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白銀に光るシロを視界に入れつつ、アルトはジャレットに抱かれ、空を飛んでいた。虎の国から救ってくれた時と同様に、空を舞う不安はない。
竜の国を出て、少し。
地が見えて来て、虎の国に入ったことを知る。そして、そこに驚く光景があった。
青とも緑とも云えないアルトの瞳に、三分の一程破壊された虎の城が映ったのだ。
恐ろしい程の炎が上がり、城の壁が焼かれなくなっている。
タリルとシロは悪化した惨状に早くに別行動を取った。
壊れ、失った城。自分を苦しめ続けていた城が壊され、何故かアルトの心はすっとした。
自分は酷い人なのかもしれない。
アルトはジャレットと共に城から離れた城壁の上へ降り立った。
虎の国へ嫁いだエティエンヌを心配しなければならないのに、心が晴れる。
破壊された虎の城を見て、ジャレットが笑う。
「エティエンヌだな」
え?と問いかけようとするアルト。しかし、視界に映り込んだものが気にかかり、言葉を飲み込むと次の瞬間には目の前に一人の男が跪いていた。
男は燃えるような赤髪に上品な顔立ちだ。服装は、竜の国でよく見かける軍服のようだが、少し色が違う。
「ジャレット様、お久しぶりです」
穏やかな声に、ジャレットが「ああ」と短く返事をする。ジャレット様のお友達かなと考えていると、赤髪の男は、こちらへ向き直った。
「花嫁様もお久しぶりです」
「え?」
アルトは目の前の男を知らない。初対面のはず。記憶を必死に辿ろうとすると、男が続ける。
「こちらの姿では、初めまして。竜の国の王女、エティエンヌ様付き近衛隊長、クラレンス・ハンフリーと申します。現在まで虎の国にて諜報活動の任に就いておりました。花嫁様のお耳には“虎の国唯一の竜”という名でお聞き覚えがあると思います」
そう云って面を上げる男に、アルトは思考の糸が繋がった感覚を覚えた。
彼は虎の国にいた赤い竜だったのだ。
「花嫁様が虎の国で苦しんでいることを知りながら、助けることができませんでした。本当に申し訳ございません」
彼の瞳には深い罪悪感、謝罪の念が籠っていた。
クラレンスはあの時、なぜ花嫁がこんなに辛い思いをしているのだと思った。痩せ細り、仔虎を抱え、食べ物を乞いていた。そんな姿に自分はただ少しの食料を与えることと、膝を折ることしかできなかった。竜の血が悲鳴を上げていた。この状況を打開できない、動けない自分が悔しく、そして悲しかった。様子を窺えば窺う程に窶れ、死に直面していた。虎の国への嫌悪と怒りが募っていった。何度運命を呪ったかわからない。自分の目的と悲惨な状況に心が何度も揺らいだ。でも、何度も目的を選んだ。それが彼の心を痛めていた。
竜の王が花嫁を連れ出してくれたと知った時にはとても安堵した。でも、自分の罪は残ったままだった。
深く頭を垂れる彼に、アルトが思ったことはただ彼への感謝だ。
「あの、顔を上げて下さい。俺は謝って欲しいとか、思っていません」
謝罪されることに慣れていないアルトは、あの時の赤い竜だったクラレンスの前に寄り膝をつく。
「俺は、すごくあなたに救われてました。あなたがいなかったら、俺は、死んで、いたかもしれない。だから、俺は、あなたに、すごく感謝してます」
クラレンスの瞳に、感謝を述べる。苦しかった過去に、それは大きな救いだった。枯れてしまった心に、水を入れてくれたのは、彼の優しさだ。任務で思うように動けなかったのだろう。でも、それでも彼は自分のために動いてくれたのだ。飢えて死にそうだった自分に食べ物をくれた。それが、どれだけ虎の国で一人だった自分を救ってくれただろう。
赤い竜が自分に食べ物を差し出してくれた光景を思い出しながら、アルトは感謝した。
「ありがとう」
無垢な感謝と優しさに、クラレンスの罪悪感は消えた。目頭が熱くなる感覚を覚えつつ、彼は立ちあがる。アルトもジャレットに手を取られ立ちあがる。もう罪に苛まれる彼ではなくなった。
轟音と共に火柱が上がる。城を全壊しつつある現状に、二人を見守っていたジャレットがようやく事態の収拾に向き合った。今は、悠長に挨拶している場合でもない。けれど、時間を作ってくれたジャレットに、アルトは密かに感謝した。
「あの、もしかして、あれを起こしているのは、エティエンヌさん、ですか?」
雄叫びに近い竜の声に、人々の悲鳴が混じる。
「ああ、エティエンヌが暴れてるんだろ」
「ええ、可愛いですよね」
破壊された壁の合間から火を纏った赤い竜が見えた。恐怖でしかない存在を可愛いと称したクラレンスに、パチパチと瞬きする。
うっとりとした様子で竜を見遣るクラレンス。その様に、ジャレットは溜息を吐く。
「エティエンヌが暴走した時、お前は基本的に止めねぇからな」
「だって、可愛いじゃないですか」
端整な優しい顔立ちで、柔らかく微笑むクラレンス。
彼の様子から何となく察したアルトに、ジャレットが彼らの関係を詳しく教えてくれる。
「クラレンスはエティエンヌの恋人だ」
「!」
片思いかなと思っていたアルトの予想は外れた。まさかそんな存在がいるとは知らなかった。
