出会いとスリとフランス


伏黒恵は担任から押し付けられた数学のプリントを持って、病欠したクラスメイトの家を訪れた。
ここら辺では一番大きく立派な家に住んでいて、そのクラスメイトの両親は海外で仕事をしているという噂を聞いたことがある。
まるでドラマに出てくるような設定で、伏黒は特別そのクラスメイトに興味もなかったし、そんなことが実際にあるんだな、と思ったくらいだ。
チャイムを押すと、すぐさま声が聞こえたが、それはインターフォン越しではなく、じかにドアの向こうから聞こえたものだった。

「鍵は開いてる。どうぞ入って!」

病欠にしては元気がありすぎる、大きな声だった。
玄関に入ってすぐ、また声が飛んできた。

「靴は脱がなくて結構!まっすぐ部屋の方へ」

年季の入った木製の床は、きれいに磨かれていた。
玄関から部屋までの間に階段と、いくつかの部屋を通り過ぎ、伏黒は言われた通り一番奥の突き当たり、開けっ放しにされたドアの前まで来た。
伏黒の他に客人が居るのか、話し声が聞こえた。

「SNSのプロフィール画面を紙に印刷して渡すなんて馬鹿げてる。これだからインターネット弱者は駄目なんだよ。娘のストーキングもほどほどに」

穂村咲菊がプリンターから吐き出された紙を数枚、身なりの整った小太りの男に渡しながら文句を言った。
男の方はその紙束を受け取りながら、ため息をついた。

「俺みたいなのが言うのもアレだろうがな、学校には行っとけよ」
「娘をストーキングして過剰に反応するだけじゃ飽き足らず、さらに他人の私の事まで気に掛けるなんて最近のヤクザは暇らしいね」
「おかげさんでな。お嬢みたいな情報屋は使い勝手がいいんだよ。じゃ、客が来たみたいだし俺はもう行くよ。幹彌(ミキヤ)さんによろしく言っといてくれ」

男が椅子の背もたれに掛けていた砂色のジャケットを羽織り、伏黒の前を通り過ぎた。
青みがかったサングラスの隙間から強い視線を一瞬感じたが、特に何も言われなかった。
彼女が先程この男をヤクザと言っていたのは、あながち間違いではないのだろう。
伏黒は男が玄関の扉を開けるまでの数秒間、無意識に息を殺していた。
ああいったタイプの人間には、一度目を付けられると面倒なことになると、伏黒は身をもって知っていた。

「それで?」

咲菊が言った。

「何か依頼でも?それとも、その手に持ってる数学のプリントが要件かな?何にせよ、まずはそこに座って。貴方は客人。客人はそこに座るのがこの家のルール」

部屋の中はシンプルで、テーブルと椅子が四脚あった。
咲菊の指定した場所、先程の男が座っていたのと同じ場所に、伏黒も座った。
テーブルの上には何かの資料が散乱しており、その上に本やノートパソコンが絶妙なバランスで置いてあった。
そして、なぜか壁には金網が立て掛けられており、その金網には二十個程度の南京錠が掛けられていた。

「その鍵は?」

伏黒は、とりあえず視界に入って来たそれを聞いた。

「あれは鍵じゃなくて錠。言葉は正しく使ってこそだよ。ピッキングの練習にちょうどいい。ホームセンターなんかでも買えるスタンダードなタイプから、専門店でしか買えないようなものまで。おかげでどんな場所でも簡単に侵入できるようになった。他に質問は?」
「……さっきの男は?」
「この辺を根城にしてる朱栄組系飛躍会の……何代目だったか忘れたけど、組長だよ。娘を溺愛する余り、最近じゃストーカー紛いのことまで依頼するようになった変人。三組の朱栄雪緒には下手に関わらない方がいい。さっきの男に目を付けられたくなかったらね」

伏黒が去年、同じクラスだった生徒だ。
特にこれと言った関わりはなかったが、彼女がヤクザの家の娘だとは知らなかった。
世の中には知らない方がいいこともある。
伏黒は机の上、散乱した荷物を少しよけスペースを作ってから置いた、数学のプリントの角を指先でつついた。
この机の上に置くには少し似合わないな、と思いながら。

「もう一ついいか」
「お好きに。質問されるのには慣れてる」
「アンタ、情報屋なのか?」
「正しくは探偵擬きの一般人、かな。叔父の幹彌が詐欺師でね。さっきの男はその繋がり。飛躍会の人間は未だインターネットを使えない化石みたいな連中だから、私が代わりに動いてあげたんだ。そしたら、それに味をしめたのか、よく依頼を持ち込んで来るようになった。勿論、払うものは払ってもらってるけどね。今では立派なスポンサーだよ」

どこから突っ込んでいいのか分からなかった。
ただ一つ言えるのは、クラスメイトの穂村咲菊という人間が変人だ、という事だけだった。

「なるほど」

何がなるほどなのか、伏黒自身にも分からない。

「数学のプリントをわざわざ届けるためだけに来るなんて。貴方だって暇じゃないでしょう。ゴーストバスターズの仕事は大変そう」

ゴーストバスターズの仕事。
咲菊は今、伏黒に向かってそう言った。

「見えてるのか?」
「見えてるし、たまに話しかけられるけど無視してる。面倒だし、それに、私にもやることがあるからね。下らないことに時間を取られるのは嫌いなの。ただ、最近は妙に数が増えている気がするけど、何か心当たりはある?」

咲菊が見えている側の人間だと、今の今まで知らなかった伏黒は、驚きで声が出なかった。
だって、今までそんなそぶりを見せた事がなかったから。

「心当たりっつーか、見えてたのかよ……」
「貴方が影の中から動物を出している所を見たことがあるし、その動物たちがすごい勢いで、あれら……人ならざるものとでも言えばいいのかな、とにかく、それを食べている所を見たことがある。何なら、貴方が雑居ビルに不法侵入している所だって見たよ。貴方はピッキングのセンスがなさそう。扉を壊したでしょ。修理費を私が負担する羽目になったんだよ。ああ、安心して。請求はしないから。監視カメラにバッチリ証拠が映ってたけど、私の友人だからってことで見逃してもらった。あの雑居ビルは飛躍会の息がかかっているから、予定外の客人は喜ばれない。まあ、何も盗まれてなかったから、お咎めはなし。良かったね」

