夏油と極ノ番 後篇
「よお」
手術室の扉が開かれて顔を上げると非術師の医師達に紛れて出てきた硝子の姿を見かけて長椅子から腰を浮かす。
「硝子…!」
「生きてる」
「…そう、か…。そうか……よかった…」
「お前の方がよっぽど死にそうな顔してるよ」
「……うるさいな…」
ずっと聞きたかった一言に気が抜けて、脱力したかのように長椅子にまた腰を下ろした。
「お前が杭をひっこ抜かなかった判断が正しかったな」
そのセリフを聞いては無意識に自分の手のひらを眺め、思い出す。
…今でも鮮明に覚えている。冷たい雨に打たれながらぐったり自分に身を預ける彼女の体の感触を…。その感覚を掻き消すように手のひらをぐっと握り込んだ。
「損傷した臓器は全部反転で直した。ただ…出血量が酷くてな。今輸血してるところだ。目を覚ますのはまだ先の話かもな」
「……ありがとう硝子」
横に倒れてしまいそうな体をどうにか持ち堪えるため、両膝に肘をつけて頭を支える。そのまま何も言えずにいたら隣にいた悟が代わりに口を開いた。
「…抜いてたら死んでたのかよアイツ」
「ほぼ確実にな。血がだっぱだぱ出て止まんなかったと思うよ」
「うっへぇ」
「…夏油」
硝子の呼びかけに視線だけを持ち上げて反応を示す。どうせ硝子のことだ、私が参ってる姿でも見て「珍しいモンが見れたよ」とでも言うんだろうな。
「お前、なんで高専まで呪霊で帰ってこなかった?」
思っていたものとは違うセリフに目を見開いた。
「緊急を要する事態なら呪霊で帰って来れば良かったじゃねーか」
呪霊…か。目を瞑り、体の奥底にいる気配を探る。いつもなら感じるそれらの気配は微塵も感じ取れなかった。
「……手持ちの呪霊をね…一体も残らず使い切ったんだ」
「は?使い切った…?マジ?」
「夜蛾センに聞いたよ。特級を跡形もなく消し去ったらしいな。……何したお前?」
「…極ノ番、なるものを得た気がする」
「マジ?」
無我夢中で曖昧になってしまった記憶の糸を手繰り寄せる。
呪霊操術で取り込んだ呪霊を一度に複数体取り出すことは何も珍しいことじゃなかった。今までにも何度かそういう戦い方をしてきたことがある。ただあの時は後先何も考えずに丸ごと全て一度でぶつける、それだけしか考えていなかった。
けれど複数体を個々にぶつけるだけでは目の前の呪霊には敵わないことはあのとき自分の直感が物語っていた。
もっと他に何か方法があるはずだ。
術式の解釈を広げろ。
概念に囚われるな。
そう自分に言い聞かせた途端、脳裏に過ったのは名前に言われたあのオウムガイのような呪霊。
直後に全ての呪霊を圧縮。口にしていた言葉は「うずまき」だった。
そしてその苦し紛れに編み出した技の後、手持ちの呪霊が全て消失した気配。
「……何もかも…無くしてしまったのかと思った」
呪霊くらいは別に構わない。また集めれば良いだけの話だ。…けど彼女は違う。
「一番大事なモンは無くしてねぇよ」
「……あぁ。そうだな…ありがとう硝子」
熱い目元に手を当てながら改めて硝子にお礼の言葉を述べたら、少しだけ声が震えていた。
「とにかく今はゆっくり休め夏油。行くぞ五条、腹減った」
「ハイハイ。なんでも奢ってやるよ」
何も言わずに一人にしてくれた友人達に心の中で感謝を伝えながら、私は一人静かに涙をこぼした。
◼︎
「——夏油、寝てるの?」
彼女の心地よい声が私の名前を呼んでいる気がした。もう暫く聞いていない声だったからもう少し聞き入っていたくなる。
そうだ、私はこの声で自分の名前を呼ばれるのが好きだった。彼女が生死を彷徨う酷い大怪我を負ってからもうどれだけ聞いていないのだろうか。とうとう夢にまで出るようになったようだ。
「…夏油?」
それは突然気付いた。これは夢では無いと。
「ッ!」
「うわっ、ビビった!!」
