秤に掛けて、腹の中でぐるぐると思考を巡らせる。
考えたくない。嫌だ。気持ち悪い。何でこうなったの。何で、何で何で何で…。
ぴくりとも動かなくなったわたしに「姉ちゃん…?」と呼びかけてくれる彼は優しい子だ。でも、今はどうやっても反応する気力もない。頭の片隅で ごめんね と思いつつ、自分のことで精一杯のわたしは実に情けない大人だと思う。
まだやりたかったことがたくさんある。わたしの未来はもっと続いても良かった筈だと考えて、ふと目の前の少年のことを考える。わたしよりももっと歳下の彼には、わたし以上に先の未来があっただろうにと。なのにこんなに明るく、今さっき初めて会ったばかりの他人のことを思いやれる彼はもっと生きるべき人だったのではないかと。
顔を上げて彼の目を見て、ふと出て来たのはこんな言葉だった。
「ねぇ、君、名前は?」
「おれ?こうたろう!姉ちゃんは?」
「名前だよ」
「名前ちゃん!」
「こうたろうくん、ここがもし死んじゃった人が来る場所で、天国でも地獄でもなくて、もう他の誰にも会えないとしたら…一緒にいてもいいかな?」
金色の瞳が見開かれる。
初めて見る表情をする彼は「名前ちゃん、俺と一緒にいてくれるの?」と小声で呟いた。
それがどこか彼には似つかわしくなくて、さっきのようなお日様みたいな笑顔でいて欲しくて、笑顔で大きく頷いて見せるとこうたろうくんはキュッと唇を引き結んで俯いた。
「名前ちゃんは俺のこと要らない子って言わない?」
「言わないよ」
「ずっと一緒にいてくれる?」
「うん。ずっと一緒にいよう」
「俺ね、本当は…ずっと一人で寂しかったんだ…」
眉を寄せて笑う彼を引き寄せて腕の中に閉じ込めた。もう一人じゃないよ。死んでしまったと言うのならいつまで一緒にいられるかはわからないけど、どちらかが消えてなくなってしまうまでずっと一緒にいようと、自然と声が出ていた気がする。
こくこくと頷く彼に「わたしも一人は寂しいから…」と本音を呟けば「名前ちゃんは大人のくせに」と笑われて。