……マジかよ。
伏黒が顔を顰めたが、咲菊は特に気にしていないようだった。

「あれらが何か詳しくは知らないけど、それのせいで行方不明者が急増してる上、私は依頼者に何の成果も出せない無能だと思われてる。営業妨害にも程があると思わない?納得いかないよ。カメラに映らないから、ただ人間が消えるだけの映像を依頼者に渡す羽目に。おかげでB級ホラー映画の監督が向いてるって嫌みを言われた。信用はガタ落ち」

咲菊は壁に貼ってある地図を伏黒に渡した。
その地図には幾つかマーカーで印がしてあった。

「青、赤、緑、黄色。日付けで色分けした。この一週間でこれだけの事件が起きてる。黄色が一番新しい。今日の午前中に起きた。場所はバラバラだけど、学校や駅、人の集まるような場所から少し離れてることが分かるね。路地裏とか、シャッター商店街とか、駐車場とか。まあ、事件と言っていいのか分からないけど。最近、数が一気に増えてる。あれらは一体、何?」

伏黒は地図を食い入るように見つめていた。
そして何かに気付いたようにハッとして、椅子を倒す勢いで立ち上がった。

「穂村、この地図もらっていいか!?」
「構わないけど、それより」
「ああ!アレは呪いだ。詳しい話は後で!用事ができた」
「それは、急がなきゃ駄目?」
「ああ」
「じゃあ、そうだね。夕飯でも作って待ってるよ。数学のプリントどうも……て、聞こえてないか」



伏黒は思わぬ場所で思わぬ拾い物をした。
咲菊が作った地図には、今まさに追いかけている呪詛師が活動している場所を示してあった。
それも、高専より遥かに精密なものだった。
特に、黄色のマーカー、今日の午前中に起きた事件の情報は伏黒の元には未だ届いてなかったものだ。
伏黒は後見人である五条悟に連絡を入れた。
軽薄が服を着て歩いているような人物だが、実力は確か。
五条は地図の写真を見て、呪詛師の確保が終わり次第、地図の製作者に会いたいと言った。
咲菊の作ったそれのおかげで、停滞気味だった任務が一つ片付いた。

「お疲れーい!いやー、今回の件もっと時間掛かると思ってたんだけど、なーんか急に片付いたね!良かった、良かった。んで、それ作ったのは誰?」

五条はいつもの軽薄さで話し始め、最後には声のトーンが一つ下がった。
この男のこういう所を垣間見る度に、伏黒は背中に嫌な汗を流す。
脅している訳ではないと頭では分かっていても、この男がどういう人間かを理解しているせいで、どうしてもそういう反応をしてしまう。

「同級生、同じクラスの穂村咲菊。変人ですよ。会えばわかる」
「そ。んじゃ早速、会いに行こっか!」

伏黒は五条を連れて、咲菊の家へ向かった。
道中、例のヤクザの……制服姿の雪緒を見かけたが、隣にインテリ風の胡散臭そうな若い男が居たので、咲菊の言っていたヤクザうんぬんは本当だったらしい。
若い男はこちらを一瞥するだけだった。
向こうも、雪緒も伏黒に気が付いたらしいが、伏黒の隣を歩く五条を見て、お辞儀をしたりすることもなく、そのまま歩き去っていった。
向こうからしてみれば、伏黒も自分と同じような感じに見えたのだろう。
伏黒としては、甚だ遺憾ではあったのだが。

「今の二人、カタギじゃないだろ」

どうして五条は、こう鼻が利くのか。
呪術界の御三家だからか。
自分もその内の一人らしいが、伏黒は未だ、そういった事には疎い方だった。

「そうッスね。女子生徒の方はこの辺を絞めてる朱栄組系飛躍会の一人娘ですよ。去年、同じクラスでした。男の方は知りませんが、多分、護衛か何かでしょう」
「へー、詳しいね。不良だから?」
「……今から会いに行くヤツが情報屋、探偵擬きのことしてるらしくて、いろいろと知ってるみたいです」
「いろいろと、ねえ」

五条のその声には、利用価値があるなら使ってやろう、という意味も含まれているのだろう。
伏黒は咲菊を面倒事に巻き込んでしまうことに若干、申し訳なさを感じたが、よくよく考えてみれば、その咲菊の方もわりと変人なので別に構わないか、とも思った。



放課後と同じようにチャイムを押すと、また同じ言葉が帰ってきた。
またしても玄関のドアは鍵が掛かっていなかったので、伏黒は防犯意識がないのかと思いながら廊下を進んだ。

「靴、脱がなくていいんだ。珍しいね」

五条は物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回していた。
廊下の突き当たり、開けっ放しにされたドアの前。

「玄関の鍵、掛けた方がいいんじゃないか?」

伏黒は何か作業をしているらしい咲菊に向かって言った。

「ああ、失礼。この家、客人が多いから……夕飯、作ってないんだ。いろいろと報告しなきゃいけないことができて。ええと、そちらは?」

作業をしながらだったので、咲菊は五条の存在に気付くまでに時間がかかった。

「はじめまして〜!呪術師の五条悟です。君があの地図作った恵のクラスメイトか。忙しそうだけど、何かあった?」

咲菊は、二人に客人用の席に座るよう促した。
この家ではそれがルールであり、お互いの、持て成す側と持て成される側の、最低限のマナーだ。

「これだよ」

咲菊が二人に小さいチャック付きのポリ袋を複数個、放り投げて渡した。
中には錠剤が入っているものと、何かを粉末状にしたものが入っていた。

「薬物かな…?」

五条が袋をつまみ上げて言った。

「そう。この辺ではまず見かけないものだよ。飛躍会の連中は薬物には手を出してないし、禁止にしてるからね。にもかかわらず、この街に売人が出てきた。袋の表面をよく見ると分かる……そこの水性ペンで表面を塗ってみると、もっと分かりやすいか。こうして、模様が出てくるんだ。幻覚作用のあるものだと思う。多分ね。この薬を服用した人に見つけてもらいやすいように目印がしてあるんだ」
「五条さんが持ってる方は錠剤でも、こっちは粉末状だ」
「まだ試験段階なんじゃないかな。それぞれ別の売人から買った。それも、初めてだと言ったら、一袋五百円で手に入ったよ」
「それ、商売になる?僕もこういうのは詳しくないけど、五百円は有り得ないでしょ」
「だから、試験段階なんだよ。安価でなるべく多くの人間に試させてデータを取る。で、一番リピーターが多い物を正規の値段に釣り上げて売り始める。飛躍会に連絡を入れたら、まだ向こうも知らなかったらしい。ハッキリとは分かってないけど、大学の薬学部の連中が始めたんじゃないかな。ほら、ここから数駅離れた場所にある大学だよ。あそこは薬学部があるし、大学側もかなり力を入れてるからね。知識とそれを作れる環境がそろってるってわけだ。明日の放課後、大学に行って調べるつもりだけど、まあ、クロだろうね」

