フィクション
一体何度死ぬと思ったか。そんな長い長い夜が明けて、校舎の屋上から見た朝日に名前は格別の美しさを感じていた。ありふれた言葉ではあるが、生きてるとはなんと素晴らしいことか。
ひょんなことから呪術高等と名乗る五条と夏油の協力をすることになって、自分が呪われることになって、夜の校舎に出向いき、見たことのない得体の知れない化け物に追いかけられて、燃え盛る図書室に飛び込んで、それから校舎から振り落とされ、五条と宙に浮き、水は自由自在に動き。短期間で濃い情報量を叩きつけられた名前の脳は疲労を通り越して現実逃避をしかけていた。
学園の呪いの発端である堤は先ほど高専関係者と名乗る五条と夏油の仲間らしき者数名に連れていかれて、その二人は今後ろで別の、監督だとか名乗る者に事情を説明している。
故に一人手持ち無沙汰となった名前は静かに上り詰める朝日をぼんやりと眺めていたのであった。
「おい」
——世の中はこれから一日が始まるというのに、私たちはたった今、長いようで短かったような時間を終えた。
達成感のような脱力感のような、ある種の感傷に近いそれに浸っていると、横で空気が揺れる気配。
「起きてっかネボスケ」
「あ、はい」
「全身濡れてるようだけど寒くないかい?」
「大丈夫です」
「最後にこういう形で巻き込んでしまってすまない。もう少ししたら私の同級生が来るから待っててくれるかな。君のその、手のひらの火傷を治してくれるから」
「……あ…」
チリ、と痛む手のひらには図書室で燃えていた本を掴んだ時にできた火傷があった。「ありがとうございます」やや間を開けてから礼を伝え、つい手のひらをぎゅっと握るとヒリつく痛みが走る。それはまるで先ほどまでの夢のような非現実的な出来事がしかと現実であると突き付けてくるような気がした。
「堤先生は…どうなるんですか?」
「さてね。上層部が判断することだから俺らにゃ知ったこっちゃない」
「そう、ですか」
不意に校庭を見下ろすと、そこにはスーツ姿の二人に囲まれて歩く堤の姿。両腕は後ろで拘束されていた。車に乗る仕草は抵抗など微塵も感じさせなく、素直に従っているように見える。
行方不明者がどうなってしまったのだろうか。生存の可能性は低そうだが、彼らの無事を願わずにはいられない。
「結局、呪い自体は大したことなかったな」
「悟の眼でも見れなかったのにね」
「……うっせーな」
臍を曲げたようにぶっきらぼうに物言う親友に違和感を覚えた夏油が「なんだ悟、気になることでも?」と尋ねると、五条は唇を突き出すようにして一人唸った。
「アイツ自身の術師としてのキャパとさ、今回の呪いの能力のパワーバランスがイマイチ噛み合ってねーんだよな」
「なるほど…」
「バックによっぽど古参な呪詛師とか呪霊が絡んでるかもな」
「大昔の、とか?千年前クラスの」
「そんな大昔の、生きてるワケねーだろ」
「まぁね。でももし千年前の呪詛師がひょっこり現代に出てきたら敵として相みえたくないものだね」
夏油が肩をすくめると「ごめんね苗字さん、こっちの話」と名前にそう告げた。
「それよりお前どうする?」
「……どう、…?とは?」
「俺らはこのままとんずらこくけど」
名前の横にいた五条、夏油が屋上の縁に足をかける。
校舎の屋上は普段は人が立ち入りすることはなく、落下防止の柵は無い。それは彼らがこの場から去ることを学園は引き止めないと言っているようでもあった。
朝日を背後に立ち並ぶ二人は、全身に光のアウトラインによって縁取られていて、どこか神秘的な雰囲気を纏う。そんな光景に名前はふとこの二人の存在も実は幻だったのではと疑いかけるものの、手のひらの痛みが紛れもなく現実であることを再三主張してきた。
五条の言葉の意図に首を傾げる名前。そんな彼女の様子に五条が不敵な笑みを浮かべる。
「小説家になりたいんなら、それこそ非現実的なもん見に来れば?」
予想だにしていない五条のセリフに名前が自分の耳を疑った。
「――なっ」