エティエンヌからも聞いたことはなかった。しかし、引き裂かれた関係を知り、アルトの眉が下がる。どうにかできないだろうかと考えるアルト。
クラレンスはその心境を悟ってか、胸の内を明かす。
「ええ、恋人です。でも、竜の国の王女は虎の国の王へ嫁ぐ運命ですから。それは嘆きました。嘆いて、嘆いて、嘆いて。それでも、運命ですから、逆らうことはできません。しかし、大事な私の王女が嫁ぐんですから、どんな男なのか嫁ぎ先を見ておかなければなりません。私の王女を幸せにできる男なのか、そうでないのか。でも、最終的に私の王女を私以外が幸せにできるはずがないんです。なので、視察にあわよくば刺殺を重ねてしまおうかと。嫁ぎ先がなくなってしまえば……ね?私の王女は私の元へ留まるはずですから。本当に、たまたま王命が出て諜報活動するよう仰せつかって良かったです」
最初こそ悲しい顔をしていたクラレンスだったが、今は晴れやかな笑顔だ。本当に王命が下ったのだろうかと疑問が残るが、再び火柱が上がり、更に城の壁が壊されていき状況の悪化に思考も目の前に集中する。
「では、そろそろ行きます。ジャレット王、エティエンヌ王女を攫う許可を」
「ああ、連れて行け」
「ありがとうございます」
ジャレットへ一礼し、アルトへも礼をしてクラレンスは竜となって城へと飛んでいった。
間もなくして、激しい音は止み、二体の赤い竜が城から飛び立った。
空を楽しそうに舞う姿に、アルトも何だか心が温かくなる。
けれど、引っかかりは残る。誓約では、自分と交換で嫁ぐと聞く。それにより、両国が恩恵を受けるのだとも。
そのことをアルトがジャレットへ尋ねると、歴代の竜の国の王女の話をしてくれた。
「竜の国の女はあらゆる意味で強い。特に、王女という生き物は強靭な精神の持ち主だ」
ジャレットの前の代の竜の国の王女は、虎の王と結婚式を挙げた直後、竜の国の男と共に失踪。そして、竜の国へ帰国して、ご祝儀で竜の国に自分と男を囲うための宮を建設したらしい。好きな相手と結婚できないからといって、悲観するということを一欠けらも持ち合わせていないのが、竜の国の王女というものだ。
自分の道を進む歴代の王女に、虎の国からの反発はないのかと云えば、それらを凌駕する恩恵があるのか不思議と今まで反発らしきものはない。
誓約に則った相手との結婚をただの儀式、夫婦関係は書類上の物というスタンスな王女。それは、エティエンヌも例外ではない。
「そのうち帰国して家でも作り始めるだろう」
さらりと今後の展開を云ってのけたジャレットに、不安と心配で緊張していたアルトは気が抜ける。どっと疲れた気さえした。
疲労の色を見せるアルトに、苦笑してジャレットはその細い腰を抱き寄せる。己の腕の中に閉じ込めると、「帰るぞ」と柔らかい口調で云われる。悲しい思い出しかなかったその場所が壊された姿を今一度見て、アルトは頷いた。
竜の国の王女、そして仮初の虎の王妃であったエティエンヌは、クラレンスと駆け落ちした。虎の国は城が半壊したこともあり、国内に混乱を招いた。王妃のことは輿入れの公表がされていなかったこともあり、虎の国では民衆の不安をこれ以上煽らないように、この事実を伏せることにしたようだった。
アルトは思っていた以上に早くエティエンヌと再会することになった。
「また会いましょうって言ったでしょ?」とは、彼女の言葉だ。彼女は色々と予期していたのだろう。当然だ。全ては彼女の行動次第なのだから。
それから、エティエンヌはジャレットの予想の斜め上を行き、竜の国内で島を自分の物とした。竜の国は空に浮かぶ地を主体としており、その中で彼女が一番景色が素晴らしいと云う小島を頂戴したらしい。現在、宮殿を建設中とのことだ。
シロとは、今でも会っている。離宮には入りたがらないので、いつも窓際かテラスで遊んでいる。ジャレットが何も云わないので、きっと許してくれているのだと思う。
平和な日常が戻り、穏やかだ。
ジャレットとの関係は変わらない。優しくしてくれるのに、けれど、何かが物足りない。何を得ていないのだろう。
物語は終焉に向かっている。
ふいにそんな小説みたいな一節が浮かぶ。
なんの終わりなのだろう。
アルトは文字の練習をしていた手を止めた。
何を考えるでもなく、心に何かを問いかけたくなった。以前とは違い、環境も良くなった。ぬるま湯のようなものの中にいるような、注ぎこまれているような、そんな恵まれた環境にいるのに。
何かを思うアルトに、本を読んでいたジャレットが気づいて後ろから肩を抱かれる。手元を覗きこまれて、「どうした」と問いかけられる。
端整な、でも男らしい顔が近くにあり、アルトは彼を見つめた。
瞳にある抑えられた熱はアルトを欲する物だ。どうしたら、彼はその抑えを取っ払ってくれるのだろうか。
そういえば、彼は云っていた。アルトの心を指さし、――俺で溢れたらその気持ちを俺に言え。そうしたら、俺も言ってやる。お前の欲しいものをくれてやるよ、と。
胸の中にある器は、きっと満たされていない。自分側の問題のようにも思えた。
ジャレットの心配に、アルトは首を振って「何でもないです」と答えた。
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