捲し立てるように言う咲菊は、作業していたノートパソコンを閉じた。
馬鹿な大学生が本物のヤクザに喧嘩を売ったのだ。
報復されるだろうし、その確固たる証拠を探しに行かなければならない咲菊からしてみれば、いい迷惑なのだろう。
馬鹿な大学生はドラッグビジネスでヤクザが関わってくることくらい想像できただろうが、さらにオマケで変人だが頭の切れる咲菊が付いてくることまでは予想できなかったらしい。
因果応報、自業自得というやつだ。
五条は咲菊を使える呪術師かどうか見極めるためにここへ来たが、全く別の、薬物絡みのヤクザ事件に出会うとは思いもしなかった。
ついでに、壁に立て掛けられている金網と、その金網に付けられた二十個程度の南京錠の事が気になった。
だが、その話を持ち出すには、もう時間が遅すぎるような気がした。

「あー、君がちょっとしたアクシデントに巻き込まれたのは分かったんだけどさ。そろそろ、僕らの、こっちの本題に入ってもいいかな?」
「ああ!もちろん。というか、時間を取らせて申し訳ない。お茶も出さずに……完全に頭から抜けてた」
「いいよ。むしろ悪いのは僕らだ。まともに連絡もせず、急に来て悪いね。まあ、タイミングも悪かったみたいだけど」

五条は気にする風でもなく言った。
伏黒は咲菊から奪うように持っていった地図を、かばんから取り出した。
それは既にぐしゃぐしゃになっていた。

「……すまん。握り潰してたらしい」

咲菊は小さく肩を竦めるだけで、気にしていないらしかった。

「手っ取り早く、本題と行こう。これ、どうやって作った?」
「ネットから地図を引っ張って、それを印刷して……」

咲菊のふざけた答えに、五条は長い足を組み替えて、咳払いをして黙らせた。

「今のはわざと。貴方たちが気になってるのは情報源でしょ。そんなの、この辺に住んでるホームレスたちに小銭を握らせれば簡単に手に入るよ。彼らは自分の縄張りにすごく敏感なんだ。中には見えてる人も居る。だからその情報は信用していい。まあ、飛躍会の連中からも連絡が入ってくるから、そっちの人間にも確認は取らせてるけどね。ダブルチェックは大事だよ。とにかく、あれらが見えてなくても無惨な死体が転がってれば、すぐにメールが届く。最近のホームレスだって携帯くらいは持ってるからね」

五条も伏黒も目が点になった。
まさか、情報源がホームレスだったとは。
そんな手があったかと驚くと同時に、よくそんなことを思い付いたな、とも思った。

「そんなやり方があったとはね。正しく、地域密着型ってヤツだ。シャーロック・ホームズとベイカー街遊撃隊みたいだね。あーくそ、全国に君みたいなのが居れば、僕らの仕事も確実に減るのにな。窓だって無限にいる訳じゃないからね」
「日本の警官十二人より、彼らの一人の方が有用だ」

五条の言ったベイカー街遊撃隊に対して、咲菊はコナン・ドイルの『緋色の研究』からホームズの言葉を文字って引用した。

「楽しくなってきたね、ミス・ホームズ。君は呪霊について、どこまで知ってる?」
「人ならざるもの、あれらが呪いで、呪霊と呼ばれていること。伏黒くんが影から動物を出せること。その動物が呪霊を食べていたこと。これくらいかな。ちなみに発生源は知らない。あと、気になったのは貴方がさっき言った窓という言葉。これは一般的な窓とは違う意味を持ってそうだね」

そこから五条の楽しい呪術教室が開かれた。
呪霊とは、呪術師とは、窓や補助監督とは何か。
そして、呪詛師とは何か。
呪術師なら知っていて当然の、基本中の基本を咲菊に教え込んだ。
彼女は一を聞いて十を知るというより、一を聞いて十の質問をするといった風に、五条と伏黒に次々と教えを乞うた。
ここまで熱心に話をせがまれると、教える側にも熱が入る。
咲菊は乾いたスポンジが水分を得て膨らむように、大量の情報を脳内にインプットしていった。
もともと、知的好奇心が旺盛なタイプなのだろう。
咲菊が納得するまで、質疑応答は続いた。
五条の楽しい呪術教室は午後十時を過ぎたあたりで解散となった。



次の日、伏黒は学校へ行ったが咲菊は今日も病欠らしかった。
放課後、いつもの帰宅ルートを歩きながら、このまま寄り道をせずに家へ帰るか、それとも咲菊の家へ寄るか考えていた。
もしアイツの身に何かあったら?
いや、ないだろうけど。
それでも、気になる。
気になるというか、クラスメイトの一人が休んだんだ、気になっても不思議じゃないよな。
別に心配しているとか、していないとか、そういうのではない。
ただ、少し思うところがあるだけだ。
それだけであって、決して心配しているわけではない。
と自分に言い聞かせながら、結局、咲菊の家へ向かった。
昨日から既に三度目になる玄関扉を前に、どうせまた鍵は掛かっていないんだろうなと思った。
扉はすんなり開いた。

「だから、防犯意識!」

玄関に置いてある謎のオブジェを素通りし、昨日のように廊下を進むが、昨日と違うことが一つ。
玄関から二つ目、右側の部屋の扉が開いていた。
今日は一番奥の部屋ではなく、ここで作業しているらしかった。

「穂村……は、どこに?」

居たのは咲菊ではなく、二十代前半の男だった。
プリン頭の髪に猫のような目をした男だった。

「咲菊なら上でアップルパイ焼いてる」

部屋の壁には顔写真が何枚か貼られていた。
複数の写真を赤い糸で繋いでいる。
ミステリー系のドラマや映画で見たことのあるアレだった。
現実でお目にかかるとは。
机の上に散乱した書類を盗み見るに、どうやら昨日の薬物絡みだろう。
書類の他にも、パソコンやその周辺機器があちこちに転がっている。

「学校ってさ、セキュリティの甘さと情報密度のアンバランスが凄まじいんだよね。だから、俺は貴方が誰か知ってる。伏黒恵、咲菊のクラスメイトでしょ?オレと同じ……ではないか。でも、見える側の人でしょ?」

蛇に睨まれた蛙、というより、猫に睨まれた鼠と言った方が正しいか、伏黒は男を前に固まった。
なぜ、俺の名前を知っているんだ?
見える側の人と言うのは、つまり呪詛師の可能性は低い、か?

