ふと顔を上げると、見知らぬ家の中にいた。
先程まで、幼馴染と待ち合わせの約束をした場所でスマートフォンを眺めていたはずだ。それがしかし、ひんやりと頬を撫でる冷気に違和感を感じて顔を上げると、上がり込んだ覚えもない屋内に一人立ち尽くしていた。数秒間硬直し、思わずスマートフォンを落としそうになったのも仕方のないことである(むしろ、落とさずになんとかキャッチしたことはファインプレーと言っていい)。待ち合わせ場所は屋外であったし、そこから一歩でも動いた記憶はないのだから、この静かな動揺っぷりも推して知るべしだろう。夢でも見ているのか、と半分口を開きながら呆然と立ち尽くす。そうだとすれば立ったまま寝ていることになる――そんな器用な真似は私には出来ない。が、これを夢と判じずにはいられなかった。そうでないと、この不可思議な現象に名をつけられない。
部屋の中を見回す。ウッド調の壁や床は、それなりに年季が入り、使い込まれているようだ。家具は一つを除けば至ってシンプルなもので、テーブルと椅子、それから不思議な形をした暖炉がある。窓の外を見ると、遠目に長閑な田舎風景が広がっていた。どうもこの建物は小高い場所に建てられているらしい。
不思議な形をした暖炉に近づき、しゃがみこむ。見たこともない形をしているが、どこからか記憶を引っ張り出したのか、それとも夢の産物なのかは私にはわからなかった。暖炉には火がくべられ、ぱちぱちと小さくはぜる音が響いている。
ふうとひとつ溜息をついて、柔らかな橙色を眺めながら手をかざしていると、妙に暖かいことに気づく。ゆらゆらと揺れる火でさえ本物のように思えて、手を近づければひどく熱い……はて夢の中で温度を感じたことがあっただろうか、と逡巡した。
「Ты кто такой?」
暖炉の火を見つめながらぼんやりとしていると、男の声が聞こえて振り返る。日本語ではない……と言えどもこれは夢であるのだから、男の言葉をどの国の言語と表すのは適切ではないだろうが。
立ち上がり、居住まいを正して家主を見つめる。優しげな面持ちの青年が、探るような瞳でこちらをじっと窺っていた。
人が出てくるとは思いもよらなかった私は、慌てて小さく頭を下げ、謝罪を口にする。
「あの……勝手にお邪魔してごめんなさい。ここはどこですか?」
「……日本人だね? なぜここにいる?」
「いや、さっきまで幼馴染と待ち合わせしてたんですけど、気づいたら家の中で……すみません、自分でもなにがなんだか」
そう言って精一杯申し訳なさそうな表情を浮かべると、青年は顎に手を当てて考え込むように小さく溜息をつく。やがて彼は口もとに薄らと笑みをたたえた。敵意はないと判断されたようだ。
「ここはウラジオストク、露国だよ」
「ロコク……ウラジオストク……えっ、ロシア? なぜ外国……」
「外は寒かっただろう? ペチカの前に椅子を置いていいから、そこで暖まるといい」
「ぺ……? ええと、お気遣いありがとうございます。でも早く目を覚まさないと……」
「目を覚ます?」
青年が軽く首を傾げるのと同時に、ドアの向こうで女性の声が聞こえた。――それにしてもこの人の顔、何というか。ぼんやりとその顔を見つめる私をよそに、青年はドアの方へと振り返った。
途端、景色が切り替わる。
先程の、薪がぱちんと小さく弾けるだけの閑静な空間から雑多な音声が入り混じる駅前の交差点へと移りかわり、もしや本当に夢を見ていたのだろうかとあたりを見回す。当然ながら、あの青年の姿は見当たらない。
