39


 エティエンヌが虎の国へ嫁ぎ、賑やかさを失った竜の国。
 白い離宮で憂うアルトに、周囲の者は心を砕いた。静かに友人との別れを悲しむアルトに、ジャレットはできるだけ傍にいた。食が細くなることも懸念されたが、常に視界に映る範囲にジャレットがいてそうはならなかった。
 エティエンヌが取り上げていたアルトとの時間が全て自分のものとできるためか、ジャレットは余計に接触するようになった。照れたり、困ったりする時間が増え、悲しみの中に自分をおくことがなくなった。からかいの中に混じる慰めに、アルトは次第に気持ちが上向く。
 三日ほどしたある日、夜空を水色の月が照らしている時間に、アルトはレオを呼びとめた。
 アルトはこれから湯の時間だ。

「レオ、あの」
「おう、なんだ?」
「その……、りんご」
「りんご?」
「りんごの、お風呂に、入りたいなって」

 アルトの云わんとしていることを心得たレオは、そのお願いに歓喜した。
 目下、強欲な王妃に育てようと熱が入っているレオは即座に了承して、りんごの湯を用意した。
 案外すんなり受け入れられて、希望のりんごのお風呂に入ったアルト。
 夜も深くなり始め、寝室のベッドへ盛り込もうとしていた時、ジャレットが部屋へ入って来た。

「ジャレット様?」

 こんな夜遅くにどうしたのだろうかと思っていると、「お前と寝る」と云ってきた。
 驚いて、「ひぇ!?」と素っ頓狂な声を上げると、クツクツ笑われた。

「添い寝が必要だろう」
「い、入りませんっ」
「なら、アルトが俺の隣で寝ろ」
「ダメです!」

 真っ赤な顔で抵抗すれば、ジャレットはさっさとベッドに入り、片手を枕に優雅に横になる。
 その態度に、むきになって天蓋付のベッドへ入れば、湯上りのアルトの香りが濃くなる。

「良い香りだな」

 腕を引いて抱き込んで肩口に鼻を押しつけられながらそう云われる。今しがたの対抗心なんて忘れて、アルトは嬉しそうに、けれども照れながら答えた。

「ジャレット様が良い匂いだと、言っていたので……」

 だから、リンゴの湯に入って来たのだと告げると、ジャレットは一瞬目を見開き、アルトの顔を覗き込んだ。
 目から、掴まれている手からの熱が増したような感じがした。
 リンゴの香りをジャレットが好きなのかもしれないと、だから、行動してみた。
 思えば、誰かのために自分が行動したのは初めてかもしれない。虎の国でも、もしかしたらしていたのかもしれない。でも、こんなに心が温かくなったのは初めてだ。このあったかくて、嬉しい気持ちをなんて言うんだろう。
 アルトがジャレットの返事を待っていると、ジャレットは顔を覗き込んだまま「俺のためか」と呟いた。
 自分でも赤い顔をしているのだろうと思いながら頷く。

「はい……」

 無性に恥ずかしくなるアルトに、ジャレットが手を伸ばし、首筋を撫でた。長い人差し指が彼の襟元の下を潜る。しかし、鎖骨に触れるか触れないかの所で、ジャレットはアルトを見つめていた瞳の熱を抑制した。
 ジャレットの腕に抱きこまれる。「もう眠れ」と頭を撫でられれば、安心する彼の中である。次第に眠くなる。けれども、アルトは彼が熱を抑え込んだことが気になった。残念に思ったのだ。今も、ただの優しさを嬉しく思うのに、何かが足りないと思ってしまう。
 優しい世界なのに。
 どうして自分はそう思ったのだろう。こんなに温かな感情を注いでくれる世界なのに。 アルトはジャレットの体温を感じながら、次第に眠りについた。


 月が水色の光を纏っていた夜が開け、朝の光が寝室に差し込む。その光を浴びて安らかな目覚めを迎えると、アルトを眺めているジャレットがいた。男らしく整った顔に、低い声で挨拶され恥ずかしくなる。小さく消え入りそうな声で挨拶を返す。寝顔を見られていたと思うと、顔が熱くなる。その熱を冷まそうと、寝台から出ようとすると、ジャレットの腕が伸びてくる。
 声を上げれば、戯れが始まる。寝台に縫い止められるという体勢だ。もうすぐレオが紅茶を運びに来る。
 窘める声をかける。けれど、アルトに待っていたのは、レオが淹れてくれる朝の紅茶ではなかった。
 広い寝室の扉を叩く音と、竜の国の宰相の声。
 ジャレットと目を合わせたのも束の間。ジャレットがコンスタンタンの元へ動く。扉が開かれ、彼の声が耳に届くと、何だか落ち着かない気持ちになって、アルトはジャレットに寄り添う。