ハッとして目を覚ますと脚を組んで椅子に座る自分の黒い制服が見え、すぐに顔を上げるとこちらの様子を伺うどんぐり眼の彼女と目が合った。
「名前…?」
私がいきなり動いたからか、ベッドから上半身を起こしていた彼女は驚いたような怯えたような、どちらとも取れるような表情を浮かべた。
そうか、私は今日任務終わりに名前の病室に来て…それで…気づけば寝てしまっていたのか。
「お、……おはよう?夏油、サン…?ぐえっ!?」
彼女の膝に置かれていた手首を握っては優しく自分の胸に引き寄せる。彼女の苦しそうな声に力が強かったかと気づく余裕がなかった。…温かい。生きてる。…あの時の冷たさが嘘のようだ。
「苦しい苦しい!軽くヘッドロックかかってる!」
「良かった…!」
ピクリと小さく揺れた小さな肩。宥めるようにその肩を優しく摩ったが、どうやら自分自身を落ち着かせるためもあったらしく、彼女の肩を摩っているうちに自分が少しずつ冷静になっていくのを頭の片隅で感じ取った。少し体を離して顔を覗き見る。
「……ごめんね、心配かけちゃったよね」
「本当だ………もう勘弁してくれ…」
「…よく考えたら夏油に私の死に際見せちゃうところだったよね。良かったー生きてて。夏油に夢見悪くさせちゃうとこだったねぇ」
「…全く…君というヤツは…」
「でももう大丈夫。これからは夏油に死にかけるような場面は見せないよ!」
まるであの日のことが嘘かのように彼女は明るい笑顔で笑う。
ずっとずっと見たくて聞きたかった彼女をいざ目の前にしたらすっかり安心し切ってしまって、自然と深々としたため息が出た。
それから一層強く抱き込んでようやく体を放す。これは説教モードだな。
「あぁ、そうしてくれ。今まで特訓は君が女の子だからって手加減していたけどこれからは、」
「私、高専辞めるから」
「——は?」
ニコリと笑った彼女の口から出てきたのは、思いもよらぬセリフだった。
「怖っ!その身なりでドス効いた声出さないでよ…!見た目厳ついんだから…!」
「…は?いや、すまない…それから今、なんて?」
「ん?高専辞めるって言った」
「窓や補助監督に志望出すってこと?」
「ううん、違うよ。呪術界からもう完全に撤退」
彼女はお手上げと言いたげな動作で両手を上げながら「もう呪術師はいいかなーって」と、苦笑いしてそう言った。
「いや…なぜ……納得いかない…!いつも言ってたじゃないか…一級術師になるって」
「まぁね…。でもあんな怖い目に遭ったらそりゃ辞めたくもなるよ」
確かにあんな危険な目に遭ったのなら…、それは確かに腑に落ちる。過去に呪霊の恐ろしさ、人外の生き物と命をかけた戦いののプレッシャーに負け、呪術師を辞めた人間を何人も見送ってきた。
けど、…彼女はどこか投げやりなのだ。それが気にかかる。どうにか引き留めなければ後悔してしまいそうな…そんな漠然とした不安に駆られた。
「…自分が死にかけてるときにあんなセリフ言って言い逃げしようとして、またさらに私から逃げるつもりかい?」
「…う、」
咄嗟に出たのが青臭い私情が合わさったセリフだった。もっと他に言えることがあっただろうに、引き止めるためにこの話を出すことしかできなかった自分が情けない。
悟と硝子がこの場にいたらなんて言うだろうか。…流石に今回は笑うだろうな。それほどまでに思っている以上に心に余裕がないようだ。
「う、あー…言ったねぇそういえば。はっず…ごめん、アレ忘れてくれる…?人間死にかけるとハイになってなんでもできちゃうみたい」
「あんな熱烈な告白を忘れるだなんて無理な話かな」
「うぅ…」
「…理由を、辞める訳を話してくれないか…?」
ベッド際に腰をかけ、俯き気味の彼女の頬に手を添える。そっと力を込めて顔を上げさせると、名前は分かりやすく狼狽えながら「夏油、ち、近い…」と消え入りそうな声を溢しながら目を泳がせた。
