「……ここどこ」
どこまでも続く雪を被った森に、思考が停止する。葉がない分景色の見通しは良いが、本当になにもない。なだらかな斜面は気をつけなければ足を滑らせてしまいそうだ。
しばらくの間、状況を飲み込めずに立ち往生していたが、どんどんと奪われていく体温にようやくと歩き始める。ここにいては埒が開かないし、立ち止まるよりかは動いた方が寒さも和らぐだろう――そう回らない頭で考えて、見渡す限り白く染まる地面を踏みならした。ずび、と洟をすすりつつ、木々の間を縫って彷徨う。顔や耳、手と布に覆われていない場所はもはや痛い。
自分の身に起きたことが、未だに飲み込めずにいた。幼馴染たちは、家は、私のいた場所はどこへ? 勇作さんは? 非現実的な現象に「瞬間移動」という単語が頭に浮かんで、いやいやドラゴンボールじゃあるまいしと現実逃避に思考が傾いていった。
「……うう、誰かいませんか……勇作さん、どこいるの……」
こんなか細い声では、私以外に誰かいたとしても気づいてはもらえないだろう。頭でそうと理解はしていても、見渡す限り雪と枯れ枝ばかりの山中に人がいるとは思えなかった。こんなところで死ぬかもしれない、と諦めてしまいそうな気持ちが、声を出すことさえ躊躇わせる。一歩踏み出すごとに足が雪に沈んで、ジーンズ越しにじわりと冷たい感触がまとわりついていた。
やはりこれもまた夢なのだろうか、と寒さに震えながら思考の海に沈む。ウラジオストクにいた青年と同じように、これもただの。
どれくらいの時間と距離を歩いたのかはわからない。身体は多少温まったものの寒いことに変わりはなく、雪に足を取られながら進んでいることで体力も奪われていく。息が上がって、少し休憩にしようと樹木を背にして座り込んだ。
「ハァ……ほんとどうしよう。勇作さん、「付き合え」って言ったわりには全然来てくれないし……」
膝を抱えて顔を埋めると、一気に疲労がのしかかる。目の前で消えた私を、幼馴染たちはどう思うだろう。勇作さん――本当に私の知る彼であるかは定かではないが――の口ぶりから、彼が私をここへ連れてきたのだろうが、その意図を理解しかねる。勇作さんはひとつ、私に道を示した。しかしどうやってそこへ辿り着けばいいのか、もう考えるのも億劫だ。
腕に額を押し当てて、目を瞑った。
「……おい、大丈夫か? 怪我したのか?」
――まるで鈴をころがすような、凛とした声が耳朶を撫でる。
弾かれたように顔を上げると……毛皮を纏い、民族衣装のような格好をした少女と、軍帽を被った傷跡のある男が私を見下ろしていた。
「……ひ、」
「「ひ?」」
「人いた……ッ!」
二人ともずいぶんと風変わりな格好だとか、男の方がやけに睨みつけてくるだとか、そんなのは瑣末なことだった。この雪に覆われた山の中で、ただただ自分が一人ではなかったという事実にひどく救われる。心細いどころかこの雪の中で死ぬんだろうとさえ思っていたのだから、人と出会えたことが心から喜ばしい。
怖かった、と年甲斐もなく涙を流せば、少女は私のそばにしゃがみ込み、男の方はあからさまに狼狽えた。
「え、ええ〜? お姉さんどうしたのぉ……?」
「お〜〜よしよし、もう大丈夫だぞぉ〜〜」
「死ぬかと!! 思ったぁ〜〜〜〜!!」
男が大きな体躯を縮こませて私の背をぽんぽんと叩き、少女はまるで犬に接するかのように頭と顎をわしゃわしゃ撫でる。頭の冷静な部分では「この二人はこんなところで何をしているんだろう」と疑問を抱くが、それ以上の安堵に涙を流し続けた。
やがて涙が止まる頃に、少女は「それで」とじっと私を見つめる。
「お前はこんなところで何をしている?
