しらんぷり


そばと書かれた看板が目に入って、私はとある男を思い出した。かつての高校の同級生で、今をときめく人気絶頂のアイドル。
そういえば今お腹がすいていたんだった。色々用事があってこんな遅い時間になってしまったけれど、やっぱりなにかお腹の中に入れたい。
このお店、女子大生が入るには色気が足りないけれど雰囲気はかなり良さそう。そう店内に迷わず入ればそうするなり、湿気を含んだあたたかい風が私の頬を撫でる。まあ、麺類を茹でているのだから仕方ないのだろうけれど____そのまま店の奥に視線を運ぶと、私は目を見開いて固まる。


「は?」


向こうも同じように固まっていた。
先程思い出した、あの顔がそのままそこにあったからだ。相変わらず整いすぎている。神様は不平等だ、だとか現実逃避を始める脳内で、私はある情報を思い出した。
あの人って親が芸能事務所の社長さんで、アイドルとしてデビューしたんじゃなかったっけ?
うん、じゃあこの人は別人だ。無理やり結論づけるがそれでも、混乱して頭の追いつかなかった私は尋ねずにはいられなかった。


「____八乙女楽?」


呟いてからの妙な沈黙が痛い。1秒ほどのあいだでさえ耐えきれず、私はなんでもない顔で言い直した。


「いや、あのTRIGGERがこんなとこで働いてんなんてないか。店員さん、季節の天ぷら蕎麦お願いします」

「いえ、はいよ。よく似てるって言われるんで、気にしないでください」


声まで似てる、と言おうとして、せっかく向こうも話してくれるようになったのにまたさっきの沈黙が訪れたらこわいので口を噤ませてもらうことにする。
妙に手馴れたふうに伝票を取ると彼はそのままカウンターの奥の女性に注文を伝えに行くのだった。


いやあ。さっきの出前の量凄かったな。社会人になれば珍しくなんてないのだろうけど、なんて思いつつスマホを持ちながら時間を持て余すこと数分。お客さん、とあの声で言われて私はゆっくりと顔を上げた。


「季節の天ぷら蕎麦と、こちら伝票です」

「ありがとうございます」


軽く微笑んでお盆が置かれるスペースを空ける。そこに少しだけ音を立てて蕎麦が置かれると湯気と一緒に私の鼻にふわりと香りが届き、それが空腹感を刺激する。
意気揚々と箸を手に取ろうとするけれど、真上からの声に私はその手を止めた。


「八乙女楽のこと、知ってるんですか」


何をいまさら、そんなおかしな質問、と思ったが追及するのも野暮ったいと思ったので私は頷いて話し始める。


「……まず普通にTRIGGERですし、実はここだけの話高校の同級生なんですよね。クラスが1回同じになったくらいの仲ですけど」


箸を器の前に置き直す。すると私の話に興味を示した彼がまた私に質問を重ねる。


「へえ、どんな人だったんですか?」


まあ、芸能人の高校時代の話なんて、誰にでも気になるか、と思いながら少し考えてから返事をする。


「八乙女楽って顔がいいじゃないですか、とんでもなく。それに親が芸能事務所の社長。そのせいかかなりひねくれてましたよね。自分に近づいてくる人全員がそういうの目当てだとか言いたいみたいな感じに」

「……よく、見てたんですね」


少しだけ黙って、お冷を飲む。この目の前の人に言ってやろうかどうか迷ったけれど結局私の口から勝手に零れ落ちた。


「まあ、好きでしたし」


息を呑む音が聞こえたけれど、私は構わずにしゃべり続ける。昔からクールに見えてちょっと熱いところが、なにかに夢中になると視界が狭くなったりするところも。片思い中のエピソードをぺらぺら矢継ぎ早に話していく。
思えば本当に自分の意思で人を好きになったのは彼が初めてかな、ということまでも。


「時々できてた彼女とかにも、ちょっとそういうの疑ってたみたいで全然長続きしてなかったですね」


そこで私はやっと彼の方に目配せした。頬をほんのり染め、目を見開いて驚きを隠せないといった表情に、あのたまたま見かけたドラマでの名演技はなんだったんだろうと私は笑いかけた。


「ねえ、八乙女」

「あ、ああ」


だって、ただのそっくりさんで本当に慣れてるっていうのなら、わざわざ私なんかに知ってるんですかだなんて聞かないよね?

返事をした彼を思いっきり笑い飛ばしそうになるけれど、堪えて少しだけ吹き出すまでにしておく。ボロ出すぎ、と思っていると彼はやっと自分の失態に気がついたようでまた目をまん丸にした。灰色の瞳が動揺からか泳いでいるのがわかり、私はもう一度笑ってしまいそうになる。
これ以上は可愛そうだと思って私は軽い口調で箸を今度こそ手に持った。


「……いや、やっぱなんでもないです。あなたが八乙女楽だったら本人に告白したことになっちゃうし」

「っ、おい」

「あ、ごめんなさい、もうそろそろ蕎麦伸びちゃうし、冷めちゃうので食べますね。店員さん、お話に付き合ってくださってありがとうございました」


私は食い気味に言い切ると、ひたひたの天ぷらに手をつける。軽くて香ばしそうな部分はもう見当たらないけれど、私はこういうのも別に嫌いじゃない。
何をいまさら。今度は自分の発言にそう思いながら出汁が垂れないように気をつけつつ野菜のかき揚げを口に運んだ。


食べ終わりお会計をしようと立ち上がると、素早くレジに彼が向かう。手早く会計を済ませ、お釣りも出ないようにするとレシートを渡されそうになる。


「レシートいいです、捨てといてください」

「……またのご来店、お待ちしております」


いらないという意志を伝えて財布をしまおうとすると、少しだけ眉を下げてこちらに笑いかける。
今まで見たことのない表情に若干焦るが、湧き上がってきた感情すべてを包み隠すように私は微笑んでみせた。


そばの味は申し分なかった。多少伸びていても美味しかったし、優しい出汁とそば粉の香りは私の疲れをだいぶ癒してくれたのだと思う。

でも、と私は先程の顔を少しだけ思い出す。あんな顔しないでもらいたかった。自分が八乙女楽じゃないって言ったんだから、そういう態度でいてほしかったのに。

……来るわけないでしょ、馬鹿。

もうこののれんも潜らないだろうな、なんて思ってから私はそば処を後にする。
少しだけ胸の中で浮上してきた甘酸っぱい記憶と、ありがとうございました、なんていう後ろからの声に少しだけ振り返りたくなったのは今回の件と一緒にまるごと墓まで持っていくことにしようかな。

歩き出してみるとまばらに軽い雨が降っていることに気がつく。ちょっとだけ戻って雨宿りでもさせてもらう、だなんて考えが出てきたのはよっぽど高校の時の私は彼が好きだったのだということにして、それからは雨の中を構わず少し早足に歩いた。

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