小説家。それは以前に折山が彼等に「夢があるみたいだからそれだけでもおじさんは幸せよ」と名前のことを語っていた時に出てきたそれのことである。もちろん当時自室でぐっすり眠りこけていた名前の耳には入らなかった話だ。
「どうしてそれを……!?」
「へぇ、そうなんだ。苗字さん、小説家目指してたのかい」
「……うっ、」
これは名前には知る由もない話だが、名前が自宅待機をしていたあの日――五条が彼女の元へ訪れた時、部屋の主が夢の中だった時の出来事に遡る。
名前がぐっすり眠っていたせいですっかり手持ち無沙汰となった五条は彼女の机にあった一冊のノートを何気なく手にした。
そのノートには何枚にも渡ってびっしりと文字が書き殴られていて、計画書のようにも見えたそのノートはストーリーの要約、いわゆるプロットと呼ばれるものであった。それもそのノートはページを捲るごとに公募への応募方法、出版物のコストなどが書き込まれたメモも一緒に挟まっており、そこで五条は折山が言っていた名前の夢とやらが小説家であることを知ったのである。
「俺たちが見せてやるよ、この世界。お前なら補助カンくらい務まるだろ」
後半のセリフは名前には理解できなかったが、「見せてやるよ、この世界」五条の言葉は間違いなく名前の心臓を一際強く鼓動を打たせた。
創作の世界に足を突っ込む者として、ここ数日間の非日常がワクワクしなかったわけではない。突然と見えた非日常への入り口。五条がその扉へ誘うよう、光をたっぷり浴びた手を名前に向かって差し伸べた。
名前は深くゆっくり深呼吸をした。
「その言葉期待してますよ」
五条が「主人公は銀髪のイケメンな」と一言加え、鼻で笑う。
名前は差し伸べられた手を自分の痛む手のひらでゆっくりと握って、つられるようにして笑った。
「…わかりました黒髪切れ目にします」
「おい」
咎めるようでどこか楽しそうな声を発した五条は、名前の手を引きながら倒れるようにして屋上から身を放り投げた。
———数年後
その日、喫茶店オリオンのカウンター席には店主である折山の姿があった。手には一冊の本。そんな静かな店内にドアのベルが響いた。
折山は本から顔を上げて入り口の客を捉えると、そこへ佇んでいたのは全身を黒で覆った大柄の男。目元にあるサングラスが相まって只者ならぬ雰囲気を放っていた。
カタギらしくない客の来訪ではあるが、折山はその男の容姿に怯む様子もなく「やぁいらっしゃい」と軽快そうに出迎えの言葉を送った。
「……珍しいな、お前が活字を読んでいるとは」
「昔から応援してた作家の作品がようやく手に入ってね」
「そうか」
「それで、何飲む?」
読みかけの本に栞を挟み、丁重にカウンターへ置いては席を立つ折山と、入れ替わるようにその客がカウンター席に腰掛けた。
「そうだな.…。限定オリジナルをもらおう」
「任せて。最近良い豆入ってね」
腰掛けたことで一息ついた様子を見かねた折山が口元を緩く綻ばせながら言葉を紡いだ。
「それで夜蛾サン、うちの子元気かい?」
「あぁ。よく働いてくれてる」
「そりゃよかった。最近なかなか帰ってこないからさぁ」
客、こと夜蛾は濃くなるコーヒー豆の香りを肺に押し込みながら折山の言う「うちの子」のことを思い浮かべた。
数年前に突然五条と夏油が任務先の学園から呪術高専へ連れ込んできた生徒のことだった。彼女は呪術高専の中でも稀に見る勉強熱心な女子生徒であった。
「優秀な補助監督なものでな。特に悟にあちこち連れてかれてる」
「もー五条君そういうとこー」
「そんな状況でよく立派な物を生み出せたよ。大したもんだ」
夜蛾はサングラスごとカウンターに置かれた本に視線を向けた。
つい先ほどまで折山が手にしていたその存在を確かめるようサングラスを外し、優しげな眼差しで表紙に書かれているタイトルを追う。
「縁に連るれば呪の物を喰う、か」
どこか噛みしめるようその名を口にし、徐に手を伸ばしては表紙を捲る。カバーの内側、袖の部分にひっそりと綴られたその短文に夜蛾はふと目を細めて柔く笑った。
[この物語は、 フィクションです。]