二十三


そして、傑の両腕は、悟の肩から徐々に位置を換えて、彼の首に迫って行くのでした。

「やめて……」

悟はもう無我夢中でした。
彼はただ身を逃れることの外は考えなかったのです。
遠い祖先から受継いだ護身の本能は、彼をして、狼の様に歯をむかせました。
そして、殆ど反射的に、彼の鋭い、犬歯は、傑の二の腕深く喰い入ったのです。

「クソッ」

傑は思わず手をゆるめないではいられませんでした。
その隙に、悟は日頃の彼からはどうしても想像することの出来ない、す早さで、傑の腕をくぐり抜けると、恐しい勢で、海豹の様に水中を跳ねて、真暗な彼方の岸へと逃れました。

「助けて……」

劈く様な悲鳴が四周あたりの小山に響き渡りました。

「ここは山の中だ。誰が助けに来る?昼間の女共は、もうこの地の底の部屋に帰ってぐっすり寐込んでいるだろう。それに、君は逃げ道さえ知らないのに」

傑は態と余裕を見せて、猫の様に彼へ近寄るのです。
地上には何者もいないことは、この王国の主である彼にはよく分っていました。
少しばかり心配なのは、彼の悲鳴が、花火の筒を通して、遙かの地下へ伝わりはしないかということでしたが、幸いにも悟の上陸したのは、それの反対側でしたし、又、地下の花火打上装置のすぐ側には、発電用のエンジンがひどい音を立てていて、滅多に地上の声などが聞こえる筈はないのでした。
それにもっと安心なのは、丁度、今、十幾発目かの花火が打ち上げられて、さっきの悲鳴はその音の為に、殆ど打ち消されてしまったことです。
まだ消えやらぬ、金色の火焔は、あちこちと出口を探して逃げ惑う悟の痛ましい姿を、まざまざと映し出しています。
傑は一飛びに彼の身体に飛びついて、そこへ折重なって倒れると、何の苦もなくその首に両手を廻すことが出来ました。
そして、彼が第二の悲鳴を発する前に、彼の呼吸はもう苦しくなっていたのです。

「どうか許してくれ、私は今でも悟を愛してる。でも私は慾が深いんだ。この島で行われる数々の歓楽を見捨てることが出来ない。君、一人の為に身を亡ぼす訳には行かないんだ」

果てはぽろぽろと涙をこぼして、傑は

「許してくれ、許してくれ」

と連呼しながら、益々、固く腕を締めて行きました。
彼の身体の下では、肉と肉とを接して、裸体の悟が、網にかかった魚の様に、ピチピチと躍っているのです。
人工花山の谷底、あたたかく匂やかな湯気の中で、奇怪なる花火の五色の虹を浴び、ざれ狂う二匹の獣の様に、二人の裸体がもつれ合う。
それは恐しい人殺しなんかではなくて、寧ろ酔いしれた裸踊りとも眺められたのです。
追い廻す腕、逃げまどう肌、ある時は、密着した頬と頬との間に、鹽っぱい涙が混り合い、胸と胸とが狂わしき動悸の拍子を合わせ、その滝つ瀬のあぶら汗は、二人の身体をなまこの様なドロドロのものに解きほぐして行くかと見えました。
争闘というよりは、遊戯の感じでした。
「死の遊戯」というものがあるならば、正しくそれでありましょう。
相手の腹にまたがって、その細首をしめつけている傑も、男のたくましい筋肉の下で、もがきあえいでいる悟も、いつしか苦痛を忘れ、うっとりとした快感、名状、出来ない有頂天に陥って行くのでした。
やがて、悟の青ざめた指が、断末魔の美しい曲線を描いて、幾度か空を掴み、彼のすき通った鼻の穴から、糸の様な血のりが、トロトロと流れ出ました。
そして、丁度その時、まるで申し合わせでもした様に、打ち上げられた花火の、巨大な金色の花瓣は、クッキリと黒天鵞絨の空を区切って、下界の花園や、泉や、そこにもつれ合う二つの肉塊を、ふりそそぐ金粉の中にとじこめて行くのでした。
悟の青白い顔、その上に流れる糸の様に細く、赤漆の様につややかな、一筋の血のり、それがどんなに静にも美しく見えたことでしょう。


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