不可思議な現象(やはり夢だろうか?)に首を傾げつつ、スマートフォンに視線を落とせば幼馴染から「そろそろつく」と短いメッセージがきていた。「いつものドーナツ屋さんの前にいる」と簡潔に返して画面を切り替えた時――誰かが目の前で足を止める。もう来たのか、早いな、と思いつつ、スマートフォンをポケットにしまいこみ、顔を上げた。
「ああ、おつか……れ……?」
果たしてそこにいたのは幼馴染ではない、別の人物であった。その人は満面の笑みを浮かべると、「待たせたな」と優しい声で私に話しかける。ドーナツ屋の前のガードレールに腰掛けているのなんて私くらいなものだから、別の人物に話しかけているということもない。問題は、目の前の人物とは全くと言っていいほど面識がないことである。
「……ええと、人違いじゃ……?」
存外弱々しい声が出た。しかしはっきりと私の言葉を聞き届けたらしいその人は、ほんの少し瞠目すると、眉を下げて寂しそうな表情を浮かべる。
「待っていると言ったのはお前だろう」
「ええ……?」
「……なんだ、
そう言ってひとつ溜息をつくと、その人物はふいと視線を逸らし、雑踏の中へと消えてしまった。
「おまたせ……って、お前、なにボーッとしてんの?」
「時重。……いや、なんか変な夢見たかも」
「ハァ〜? 立ったまま? バカじゃないの」
「そのうえ知らない人に声かけられた」
「……ナンパ?」
「いや、誰かと勘違いしてたみたい。「待たせた」とか言ってたし」
「フーーン……怜子のくせに生意気」
不機嫌そうに鼻を鳴らしたかと思えば、二の腕をぎゅっと摘まれて思わず「イタッ!」と声を上げる。地味な嫌がらせに内心呆れつつも、ぺしんとその手をはたき落としてやった。「大体、警戒心を持たないから変なのに絡まれるんでしょ。色々なヤツにつけ込まれても僕は助けてやんないからな」――続けて独り言のような説教を耳にして、頬を緩ませる。六つ上の幼馴染は、少々過保護なのだ。今回は言うほど変なの、ではなかったけれど。
「……あ、百之助は今会社出たって」
「じゃあもうちょい時間かかるな。たしかコッチ来るまで一時間くらいか」
「なら買い出しは私たちで済ませようか」
「そうだな」
百之助というのはもう一人の幼馴染のことだ。二人と何年の付き合いになるかは数えていないのでわからないが、歳上の幼馴染たちには昔からよく面倒を見てもらっていた。百之助の弟……勇作さんともそれなりに交流があり、時折連絡をとっている。尤も、彼と連絡を取る際のトピックといえばほとんどが百之助に関してのことであるが。
百之助と勇作さんを取り巻く環境は複雑なようだが、当人たちは仲が良く、現在二人暮らしをしている。
話は逸れたが、とにかく百之助と時重とはそれなりに長い付き合いだ。三人で集まるのも少なくない頻度なので、大抵は一人暮らしをしている時重の家にお邪魔していた。時に尾形家で勇作さんを交えて卓を囲むこともあるが、泊まりも兼ねているので頻繁にはお邪魔できない。勇作さんは「いつでも来てくださいね」と言ってくれるが……その辺の匙加減は、兄である百之助に任せている。私は実家暮らしなのでそもそも候補に入らず、気兼ねなく滞在できる時重の家に白羽の矢が立ったのであった。まあ大抵音頭を取るのは時重で、本人が良いというのだから問題はない。
「お鍋楽しみだなぁ〜」
「米もたくさん炊いておくか。汁ちょっと残して、明日の昼はリゾットにでもしよう。怜子よろしく〜」
「えっ、私が作るの? まあいいけど……」
▽
宣言通り、鍋の汁を残して次の日へと持ち越した。社会人二人は未だに惰眠を貪っているが、土曜日なので昼過ぎまでは起こさないでやろうと布団を抜け出す。二人はリビングで、私は時重の部屋を借りて寝ているため、起こさないようにと気をつける必要もなく着替え始めた。
