読了者の証言



「解けた……!」

 ある一節を言い放った途端、軽くなる学園の空気を感じ取った名前は言い難い解放感を得た。「ひえっ」それから同時に感じたのは今まで感じたことのない浮遊感。丸腰で宙に放り投げらた名前は現在進行形で落下を続けていた。

「ぁああああっ、ぐえっ!?」

 無理、死ぬ!と目を力強く瞑り死を覚悟した瞬間、クンと体がどこかへ引き寄せられ、重量に従って落ち続けていたはずの身体が何かに服を掴まれたことで止まった。

「――何やってんだお前」
「………………へ…」

 きつく瞑っていた目をゆっくり開くと足元は宙ぶらりん。背中側の服を掴まれているせいで襟元が詰まって苦しい。

「しかもすげーびしょ濡れだし」

 自分に置かれた状況を理解できずにいると、ぐいっと体を持ち上げられ、名前の視界には夜明けとも言える薄明るくなってきた空を背後に、真白い髪、それから仄暗い明るさでも力強く輝きを放つ碧眼の持ち主が映る。
 五条がそこにいた。

「五条君!!」
「うっせ…!……あ?お前声…!?」
「えっ、なに、どういうこと!?お、落ち!?」

見れば五条の足元も宙に浮いており、完全にパニック状態に陥った名前を「あーあーあー、分かった分かった!」と五条は鬱陶しそうにしつつ軽々と肩に担ぐと、今もなお燃え盛る第四図書室、それから地上にある池を見下ろした。

「ひっ!?」
「一先ずはアレか」

 しばし何かを思案するような仕草を見せた後、五条は己の肩にしがみつく名前の名前を呼ぶと背中側から「は、はい!?」必死な声が返ってくる。その様子が面白くて喉を鳴らして笑った。

「池の水、使ってもいいよな?」
「……は?」

 五条が得意げに手を翳した途端、名前はこの世の常識の一切を疑う事となる。
 池の水が五条の手に吸い寄せられるようにして、重力に逆らって浮かび上がるのだ。浮かび上がる、というよりは五条の手の動きに引かれている、と言った表現が正しいのかもしれない。
 「おりゃ」そう小さく一言言うと、池の水は丸ごと第四図書室へ突撃。派手な流水音、それから水飛沫が舞い、図書室の窓からは滝のように水が流れ落ちた。

「池の水全部抜いてみた、なんつって」
「は…」
「とりあえず消火カンリョーだな」
「……」

 「いえーい」なんて軽いノリで上機嫌な五条と相対するように名前は茫然としていると「おーい悟、こっちこっちー」と屋上から呑気な夏油の声。視界が一瞬ぶれる。「ぐえっ!?」気付けば屋上らしき地面がすぐ真下にあり、名前はそのまま床に落とされた。

「ゆ、床…!わぶ!?」

 随分久しく感じる地面の硬い感触を噛み締めていれば頭上に重みのある黒が頭に被さった。嗅ぎ慣れたの匂いが強くなった気がしたし、温もりのあるそれを鷲掴んで自分から離すと、そこには先程まで五条が着ていた黒いジャケット。呆然とする名前の横をワイシャツ姿の五条が「着てろ」とスタスタと通り過ぎる。
 五条が通り過ぎたことで生まれた風にぶるりと悪寒を覚えた名前は言葉に甘えて見慣れない大きなそれを肩にかけた。それから五条が歩いて行った方を見上げると、視線の先には夏油がいて、二人は合流を果たす。
 夏油は少し目を細めて第四図書室の様子を窺っているようだった。

「また派手にやって…。池の水全部抜いてみたじゃないんだから」
「まぁ良いだろ、呪いは解けたんだし。これくらいの損害目つぶって貰おうぜ」
「大丈夫?苗字さん」
「は、はひ…!」
「ごめんね。私が助けに行けばよかったんだろうけど…こっちに気を取られてね」
「!」

 夏油が振り向いた先にいたのは呪霊によって体を拘束された堤の姿だった。少し顔に傷を負っているあたり、夏油とひと悶着があった様子だ。「…で、堤センセー、だよね?」五条が堤の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。続けて「その節はドーモ」と言う。
 なぜだろうか、悪者は明らかに堤の方なのだが、黒い学ランのようなものに身を包んだ夏油とその傍らでヤンキー座りする五条。側から見たらどちらが悪か、見分けが付きにくい気がしなくもない。

「っ……、五条悟…!それから苗字…!!」
「つ、堤先生…」
「お前が余計なことを言うから…!何故呪いの解き方がわかった!?」

 拘束された堤にギロリと睨めあげられ、一瞬尻込みするものの、名前は持っていた本をしっかり握って立ち上がる。
 堤に焦げたその本を見せ、「この本は…堤先生…貴方のお父さんが書いた本なんですよね…?」と問えば彼の表情にほんの少しだけ動揺の色が浮かんだ。