「そんな警戒しなくていいよ。彼はハッカー集団、ハイクオリティの幹部の一人。ツメというハンドルネームを使っている。最近のハッカーはまともなのがいなかったけど、ハイクオリティはその名の通り、いい働きを見せてくれる。素晴らしい才能の持ち主たちだよ。あぁ、中学をハッキングしたのか。どうせすぐ卒業するから意味ないのに。ご要望のアップルパイ、上手く焼けたよ。キッチンに置いてある。冷ましてるところだから、ここで食べるより持って帰った方がいいと思う。もう分かってると思うけど、ツメと私は見えるだけ。で、伏黒くんは見えて祓える。そもそも呪霊が見える人間は少ないっていうのに、この部屋には3人も見える側が居るなんて少し不思議な感じがするよ。それで、そっちは何か分かった?」

咲菊が扉に寄り掛かりながら言った。
ツメと呼ばれた男がノートパソコンの画面を咲菊に見せた。

「咲菊が言ってた通り、薬学部の3年。この男が首謀者だよ。あと、こっちが周りの子分たち。オレ、ヤクザと関わりたくないから報告とかは任せてもいいよね」
「もちろん。助かったよ、ありがとう」

伏黒の心配は杞憂に終わったらしかった。
咲菊は怪我をしていなかったし、なにか別の問題に巻き込まれている訳でもなさそうだった。
むしろ、問題というか事件はほとんど解決していた。
ハッカー集団の幹部がどうとか、中学をハッキングしただとか、変人が咲菊の家にいるだとか、その辺のことはもう慣れていくしかないのだろう。
それにしても、ハイクオリティという名前、どこかで見聞きした覚えがある。
この前、銀行のサーバーを乗っ取り情報保護システムの脆弱性を明らかにしたとか、何とか、ニュースでやっていたような気がするが、どうだったか。

「じゃあ、オレは報酬を取りに行ってくるから。その辺の機材、あんま触んないでね」

伏黒と咲菊はツメが部屋から出るのを眺めていた。

「今の。ハイクオリティって、ニュースでやってたやつか?」
「へぇ、ニュースでやってたんだ。ネット上ではかなり盛り上がったらしいけど、詳しいことは知らない。ツメとは個人的に仲が良いってだけだから」

咲菊はノートパソコンで報告書を作っているのか、作業しながらの返事だった。

「報酬って?」
「彼、アップルパイが好きなんだ。だから、それが報酬になる。今回は私がハイクオリティに依頼する形をとったんだ。流石に大学のサーバーをハッキングする能力は私にはないからね。適材適所だよ。まあ、特に問題なく事件は片付いたってわけだ。それで?」
「……それでって?」
「今日は何しに来たのかと」
「特に用事はない。ただ、ちょっと心配だっただけだ」
「心配どうも。この通りピンピンしてるよ。今日、時間ある?」
「何をするつもりだ」
「練習だよ」

一体、何の。
咲菊が立ち上がったので、伏黒もそれに続いた。



向かったのは廊下の突き当たり、一番奥の部屋だった。
咲菊は例の金網を指さした。

「ピッキングの練習だよ、ワトソンくん」

咲菊が得意げな顔をして言った。
金網の一番上の行は簡単にピッキングできるようになっており、ピッキング初心者用。
そこから下へ降りるごとに難易度が少しずつ高くなっている。

「とりあえず、目標は1分以内かな。もちろん、私は全てピッキングできるよ。やって見せようか?」
「できるものならな」

咲菊は金網の真ん中辺りから一つ取り出して、机の上に置いた。

「そこの手錠を私の手に掛けて」

椅子に座り両手を後ろに回した。
伏黒は言われた通り、手錠を掛ける。

「貴方の合図で始めよう」

伏黒はストップウォッチで時間を計った。
カチャカチャという音が続き、手錠が簡単に外れる。
そこから南京錠を弄った。
伏黒は何か魔法でも使っているのかと思った。
もしくは、そういう術式か。

「何秒だった?」
「……43秒」
「いつもより遅い」
「うそだろ、信じらんねぇ」
「コツを掴めば誰でもできるよ。ツメもできるようになったから。まあ、練習次第だけどね。やってみて」

伏黒は手錠なしで、とりあえず一番簡単なものから始めたが、なかなか上手くいかない。
コツを掴めばと言うが、そのコツがどの辺りにあるのかすら分からなかった。
いつの間にかツメが一切れのアップルパイを片手に、伏黒が南京錠と格闘しているのを眺めていた。

「鍵と錠の構造を知れば、どの辺を弄ればいいのか分かるんじゃない?」

口元にパイの欠片を付けているせいで格好がつかないが、言っていることには一理あるかもしれない。
ツメは紙に南京錠の絵を描いた。
その隣に鍵の絵も。
ついで、スタンダードなタイプの南京錠の構造を簡略化して描いていく。

「錠のここの凹みと、鍵のこの山の部分がハマれば、後は回すだけだよ。指先の感覚に集中して。あとは……神様にお願いでもしたら?開けゴマってね」

アップルパイ美味しかったよ。
残りは持って帰る。
なんかあったら連絡して。
それから、学校にはちゃんと行くべき。
最近、休みすぎだよ。
じゃあね。
ツメはそう言い残して部屋を出た。

「穂村より説明が上手いな、アイツ」
「知能の低い相手用の説明書を作ってなくて」
「オマエ、友達いないだろ」
「不良の伏黒くんがそれを言うの?」

集中力が切れた伏黒は、針金を机の上に放り投げた。
その時、どちらの物かスマートフォンに連絡が入った。
どうやら伏黒の方だったらしく、相手は五条からだった。

{咲菊って、スリ得意だったりする?)
{あと、明日の放課後空いてる?)
{空いてなくても来てもらうけど)
{彼女にも伝えて)

伏黒は咲菊にスマホを渡した。
口で説明するのが面倒だったからだ。
明日の放課後、必ず面倒なことが起きると分かったので、伏黒の気分はどん底と言ってよかった。

(物による}
{もしかしなくても本人かな?)
(当たり}
{スマホなんだけど)
(了解}
{学校まで迎えに行くよ)
(待ってる}
{未来で?)
(時かけ?それともハウル?}
{どっちでも。終わったら映画でも見る?)
(いいね}
{また明日)
(おやすみ}