「虎の国から飛び出してきた個体がこちらに向かって来ている」
「複数か」
「2体だよ。一つは――」

 コンスタンタンの口から出た人物の名にアルトは目を見開いた。
 ぎゅっとジャレットの裾を握る。彼はそれだけで分かってくれる。



 城の外、国の果て。
 森を抜けた草原に、まだ朝の雲が残っている。それは草原の上を所々隠していた。
 国の果ては、始まりでもある。国境を意味する場所。そこにアルトはジャレットと訪れていた。
 虎の国の方角からやって来る存在。軽快な速さは、アルトの存在を認めると更に速度を増した。
 空を駆けて来た存在が二つ。
 竜の国の地に着地すると雲が逃げていった。
 アルトはその存在に目頭が熱くなる。
 その様子を見たジャレットが向けられた視線に頷く。アルトは駆けだした。
 そして、一つの白い存在がこちらに駆けて来る。

「シロっ!」

 最後に見た時より大きくなっている。白に銀色模様の仔虎。アルトが咲かせたシロだ。成獣にはまだ届かないが、小さかったシロが大きく成長していることにアルトの心を震わせた。
 こちらに真っすぐ向かってきてくれる。それも嬉しくてたまらなかった。
 両手を広げて、シロを抱きしめる。勢いを消したシロが腕の中に納まってくれる。仔虎特有の柔らかい毛は、しっかりとした固さへ変わりつつあった。

「シロっ、シロっ」

 ぎゅっと抱きしめると、クゥゥと鳴く。もう何年も会っていなかったような、そんな久しぶりの再会だった。
 シロは、嬉しそうに甘えてくる。変わらず自分を慕ってくれるシロ。

「シロ、シロ、ごめんっ」

 虎の国に一人、残してしまった。守ってあげたい存在だった。でも、自分では守りきれなかった。自分を守ることすらできなくて、壊れてしまった。
 色んな思いが浮かんで、謝罪の言葉を口にするしかなかった。言い訳のような気持ちばかり浮かんで、心を締め付ける。
 しかし、そんな断罪を密かに待っていたアルトに、シロはただ甘え、慕い、喜びの視線を向けるばかり。
 母上、どうしてごめんなのですか。
 母上っ、それより、空を駆けれるようになったのです。
 歓喜して尻尾を立てたまま、キリッとした顔をして、シロはアルトに今までのことを報告する。
 決して責めることのないシロに、許された気がして苦しかった心がほっとする。
 優しく、そして逞しく育ったシロに、アルトは頭を撫でた。もっとと、擦り寄るシロ。
 再会を果たしたアルトは、もう一つの存在に目を向ける。
 シロの背に乗って駆けて来た存在。それは、タリル・ランナーベック。アルトの友人だった。 
 丸みを帯びた幼かった顔は、会っていない期間にシャープになっていた。まだまだ少年なのに、大人びた顔つきになっている。それでも、赤毛な所や笑みはあの時の彼のままだ。

「お久しぶりです」

 洗練された動きで一礼するタリル。成長を余儀なくされた彼に、置いていかれて寂しい気持ちがしたが、再会できたことの方が勝った。

「久しぶり、タリル」

 そう返すと、ジャレットが傍に立った。竜の王が花嫁であるアルトの守備範囲だと判断してから漸くタリルがその場から動いた。近くまでやって来て、再び一礼する。

「突然の訪問、お許し下さい。虎の国の王の使者、タリル・ランナーベックです。急を要する事態が発生し、その解決のためお力添えをお願いしに参りました」

 両者に向けて礼をするタリル。緊急の要請に、アルトは咄嗟にエティエンヌを思う。
 虎の国に先日嫁いだ彼女はどうなったか。
 不安な視線をジャレットへ向ければ、彼は目を細めその様を焼きつけるばかり。
 竜の国としては、花嫁を傷つけ、その審判すら受けてない虎の国を助ける義理もない。しかし、アルトがエティエンヌの安否を確かめたいというなら話は別だ。
 気持ちを汲んでくれたジャレットがタリルの申し出に虎の国へ向かうという意向を示したことで返事とした。是でも非でもない濁した返事は、アルトに強いた言動を許していないということでもあった。
 アルトはジャレットと共に竜の国を出た。



 エティエンヌが侍女らが通る渡り廊下を眺めていたのは、まだタリルが王命を受ける前のこと。
 世話係として神童の二人を指名してから、彼らの責任感のなさ、立場の理解度の低さに呆れていた。