「お前…なぜ…」
「序破急なんですよ、この本」
「ジョハキュー?」

 隣で五条が棒読みで真似ると、名前は小さく頷き「私がずっと感じてた違和感の正体でした」と続けた。

「…一般的に小説の展開方法として、起承転結と序破急の二つあるんです。小野先生の話は大体読んでいるからわかるんですけど、基本的に起承転結。でもこの話だけは…小野先生のデビュー作と言われているこの話だけ違うんです。…これだけは何故か序破急……、そしてこの書き方は堤光呉先生の書き方の特徴でもあったんですよ」
「!」
「小野泰斗先生は……堤先生のお父さん…堤光呉に才能を感じていたんですよね?」

 名前の一言に堤の目色が鋭いものに変化した。

「あぁそうだよ!それを小野の老ぼれが盗んだ!!」
「――それは違う!」

 堤が吠えるように叫んだ直後、名前が力強い否定の声を上げた。

「貘さんは…!!いえ、小野先生はずっと探してたんですよ!貴方達に真実を伝え、謝罪するタイミングを!」
「なんの…なんのことだ…」

 不意に手元の焼け焦げた本を一目見た名前は、本が少しずつ元の姿を保とうとしている様子に気付く。貘が呪力で少しずつ本の修復をしていたのだ。堤に事実を教えようとしている貘の意思を汲み取った名前は夏油を見上げた。

「……夏油君、堤先生の拘束を……解いてもらえませんか?」
「馬鹿か?お前、そんなことしたら殺されんぞ」
「大丈夫ですよ」
「何を根拠に言ってんだよ」
「だって二人は最強なんでしょう?」
「……」

 名前が得意そうに笑うと五条と夏油は目を丸くした。それから前者は怪訝そうな表情に、後者はやれやれと言いたげに肩をすくめた。

「……お前なぁ」
「…分かったよ苗字さん」
「はぁ?マジで言ってんの傑」

 名前に確かな考えがあると察した夏油は堤の方へと視線を向けると、拘束していた呪霊が黒い霧のように姿を消した。名前は意を決して堤の傍らに立ち、少しずつ形が戻ってきた例の本を差し出す。

「苗字…お前…」
「先生、開いてください。お願いします」
「…」

 恐る恐る名前から本を手にした堤が表紙を開く。
 途端に貘に取り憑かれた堤は全てを知ることとなった。二十年前にこの学園にいたある男子生徒達の優しも悲しい出来事を。

「っ、う、あぁあああああ!」

 名前と同じ夢を見た堤は激しく息を乱しながら頭を掻きむしると、夏油は名前を庇うようにして前に立つ。

「下がって苗字さん」
「傑、やっぱりコイツ、」
「いえ、待ってください二人とも…!」
「……クソ、こんなの呪霊の戯言だ…!嘘だこんな…!嘘だ!」
「先生!」

 取り乱す堤に目線を合わせるように屈み、その名前を呼ぶ。

「……先生はこの本を読んだことがありますか?」
「当たり前だろう…!忌々しい悪の元凶なんだぞ…!昔アイツから返却された原稿で読んだ!」
「よく聞いてください。この本を、最後まで読んではいませんよね…?」
「……だから…!」

 あからさまに苛立ちの音を出す堤がやや間を開けて少し冷静さを取り戻す。名前の問うてる言葉に別の意味が含まれていることに気付いたからだ。

「……なんだと?どういうことだ…!」
「この単行本、218ページあるのに中途半端な空白を開けてまで223まであるんですよ。ご存知ありましたか?」

 これでもかというほどに目を見開く堤。それが知らなかったと受け取った名前はこれは必ず伝えねばと使命感を胸に感じ、小さく深呼吸をした。

「鉤括弧をつけて、すまなかった、と。たった一言、それだけが最後のページにあるんです」
「な、んだそれ、」
「……それは物語の主人公が裏切ってしまった友への謝罪の言葉と言われてます。でもあえてこう残した理由は、流石にもう分かりますよね?」
「……っ」
「うまくまとめられていますが、それは堤さんへのメッセージなはずなんですよ」

 名前の訴えかけるような切ない声が堤の胸を打つ。震える手がゆっくりと最後のページを捲くると、堤はやがて全てを閉じた。

「行方不明者の小野海斗君…」

 堤の肩がピクリと揺れた。

「彼もこの真実を知ってたんです。なんなら小野君から話を持ち掛けられたことあったのではないですか?」
「…」

 堤には心当たりがあった。入学まも無い頃にあの小野泰斗の孫が入学したことは知っていたし、それから何か物言いたげな海斗の視線に逃げるようにしていたことが堤にはあったのだ。
――そうか、海斗、君は。
 そこまで思って堤は力なく項垂れた。

「……私は……この一冊のせいで随分苦しめられたんだ」

 堤は先程の取り乱した様子から一転、至極穏やかな声色でぽつりと呟く。

「この学園が嫌いだった。父親が泥棒呼ばわりされ、そのせいで随分酷い目に遭った…。だからこの学園に呪いをかけたんだ。ここにあった父の本を使ってな。……だがそれももうおしまいだ」
「…先生」
「ありがとうな苗字。また…もう一度読みたくなるレポートだったよ。……それから、怖い目に遭わせてしまってすまなかった」

 薄明に照らされた堤の表情は何かから解放されたかのように穏やかななそれだった。
 これで終わったんだ。名前は朝日に照らされて穏やかな表情を浮かべる堤を見て一人静かに息を吐いた。