朝の支度を済ませると、キッチンのカウンターに置きっぱなしになっていた鍵を借りて、コンビニへと足を運ぶ。どうせリゾットを作るならチーズを入れよう……と思い立ったためだ。
コンビニに着くと、チーズやお菓子などをぽいと買い物かごに入れて、ついでに雑誌コーナーに立ち寄った。有名な男性アイドルグループが表紙を飾るファッション誌を手に取って眺める。顔立ちやスタイルだけで言うなら、幼馴染たちも負けてはいないだろう。性格に大いに難ありだとは思うが。
ふと、ガラス越しに手元を照らしていた日光を、何かが遮って影をさす。反射的に顔を上げると、思わずぎょっとして背をのけぞらせた。
――ガラスの壁の向こうで、軍服を着た男がじっとこちらを見つめていたからだ。
朝から変質者と会うだなんてついていない、と後ずさったところで、あることに気がつく。
「あれ、勇作さん……?」
まじまじと眺めれば、その男はよく見知った顔をしていた。私の、ほとんど呟きのような呼びかけに対し、聞こえていないはずの彼はぱっと花開くように顔を綻ばせる。なぜこんな朝っぱらに軍服を着て出歩いているのかはわからないが、とにかく変質者ではなく知り合いであることにほっと胸を撫で下ろした。
彼のところへ行こうにも買い物の途中なので、「待ってて」と身振り手振りで表すも、にこにこと笑うのみで一向に頷きもしない。変だな、と思いつつ急いで会計を済ませ、外へと出ると――勇作さんは忽然と姿を消してしまっていた。
「……? どこ行っちゃったんだろ、勇作さん……」
辺りを見回しても彼の姿はない。困惑しつつも、あとで勇作さんに連絡してみようかと気を取り直し、帰路に着く。
時重の家はコンビニからほど近い場所にあるため、肌を刺すような冷たい風が吹く時期でもちょっとした買い物をするくらいであれば、外へ出るのもそう億劫ではなかった。
三分ほどでアパートまで辿り着き、エレベーターに乗り込む。もう少しの辛抱だ、とマフラーを口元まで引き上げ、がさがさと音を立てるビニール袋を一瞥した。リゾットを食べて、そのあとは映画を観ながらお菓子をつつくのもいいだろう。
緩やかに止まったエレベーターを降りると、手前から三番目の扉に鍵を差し込む。その音が聞こえたらしく、中からどたどたと足音が近づいてきた。と同時に「怜子ッ! 何も言わずに出かけるなよ!!」だのなんだの、時重の怒鳴り声が聞こえて肩を竦める。続けて「怜子はもうガキじゃないんだぜ、少し出るくらい構わんだろ。朝だし」と百之助の呆れた声が追いかけた。
「ハーッ百之助ってばわかってない! ガキじゃないから尚のこと」
がちゃん、と玄関の扉を開く。すぐそこで構えているはずの時重に、「ごめんごめん」と気の抜けた謝罪をしながら中へ入ろうとした時のことだった。
視界か紺色に染まる。
既視感を感じ、顔を上げると――やはりそこにいるのは彼だった。濃紺の制服を纏い、軍帽を目深く被って、優しげな顔で。
「ゆう、」
「――申し訳ありません。どうかこの勇作に、お付き合い下さいませ」
続けてぼそり、と呟かれた言葉を皮切りに、冷たい風が頬を強く殴る。視界が真っ白になって、眩しさに思わず目を細めた。
「はっ……え、寒ッ!!」
咄嗟にマフラーを掴んで強く首元に押しつける。開けたはずの扉はすっかりと消え去り、先ほどまでとは比べ物にならないほど気温がぐんと下がっているのがわかった。息は白く濁り、どんどんと指先が悴んでいく。
勇作さんはいない。すぐそこにいたはずの幼馴染たちもいなければ、見慣れた玄関も、その奥に続く暖かな部屋もない。そこに広がっていたのは――どこまでも続く、銀世界である。