「しさむ??」
「そういやお姉さん、ずいぶんと変わった格好してるね」
「えっ、普通にダウンジャケットとジーンズだけど……コンビニ行くだけだし」
「だうん……じゃ……じーんず?」
「こんびに?」
「? うん」
なんだか会話が噛み合わないなと思いつつ、少女の問いに答えるべく自分の身に起きたことをぽつぽつと話し始める。と言ってもあまりに非現実的なことなので、ほとんど言葉を濁してしまった。
幼馴染の家の前にいたこと、気づけばここにいたこと。ここへ来る直前、知り合いに意味不明な言葉をかけられたこと――表現を変えたところで、突飛すぎる話には変わりなかったが。正直夢としか思えないが、それではこの身を切るような寒さの説明がつかない。
二人は怪訝な表情を浮かべながらも、最後まで口を挟むことなく私の話を聞いていた。
話を終えると、男が顎を撫でさすって唸り声を上げる。にわかには信じがたい話だからだろう、疑う気持ちは尤もと言える。
しかし言葉にしたことで、煩雑だった脳内がほんの少し整頓された。信じてもらおうとは思っていなかったけれど、きちんと言葉にしたのは正解だった。
「ほー、なるほどね。気づいたらここに居たと……お姉さん、その知り合いとやらに拐かされたんじゃねえかい?」
「うーん、それはあんまり考えられないかなぁ……幼馴染たちの目の前だったし、なんなら片方の弟だし、私も仲良くさせてもらってるし。三人が手を組んでっていうのも……ありえないかな、そもそも私を危険な目に遭わせるような人たちじゃない」
「ずいぶんと信用してるんだね」
「というより信頼かな、小さい時からの仲だからね」
私の言葉に、そっか、とだけ返した男は、少女とアイコンタクトをとる。すると少女は僅かに首を縦に振った。
そういえば、ずいぶんと凝った衣装だなと二人を交互に見遣る。軍帽に猟銃……のレプリカだろうか、まるで軍人のような格好をしているし、少女は言わずもがな。撮影か何かだろうか。男の方はおそらく私とそう変わらない歳のはずだが、少女とはそれなりに年齢差がありそうだ。顔は似ていないので、兄妹ではないだろう。
「お前、名前は何という」
ぼんやりと目の前の二人について考えていると、少女にそう問われた。慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「ごめんなさい、助けてもらったのに名前も言ってなかったね。……九重怜子と言います」
「いいよいいよ、声かけただけだし。俺は杉元佐一」
「アシリパだ」
「杉元さんにアシリパさん」
「怜子、事情はともかく迷子なんだろう。とりあえず近くの町まで届けてやる。着いてこい」
近くの町? と首を傾げると、彼女は「小樽だ」と笑った。
「……は? 小樽?」
進み始めた彼らを追い、一歩踏み出そうとした足が止まる。まるで地面に縫い付けられたかのように、その場から動けなくなってしまった。
私がいたのは、ここよりも南に位置する東京だったからだ。
「なん……ぇ、そ、んなはずは……」
心臓が、激しく胸の内側を叩く。ここが小樽だなんて、そんなはずはない。では彼らが嘘を言っている? ……そうではない。そういう話ではないのだと、私が一番わかっている。
そもそもの話、幼馴染の家の前から一瞬でここへと移動した時点で、私の常識の範疇を超えた何かが起きている。不幸中の幸いとでも言うべきか、どこへ移動したのかが分かっただけ良かったかもしれない。すう、と息を細く吸い込んで、一気に肺の奥から押し出した。私の長所は、諦めのいいところである。夢かもとか現実かもとかまず考えることをやめよう。
「怜子さん大丈夫? 寒いし疲れちゃったかな」
「ごめん杉元さん、なんでもない。大丈夫、まだ疲れてないよ」
「頑張れ怜子、あと少しの辛抱だぞ」
二人に励まされながら、しかし雪の中をゆく足取りは重い。こんなにも積もった雪の上を歩くのは、幼少期ぶりだった。あまり記憶にはないが、昔は函館に住んでいたらしい――父の仕事の都合で、東京へと引っ越したけれど。
杉元さんとアシリパさんは何事かを話しながら、私の様子を伺いつつ進んでいる。ずいぶんと気を遣わせてしまっている、と申し訳なく思いながら、黙って歩き続けていると、二人がペースを落として隣に並んだ。
「そういえば怜子さんさ、知り合いに変なこと言われたとか言ってなかった?」
「ああ、言われた言われた。意味わかんなすぎて一言一句覚えてるよ。何かの手掛かりっぽいかんじの言葉だった」
「そうなのか?」
「うん。確か……」
『刺青を追ってください。さすれば金塊へ辿り着く。その道程で、あなたが為すべきことを為しなさい』
「って言って……え、なに? なんで睨むの……?」