「何で俺がこんなことしなくちゃならないんだ!」

 癇癪を起したラウラが食事が乗ったトレーを放りだす。

 ガシャン!と音を立てて、食事が廊下の絨毯の上に散らばる。それを横目に見つつ、セルマもトレーをコンソールに置いた。彼もこれ以上運ぶ気がないようだ。そんな二人の横を冷やかな視線を向けながらエティエンヌの侍女らが通り過ぎていく。
 いつもなら自分たちではなく、他の者がやる。それは彼らの中の常識であったし、彼らの周囲もそれを望んでいた。
 ラウラは反応を示さない侍女らに地団太を踏む。侍女らは自身の仕事があるため、彼らに構う気はない。侍女たちがいなくなってしまった廊下で、セルマも苛立っていた。弱い竜の国の花嫁とは違い、竜の国の王女は厄介だった。頼みの綱であるパスクァーレも手出しできないでいる。
 舌打ちするセルマに、喚くことに飽きたらしいラウラが「あ!」と何か思いだした。

「その食事にマズイ薬混ぜてやろうぜ!」

 その提案に、投げやりになっていたセルマも乗った。あの女に一泡吹かせてやりたかった。
 セルマは口元に弧を描くと、花瓶に活けてあった花を数本取る。ラウラは悪戯しようと持ち歩いていた小瓶をスープの鍋に傾ける。特殊な色をした液体がごろごろした野菜のスープに混じる。セルマが花の茎で混ぜるとラウラがケラケラと「マズそー!」と笑う。一頻りかき混ぜるとラウラは花を花瓶に戻した。
 笑いが止まらない二人は、何食わぬ顔でトレーを運び始める。
 一部始終をエティエンヌが見ていたことを知らずに。

 セルマとラウラは侍女らより遅くなったことを詫びた。いつもと異なる様子に侍女らが怪訝な表情をする。セルマはそれに構わず従順な顔をして、エティエンヌの前に自らが運んできた食事を置いた。金色のはずだった野菜のスープは茶色になっている。

「御苦労ですわ」

 エティエンヌが綺麗な顔でにっこりと微笑む。セルマとラウラは内心でほくそ笑む。二人、下がろうとした時、エティエンヌは二人を呼びとめる。

「ああ、そうですわ。食事を運んで来てくれた礼にこのスープを飲むことを許します」

 エティエンヌの言葉に固まる二人。

「どうしました?侍女に作らせた竜の国のスープですわ。虎では飲んだことがないでしょう」

 顔色を変える二人に、エティエンヌは綺麗な笑顔だ。

「それとも、私のスープが飲めないとでも?」

 視線を彷徨わせる二人。ラウラは言い訳を考えて、唸っている。セルマは拳を握りしめるばかりだ。
 手すら出そうとしない二人に、エティエンヌは時間切れだと、控えていた侍女らに命令する。

「ちょ、止めろよ!放せッ!」
「汚らわしい!竜の者が僕に触るな!」

 抵抗するも、女といえ竜の国の者に、成人前の子どもが太刀打ちできるはずがない。押さえられた二人に、エティエンヌが笑みを消して云う。

「服の中を探りなさい」

 王女の命令に、侍女らは彼らの服の中を探る。そして、一人の侍女がラウラのポケットから小瓶を見つける。

「エティエンヌ様!」

 侍女がエティエンヌにその小瓶を渡す。ラウラが「返せよ!」と喚いたが、侍女が口を塞ぐ。
 エティエンヌはその小瓶を明かりにかざし、中に残っている液体の色を見て目を見開いた。
 それは、紫色だったのだ。
 エティエンヌはその事実を知り、頭で考えるより先に身体が動いた。
 赤い巻き髪が逆立ち、炎へと変わる。身体中がカッと、燃え上がった。口から炎が噴き出される。白かった肌は赤い鱗が覆っていく。
 小瓶に入っていた紫色の液体。この世界で、紫の液体は猛毒としてしか存在しない。そう、カンタレラ。
 結びついた過去と事実。誓約の地の白い空間に紫を齎した。

「アルトちゃんに毒を飲ませたのは、お前らか―――」

 地を這うような声と共に、エティエンヌは炎の竜へと変化していった。エティエンヌが突如竜へと変化し、神童の二人は震えあがる。
 真っ赤な竜はキシャアアアアアア!と鳴き叫び、炎を噴く。
 二人の神童は目に涙を溜め、迫り来る炎に声にならない声を上げた。

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