伏黒がどん底の気分を味わっている間、五条は咲菊を映画デートに誘っていた。
人のスマホで勝手に何やってんだ、と言いたくなったが、どうせ言っても相手は五条と咲菊だ。
何も言わない方が得策だろうと思い、伏黒は咲菊を睨むだけに留めた。
睨まれた咲菊の方は小さく肩を竦めるだけで、何も気にしていないようだった。
こういう所が腹立つんだよな。
という伏黒の心の声ですら、咲菊にはお見通しなのだろう。
伏黒は一度もピッキングに成功することなく、咲菊の家を後にした。



次の日、伏黒が教室へ入ると咲菊は既に席に着いていた。
挨拶をするべきか一瞬悩んだが、何もせずに自分の席へ向かった。
今まで、まともに関わっていなかった人間が急にそういうことをすると目立つ上に、いらぬ誤解を生む。
それは伏黒の本意ではないし、咲菊の方もそうだろう。
まあ、彼女はそんなことを一々気にするタイプではないだろうが。
結局、放課後まできちんと話ができなかった。
なかなかタイミングが合わなかったのだ。
クラスメイトの大半が部活へ向かい、がらんとした教室で、伏黒はようやく咲菊に声をかけることができた。

「さっき五条さんから連絡あったぞ」
「……久しぶりだよ。一日まともに授業を受けたのは。あまりに退屈で気が変になりそうだった」
「アンタ、本当に変人だな」
「褒め言葉だよ。どうもありがとう」

それもそのはず。
咲菊は普段エキセントリックなアドレナリンジャンキーたちと、事件やら事故やらを追いかけているのだ。
普通の中学生の普通の日常など、謳歌できるはずもない。
彼女に必要なのは、自分の持っているスキルを発揮できるような舞台だ。
咲菊におあつらえ向きの舞台は、五条が用意した。
後は伏黒がそこまでエスコートすればいい。
まるでマッチングアプリか何かにでもなった気がして、元からなかったやる気が更に失せた。

「近くのコンビニで待機してるらしい」
「じゃ、行こうか」

咲菊は待ってましたと言わんばかりの勢いで立ち上がった。

「映画」
「映画がどうかした?」
「五条さんと見に行くんだろ」
「どうかな。彼、気まぐれな感じがするから。予定が空いてたら見るんじゃない?」
「……そうか」

二人がコンビニまでの道のりで話したのはそれだけだった。
咲菊の返事はどこか上の空な感じがして、また何か考えているんだろうと、伏黒は会話を諦めた。
友人というには付き合いが浅い。
話す内容は大体、限られてくる。
話題が底を尽けば、どの道こうなる。
そう思いながら咲菊の隣を歩いた。
心地よい沈黙だった。



コンビニの駐車場には黒のセダンの他に、自転車が何台か止まっているだけだった。
運転席には五条付きの、伏黒も何度かお世話になったことのある補助監督の伊地知潔高が座っていた。
呼び出した本人は、スイーツが山ほど入った袋を片手に丁度コンビニから出てきた所だった。

「おつかれサマンサー!」
「お疲れ様です。で、任務内容は?」

伏黒は下らない会話をすっ飛ばし、単刀直入に聞いた。

「まあまあ、そう焦らず。話は車内に入ってから。レディーファーストだ」

五条が後部座席のドアを開け、恭しくお辞儀をした。
片手にコンビニの袋をぶら下げてなければ、もう少し格好がついただろう。
伏黒だけなら、そんなことはしない。
この男、女の前なら例えそれが軽薄だろうが、キザったらしく上辺だけの騎士道精神を見せるのだ。
相手が伏黒の同級生だろうとお構いなしに。
各々が車に乗り込み席に着いた所で、五条は咲菊にタブレットを渡した。

「早速で悪いけど、この男のスマホを盗んで欲しいんだよ。最近、複数人の呪詛師が徒党を組んで何か企んでる。が、その内容が何一つ掴めないでいる。上の連中がせっついて来てね。流石に僕は顔が割れてて動けない。そこで、咲菊の出番ってワケだ。恵にも着いてもらおうかと思ったけど、オマエもそこそこ有名人だからね。呪詛師に顔が割れてないのは咲菊だけ。一人で動いてもらうことになるけど、大丈夫そ?」
「この男の居場所は?」
「GPSで追っかけてる。出来ればそれも回収して欲しいけど、無理ならいいよ。スマホさえ手に入れば」
「服装は?」
「あー、なんか安っぽいスーツ着てたよ。僕ならあんなダサいの選ばない」
「スーツということは、スマホは普通ジャケットの内ポケットか外ポケットのどちらかに入れてるはずだよね」
「一般的なマナーだと内ポケットに入れるのが普通だけど、何、スーツだと無理とか?」
「まさか。でも動くのはある程度、相手を見てからになるかな。まあ、出来るよ。叔父に散々、仕込まれたからね」

五条と咲菊の会話を聞いていた運転手、伊地知は不安そうな顔を隠せずにいた。

「本当に、大丈夫でしょうか」

伏黒は小さくため息を吐いた。

「伊地知さん、穂村はただの中学生じゃありませんよ。ピッキングが得意で、地元のホームレスに小銭を握らせ情報屋扱いして、この辺を絞めてるヤクザをスポンサーに持ってて、しかも、ハッカー集団のボスと友達やってる、ただの変人です。多少の危険は自分で対応可能かと。でも、コイツは見えるだけで祓えるわけじゃない。普通のアクシデントなら俺が手出しする必要はありませんが、呪術関係で何かあった時すぐ動けるよう近くで待機したいと思ってます」

ヤクザだのハッカー集団だの、およそ中学生が口にしないような単語が出てきたので、伊地知の意識が一瞬、遠のいた。

「失礼ですが、何者…?」
「「変人」」

五条と伏黒の声が重なった。

「褒め言葉をどうも」

二人の発言を聞いても本人は何食わぬ顔をしている。
割と本気で褒め言葉だと思っているのかもしれない。
伊地知は咲菊と交流がないせいで、まだ彼女のことを普通の中学生だと思っている。

「大体、話はまとまった感じだね。早く移動しようぜ〜」

と、どこまでもノリの軽い五条の言葉に待ったを掛けたのは咲菊だった。

「途中、寄って欲しい所があるんだけど。十分もかからない」

咲菊が指定したのは地元で何十年と経営しているだろう、個人経営の制服店だった。

「私立の女子校の制服は経費で落とせる?」
「「「は?」」」

三人の声が揃った。

「私がスマホをスられた呪詛師なら、相手の制服を確認して学校を突き止める。ちょっと調べれば伏黒君の名前が出てくるから、スった相手が呪術師か、もしくはその関係者だと分かる。相手は未成年だから、見つけ出した後、人質にしやすい。つまり分かりやすい弱点ってことだ。要するに身元がバレないよう誤魔化す為の制服が必要。まさか私立の女子校に通うお嬢様がスリ行為を行うだなんて思えないから、ある程度の時間は稼げる。それで、経費で落とせそう?」