私が勇作さんから聞いた言葉を伝えた途端、二人の顔が険しくなった。「アンタ、本当に意味が分かってないんだよな? ……嘘はついてねえよな?」――杉元さんは私の目の前に立ちはだかると、警戒心を剥き出しにしてこちらを見下ろす。アシリパさんが「杉元」と嗜めるように彼の名を呼ぶと、僅かに身を引いてフッと息を吐いた。杉元さんとアシリパさんを交互に見つめて、「一体なんなの」と呟く。
「そりゃこっちの台詞だ。刺青を追えって、アンタその意味がわかってんのか」
「はあ……?」
「見ろ」
彼は徐に風呂敷に包まれたものを私に押し付ける。落とさないように慌てて抱え、その風呂敷を腕の中で広げた。
中に入っていたのは、黒い線が四方に走る革のようなものだった。
「なにこれ」
「アンタの知り合いが追えって言った刺青さ」
「へえ、なるほどね。刺青っててっきり人の身体に彫られたやつのことかと思ってた。……その“刺青”って言い方もそうだけど、色合いとかまるで人の肌みた――」
言いかけて、声が喉の奥にはりつき、掠れた息となって唇の端から漏れていく。自分で言った言葉に気づかされた……というよりも、その表面に産毛を認識してしまったことでそうだと理解せざるを得なかった。
顔からざあっと血の気が引いていく感覚を、はっきりと感じ取る。
「こ、れ……人の皮……?」
「……そうだ、これはヒグマに殺された囚人から剥いだものだ」
「ヒグマ、……え、囚人……?」
「“刺青を追って金塊を探せ”――怜子の知り合いが、どういう意図でそれを口にしたのか私にはわからない。ただそもそもの話、金塊というのは……アイヌが隠した、アイヌの財産だ」
そうして聞かされたのは、アイヌの金塊を取り巻くきな臭い話だった。
曰く、一人の男がアイヌたちを殺し、金塊をどこかへと隠してしまったことが発端だという。その男が金塊の在処を囚人たちの刺青として残したこと。そして――刺青は、皮を剥ぐことが前提に彫られているということ。囚人たちは現在散り散りに、刺青人皮を追う二人は利害の一致から行動を共にすることにしたと。……殺されたアイヌたちの中に、アシリパさんの父親もいたらしい。
話を聞き終えた私は、手元に視線を落として刺青人皮を眺めた。二人の話によれば、組織だって金塊を狙う輩もいるのだという。
どこまでが本当でどこまでが嘘なのかは判断がつかないが(北海道の砂金だとかアイヌがそれを隠し持っていただとか、そもそも護送車で厳重に運ばれるだろう死刑囚が逃げ出しただとか挙げればキリがない)、確実に言えることは……鼻をつく、微かな血の匂いは本物だ。この皮は――本物だ。だからこそ、ひどい違和感に苛まれている。
なんせ二人は死体を山の中へと置いてきている。警察に通報もしていないし、挙句に死体の皮剥ぎときた。それを、なんてことのないような顔で話している。
なぜこんなにも平然としていられる?
恩人には変わりないが、早々に金塊やその関係者からは離れた方がいいのかもしれない。こういう話は首を突っ込むと碌なことがない。
……そしてなにより、二人の言葉の端々から感じる違和感に、嫌な予感が膨らんでいく。
「……杉元さんこれ返す、あとこれもってて」
「……えっ上着脱ぐの? 寒くない?」
「しぬほど寒いけど汚しちゃうと着れないから……」
「?」
限界だった。喉奥からせりあがるそれに、胸の前でスッとタイムアウトの合図を送った。
「タイム!!」
「たっ、たい……??」
「ちょっと吐いてくるわ、ごめんけどまってて」
「怜子、一人で行くな。背中さすってやるから」
「いやいい、お願い来ないでアシリパさん、吐いてるとこみないで……」
「もぉ〜〜〜私がいた方が絶対にいいのにな〜〜〜」
人の皮と気づいたあたりから凄まじい吐き気に襲われていた私は、一人少し離れたところで吐くことにした。生きているうちに人間の生皮を持つことになるとは思いもよらなかった、最悪の気分である。
▽
怜子が雪の中を遠ざかっていく姿を静かに眺めていたアシリパは、杉元をちらりと見やった。ごっそりと表情の抜け落ちた顔で、怜子の背中を見つめている。敵か味方か、或いはそのどちらでもないか――考えあぐねているのだろう。
アシリパの脳裏には、紙のように真っ白な頬になった怜子の顔が浮かんでいた。
「……どう思う、杉元。私は悪い奴には……」
「……何にしても、さっさと町へ連れてって置いていこう。彼女に金塊の情報を渡した知り合いってのも、軍の関係者な可能性があるわけだし」
あの人自身は確かに無害に見えるけど、と杉元は言う。それでも……彼女が軍、もしくは囚人の関係者であった場合、いずれは対立することになる。すぐにでも縊り殺せてしまいそうな彼女を、この先殺す時がきてしまったら――それは酷く、寝覚めが悪い。弱いなら弱いなりに、安全な場所にいれば良いのだ。彼女自身に、金塊を追う覚悟がないというならば。
お互いに関わらないのが身のためだと、杉元は軍帽のつばを深く下げた。