心なしか頬を赤らめさせている。それはあの時の言葉に確信を持たせるのに充分で、自然に笑みが溢れる。
意地悪をするようで申し訳ないと思いつつ、少しだけ顔を近づけてやれば、やや間を開けてから彼女は観念したように薄桜色の唇を開いた。
「呪いが…見れなく、なった…。いつも高専の上空を彷徨う呪いが見えなくなったし、感じ取れなくなった。多分あの呪霊の後遺症的なヤツかも。……天元様の気配も何も感じないんだよね」
そう言って彼女は眉尻を下げるようにして力なく笑う。
「こんなんじゃ補助監督もおろか窓も到底無理でしょ…?ここにいる意味がないから…高専辞めようと思って…」
少しだけ声を震わせながら続けてそう語る彼女は、過去に一級術師になったばかりの私と悟に向かって「一級になったからって調子乗るなよ!すぐ追いつくんだから!」と吠えていたあの頃とは違う別人のように見えた。
ここにいる意味がない?そんなことはない。
それなら、
「私のそばにいて…私を支えてくれないか?」
「……え?」
今にも泣き出しそうな名前が弾かれたように私を見上げる。瞬きでもしたら涙がこぼれ落ちそうな目尻をそっと撫でた。
「……私…呪い見えないから、もう夏油のサポートはできない、よ…?」
「……」
…そう来たか。
いや、私も言葉足らずだったところもあるな。つい出かけたため息を飲み込むと、ゴクリと喉が鳴った。
それから彼女に誤解を与えないように言葉を選びながら、一言一言丁寧に言葉を紡ぐ。私が言いたいのは呪術師として、ではないんだよ名前。
「これはあの時の返事でもあるんだよ名前。私もね、実は君のことを愛おしく思っていたんだ。ずっとこんな風に優しく触れたいと思っていた」
「………う…、そ」
「そんな君に高専に居る意味が無いと言われるのは悲しい。呪霊は私が君の分も祓う。だから君は私を支えるべく私のそばにいてほしい。…このまま高専に居てくれないかな?」
「げ、とう…?それ本当に言ってるの…?」
「もちろん。私は君の理由になりたいし、君に私の理由になって欲しい」
少し間を開けてから名前が涙を堪えながら小さく頷くと、ほろりと目尻から溢れた涙が私の手を濡らした。
その様子を微笑ましく眺めていると、ふと懐かしい気配を感じて顔を上げる。
「……驚いたな」
「え?」
「実は君が死にかけたその日、私は手持ちの呪霊を全て手放してしまっていてね」
「……へ」
「まさかアレがいたとは……気付かなかったな」
「ちょっ、ちょっと待って、手持ちの呪霊を手放したって…どういうこと!?」
窓の外を見上げると海洋生物のマンタのような呪霊が高専の結界、それから建物をすり抜けてきた。天元様には前にこの呪霊の呪力を登録していたことがあったから、アラートも鳴らずに静かに私達の元へ舞い降りる。
名前はやはり呪いが見えていないらしく、私の表情を覗き込む。
「名前、体力が戻ったら春休みを使ってデータも兼ねて少し旅をしないか?」
「え、…た、旅?」
「呪霊集めを手伝ってほしいんだ」
「はい…?」
手のひらを差し出すと、呪霊は瞬く間に黒い玉へと変化する。そうか、どうやら私はこの呪霊との主従関係を解いていたらしい。そしてたった今再びその権利を得たようだ。
「私が今持っている唯一の呪霊が今ここにいる。これは飛行能力しかない無害な呪霊…。こいつを君に取り憑かせれば君はこの呪霊を媒体にして呪いを見ることができるはずだ」
「…!」
「君は戦わなくてもいいし、本当なら呪いなんて見えなくても構わないんだけどね。どうする?」
私と来てくれるかい?そう尋ねると、彼女は「まずは呪霊を手放すことになった訳を教えてくれなきゃ嫌かな」といつもの調子で悪戯っぽく笑った。