なるほど、そういう意図があったのか。
よくこの短時間でそこまで考え付くものだ。
三人は咲菊の頭の回転の速さに脱帽した。

「それなら、僕が買ったげるよ」
「ありがとう、パパ」
「そこはお兄ちゃんが良かったかな!」

伏黒は同級生が自分の後見人と、いわゆるパパ活をしている現実から逃げたくなった。
見たくないものを見せられた。
だが、相手はこの二人だ。
痛む頭を揉んで、何も見ていないと自分に言い聞かせた。

「いや、パパ呼びもアリ寄りのアリか……?」

とか呟いている五条を白い目で見ながら。
二人が店に入って行くのを伊地知は微妙な顔で見送った。
伏黒は頭の中で素数を数えていた。
五条が咲菊の腰に手を回していたことなんて、知らない。
見ていない。
見てないって言ってるだろ。

店から出てきた五条と咲菊は、それはもうお似合いのカップルのように見えた。
五条は例え性格がクズでも、外面だけは神が与えたのではというほどの一級品であり、すらりと長い手足や、色素が抜けきった真っ白な髪は太陽の光で透き通って見える。
サングラスから時折、見え隠れする空を閉じ込めたような青い目は、視線一つで人を恋に落とせると言っても過言ではない。
職人が手間と暇と情熱をかけて作り上げた一級品の隣に、なんの遜色もなく馴染んでいる女がいる。
穂村咲菊、その人である。

伏黒は、私立の女子校の制服を侮っていた。
心の中で叫んだ。
チクショウ、めちゃくちゃ美人じゃねえか。
流石、私立高校の制服。
どこから見ても品があるのだ。
野暮ったい公立中学の制服が、やけに安っぽく、俗にいうコスプレのように見えてしまうのも頷ける。
伏黒は別にルッキズム主義者ではないが、これは目を見張る美しさだと思った。
咲菊は元々、綺麗な顔立ちをしていたが、今はより磨きがかかっている。
ピカピカに磨き上げられたローファーから、鹿のような細い足を黒いタイツが包んでおり、そのラインは膝より少し下の方まで続いている。
クラスメイトの女子たちが、こぞってスカートを折り曲げて短くしているが、それが却って下品に見えることを伏黒は知っていた。
勿論、咲菊は普段から制服を崩さずに着るタイプだ。
今回も、咲菊は一切の乱れがない規定の長さで、きちんと制服を着こなしている。
女子中学生にしては少し高いくらいの身長も、隣に立っている五条のおかげかバランスがよく取れていた。
一言で表すなら「すっげー似合ってる」である。
勿論、伏黒は声に出して言ったりしないが。

「どうよ、恵。この変身ぶりは。最高だよね、そうだよね。声出ないくらい綺麗だよね!いやー、これ、マジで新しい扉開きそうだわ」
「お褒めの言葉ありがとう。貴方に言われると自信がつくよ、兄さん」
「やば……破壊力……どういたしまして。僕も咲菊の制服姿を拝めて眼福だ。ホントに、世界で一番キレイだよ」

五条は咲菊の肩にかかった髪をひと房すくい上げ、唇を落とした。
こういう所だ。
こういう所が、五条悟を五条悟たらしめているのだ。
女なら誰でもいいのか。
アンタより一回り歳下だぞ。
俺と同い年だぞ、分かってんですか。
今すぐ手を離せよ。
と、伏黒は心の中で叫んだ。
口から出たのは大きなため息だけだった。

「さて、準備もできたし行こうか」

咲菊の一声で、伊地知は車を出した。
若い子って凄い。
服装だけで、あんなにも雰囲気が変わるんだな。
なんて思いながらも、いつも通りスムーズな発進、ブレのない動き出しである。



呪詛師の居場所をタブレットで確認しながら、近くのコンビニまで移動した。
ここからが咲菊の腕の見せ所である。
五条は咲菊にエアチューブ付きのイヤホンを渡した。
映画などでよく見かける、FBI捜査官が使用しているタイプの物だ。
チューブの部分をバレないよう、髪で隠した。
これなら、もし何か見えてもイヤホンで音楽を聴いているように見えるだろう。

「一応ね。お互い、音声が聞こえるようになってるから。何かあったらすぐ駆けつけるよ」
「感度は?」
「良好」
「いいね。健闘を祈ってて」
「気を付けろよ」
「任せて」

咲菊はコンビニでコーヒーを買った。
白いカップは中身が見えないので丁度いい。
カップのフタは最後まできちんと閉めず、中身を零さないよう気を付けながら歩いた。

対象の呪詛師は簡単に見つかった。
男はスマホを触りながら、曲がり角の隅の方で立っている。
後ろ姿が見えるのが分かる。
あの場所なら、向こうからこちらを確認することはできない。
男がスマホを外ポケットに仕舞った。
絶好のチャンスだった。
咲菊は男の方へ、いつもと同じように歩く。
さも、下校途中の女子高生ですよ、という顔をして。

「あっ、すいません!」
「いえっ!こちらこそ、ボーッとしてたみたいで……コーヒー大丈夫ですか?」
「ええ、私は大丈夫です。あの、火傷とかしてないですか?コーヒーかかったりとか。良ければハンカチ使ってください」
「あぁ、わざわざすみません」
「こちらの方こそ、すみませんでした。本当、明日のテストのことで頭が一杯になっちゃってて……ごめなんさい」
「俺は全然、ホント大丈夫だから。テスト、頑張ってね」
「ええ、ありがとう。ハンカチ、必要なければ捨ててもらって大丈夫ですので。では、ごきげんよう」

咲菊は男の前でわざとぶつかったフリをして、更にコーヒーを地面に零した。
その時点で、男の目線は既に地面にある。
相手が外れたカップのフタを拾おうと前かがみになった時、GPSを盗み出した。
咲菊は足元に転がったカップの中にGPSを入れて、手で隠すようにして持った。
男がカップのフタに目線を向けながら立ち上がろうとした時、外ポケットのスマホを盗み、予め少しだけ開いておいたカバンの中にしまい、チャックを閉める。
男が立ち上がってカップのフタを渡してきたとき、初めて目が合った。
フタをしてしまえばGPSは外からは見えない。
後はその場で思いついたテストがどうの、という言葉で若干の時間稼ぎと、バレていないという確認をして、男とは別れた。
私立の女子校に通うお嬢様らしく、別れの挨拶にも一つ工夫を施して。
見事な手腕だった。



咲菊は交差点を曲がり、迂回しながら先程のコンビニまで歩く。
黒のセダンの助手席でヒラヒラと手を振っているのは五条だ。
伏黒が後部座席のドアを開けたので、乗り込みドアを閉めた。

「収穫は?」
「バッチリ」
「あの角の所、ここからじゃ微妙に見えなくってさ。移動しようかと思ったんだけど、大丈夫だったね」
「内ポケットではなく、外ポケットだったよ。難易度が下がってガッカリ」

咲菊はカバンからスマホを取り出し、五条に渡した。
そして伊地知にはコーヒーカップを揺らしながら渡した。
中でGPSが転がってカタコトと音がしている。

「GPSも回収できたんですか!?」
「まあね。ついでにコレもあげるよ。手癖が悪くて申し訳ない。別に腕時計でも構わなかったんだけど、Gショックの腕時計は別に欲しくなかったから。いい歳した男がピンクのGショックなんて有り得ないよ。五条さんが言ってた通り、ダサいスーツだったし。革靴も磨り減ってる上にメンテナンスがされてなかった。酷い有様、ボロボロになってた。アレじゃ靴が可哀想だ。きっと金回りが悪いんだろうね。全体的にいろいろと残念な人だったよ。あのスーツだって何度も脱ぎ着してるんだと思うよ。シワがハッキリと残っていたからね。だから、今回の仕事で一儲けしようとしてたんじゃないかな。どう見ても下っ端って感じだったけど、やりようによれば大金が稼げる仕事だろうから。きっと息子か娘か……とにかく子供のためだ。靴下にアンパンマンのシールが貼ってあったんだ。子供のイタズラに気づかないような、大雑把な性格をしてる。スマホに細かい傷がかなり付いているのも、その証拠。きっと小銭や鍵と一緒にポケットに入れてたんだよ。ついでに、その飴もね」

いつもの咲菊が顔を見せた。
捲し立てるように言って、伊地知の手にハッカ味の飴を一つ転がす。
咲菊が回収したのはスマホとGPSだけではなかったのだ。
咲菊にとって今回のスリは、余裕の一言に尽きる。
五条は喉を鳴らすように笑った。

「……怪我は?」
「ただのスリで怪我の心配?伏黒くんは神経質すぎるきらいがあるね。もし、あの呪詛師に何かされたとして、万が一、億が一、私が怪我をしていたとしても、それは全くの無問題だよ。なぜなら、呪力によって付けられた傷は自分で治せるからだ。自分以外の人間を治せるかどうかは、まだやったことがないから分からないけど、やろうと思えばできるさ」

………………。

「今、なんて言った?」
「呪力によって付けられた傷は自分で治せるからだ。他の人間もやろうと思えばできる。と言ったんだよ。隣に座ってるのに、伏黒くんは聞こえなかったの?それとも若年性健忘症かな?」
「五条さん!」
「うん?あー、知ってたよ。ていうか、見えてるし。でもなぁ、咲菊を高専所属にするには勿体ないんだよ。いや、いいんだよ?別に。硝子の所に連れてってもさ。反転術式を使えるのなんて数が限られてるからね。ただ、そうなると、咲菊は医務室に引きこもらなきゃいけなくなる。それだと面白くないでしょ。僕的には、だ。僕の手足となって、呪術界という名のおもちゃ箱を一緒にひっくり返して欲しいと思ってるんだよね。要するに、咲菊の持ってるスキルを最大限、活かせるのは医務室じゃなく、僕のそばだってことだよ。分かる?」
「分かりませんよ、分かりたくもありません」
「それに、こんな美人が一緒だと僕のポテンシャルも上がるってもんだ。ほら、僕って最強じゃない?こう見えて人より忙しいんだよ。日々の暮らしに癒しは必要不可欠だ。甘味然り、美人然り。ね?」

上がるのはポテンシャルじゃなく、テンションだろう。
だが、伏黒はもう何も言わなかった。
確かに、咲菊は五条のそばに居れば退屈せずにすむ。
普段の彼女の生活をほんの少し知っている伏黒は、咲菊が探偵擬きの活動を心から楽しんでいることくらい分かっている。
だからこそ、大きく出られなかったのだ。
ただ一つ言えるのは、この先、咲菊がどんな道に進むかは彼女自身が決めるべきだ、ということだけだ。
この世界は甘くない。
人の悪意に慣れていないと、続かないのだ。
覚悟がなければ、簡単に折れてしまう。
生きながら裸足で地獄を歩く、そういう覚悟がなければ。

「まあ、何にせよ高専には入学してもらうつもりでいるよ」
「初耳だね。知らなかったよ」
「あれ、言ってなかった?」
「……今の。今までの、築き上げてきた地位を、居場所を、友人たちを、全て捨ててまで、行く価値があるとは思えない。そこについては話し合いが必要みたいだね」
「今すぐ決めろって話じゃないからね。ゆっくり考えてよ。時間はまだあるからさ」
「身辺整理をしていたら、あっという間だろうけどね」

どうせ逃がすつもりもないくせに、よくそんなことが言える。
咲菊も、それを分かっているのだろう。
わざわざ身辺整理なんて言葉を選んだ辺り、既に答えは決まっているらしかった。
咲菊を家まで送り届けた後の車内は静かで、伏黒は今すぐにでも車を降りたかった。



夏休み期間に入ってから、伏黒は咲菊の家に半ば居候のような形で寄生していた。
一日の合間、任務に出ることもあったが、帰る場所は咲菊の家だった。
ひたすらピッキングやスリの練習をしていたのだ。
なぜ、自分がこんなことを、とも思わないではなかったが、やりかけたことをそのままにするような性分ではなかったし、何より、咲菊にできて自分にできない、というのが腹立たしかったのだ。
それに、咲菊は作業効率が落ちるとかで食事をまともに摂ろうとしないのだ。
誰かが面倒を見てやらないと、そのうち栄養失調で倒れかねない。

「……また、素麺だ」
「文句があるなら食うな」
「毎日、決まった時間に同じ物を食べるなんて悪趣味だよ。朝はパンを食べて、昼は素麺を食べて……どうして人間は一日に三食もしなきゃいけないんだろうね?」
「腹が減るからだ。嫌なら食うな。オイ、その生姜は俺のだ」
「ネギも欲しい」
「自分でやれ。冷蔵庫、空だったけどな」

こんな小競り合いも最近では日常化してきた。
咲菊は自分の生活に他人が入り込んでいることに違和感を感じていたが、特に何か言うこともなかった。
伏黒は、自分が探偵擬きの助手役を自ら買って出ている現状に文句を言うが、結局、体が動いてしまっているのでどうしようもない。
高専入学を決めてから、依頼のほとんどを断っている咲菊が癇癪を起こすタイミングまで分かるようになってしまっている。
夜中にガレージで中古車のエンジンを弄っていたときは、とうとう精神がおかしくなったのかと思ったが。
そのうち、庭を爆発させるかもしれない。
ファミリーパックの花火は没収するべきだろう。

「宿題は?」
「とっくの昔に終わっているよ。ありもしない夏休みの思い出をブログの記事のように書いているときだけは、退屈しなかった」
「内容は?」
「叔父と二人でフランスへ行きストライキに参加したあと、現地で仲良くなったブルジョワジー共と一緒に美術品のオークションに参加した話を書いたよ。このオークション、実を言うと叔父が一枚噛んでいて、高値で取り引きされた商品は偽物だったんだ。叔父はブルジョワジー共から大金をせしめ、太陽が海へ沈むのを横目にイタリアへ向かった。私はフランスに残りルーブル美術館やヴェルサイユ宮殿といったベタな観光地を、一人、気の向くままに楽しんだ。という、ありもしない夏の思い出の話だよ」

フランスの観光地の記事がその辺に散らばっていたのは、これが理由だったのか。
若干、その作文を読んでみたいと思ってしまった自分に辟易した。
それでも、大量の爪楊枝をホームセンターで購入していた意味までは分からなかったが。

「エッフェル塔には登ったのか?」
「もちろん。退屈な夏休みを過ごしている伏黒君にお土産だ」

爪楊枝である。
というか、爪楊枝で作ってあるエッフェル塔、擬き。
完成度があまりに高いので、捨てるに捨てれない。
ここまで手が混んでいると、逆に関心する。
本当に退屈なんだな、と。

「二階の廊下にでも飾っとく」
「お好きにどうぞ。でも、全てが嘘というわけでもないんだよ。実際、叔父は今フランスにいる」

咲菊は一枚のポストカードを伏黒に渡した。
ポストカードの写真はフランスではなく、オランダの世界遺産、キンデルダイクの風車だった。
達筆な、英語か何かで、何かしらが書いてあった。
内容が全く分からない。

「写真はオランダだろ?」
「消印がフランスだ」
「なんて書いてあるか聞いてもいいか?」

咲菊は書いてあるものを日本語に翻訳せず、そのまま読んだ。
響きからしてフランス語っぽいが、結局、内容が分からない。
伏黒は舌打ちした。

「いい商売だった。イタリアではワインを飲んだこと以外、覚えていないが。ワインを送る。ではまた。といったところかな」
「イタリア?オランダじゃなかったのか?」
「フランスだよ」
「……もう、どこでもいい。俺もフランス語を勉強するべきか?」
「その前にスリの練習をしなよ」

二人は廊下に佇んでいるトルソーを眺めた。
紺色のジャケットを着ている。
ただ、そのジャケットのあらゆる場所に鈴が取り付けられている。
音をたてずに、内ポケットからポイントカードを盗むことができたら、とりあえずは合格ということになっている。

「さて、私はイレギュラーズにお小遣いを渡しに行ってくるから、伏黒くんはスリの練習をするんだよ。あと、ツメが来ると思うけど気にしないように。最近、ワイファイの調子が悪くてね。それを見てもらうんだ」

イレギュラーズ、河川敷のテント村に住んでいる咲菊の情報源たち。
お小遣いとは、その情報料だ。
咲菊は定期的に顔を見せに行っている。
この前は伏黒も一緒に行き、何故か賭け麻雀をやらされた。
見事に五千円、失った苦い思い出がある。

「んーんーん?」
「素麺?ああ、残りは食べていいよ。帰りにアイスとネギを買ってくる」
「んー、熱中症には気を付けろよ」
「承知。では、行って参る」
「……いつ、お戻りになりますか?」
「遅ければ、盆に」

この前、咲菊と暇つぶしに見た時代劇のセリフだ。
クライマックスの殺陣のシーンが、かなり良かったのでセリフを覚えていた。



伏黒は食器を洗い終えた後、トルソーを横目に通り過ぎ、階段下の物置部屋からファミリーパックの花火を取り出した。
部屋の中でロケット花火を打ち上げられては困る。
いっそ、あのトルソーに向かって打ってやろうかとも思った。
咲菊に何度か手本を見せてもらったが、伏黒がやると必ずどこかの鈴が鳴ってしまうのだ。
色とりどりの花火を前に、そんなことを考えていた。
そのせいか来客に気づけなかった。
肩を二回ほどつつかれた。
今日も綺麗なプリン頭をしているツメである。

「久しぶり」
「ツメ、さん」
「別にツメでも研磨でもいいのに」
「けんま?」
「咲菊から聞いてない?オレの本名。孤爪、孤爪研磨。好きに呼んでよ」
「……じゃあ、研磨さん」
「ん。咲菊、どこいったか知ってる?」
「穂村なら、イレギュラーズの所に」
「イレギュラーズ……ああ、ホームレスの。勝手に作業、始めていいよね」
「どうぞ」
「……恵ってさ、咲菊と一緒に住んでるの?」
「住んでるというか。まあ、最近は」
「ふうん。なのに、まだ苗字で呼んでるんだ。付き合ってるわけじゃないんだよね」
「付き合ってないです」
「そっか。なら、オレにもまだチャンスはある感じ、かな?」

猫のような目の中に鋭い光が差し込んでいる。
チャンス。
それは、つまり。
ああ、嫌だな。
この思いが独占欲から来るものだろうが、違っていようが、なんだって構わない。
伏黒は今、自覚した。
彼女の隣は自分がいい。

「……どうでしょうね。アイツは、自分の生活に他人が入るのを嫌がる。誰だってそうでしょうけど」
「自分は特別だと思ってる?」
「まさか。使い勝手のいい助手ですよ」

今は、まだ。
伏黒はその言葉を飲み込んだ。
ただ言えるのは、この場所を他人に渡すつもりなど一切ないということだけだ。
相手が最強の呪術師だろうと、最強のハッカーだろうと。

穂村咲菊という探偵擬きの助手を務めるのは、伏黒恵だけでいいのだ。





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