二十四


夏油傑がT市の五条邸に帰らなくなったのは、その日からでした。
彼は全くパノラマ国の住人として――この物狂わしき王国の君主として、沖の島に永住することになりました。

「悟はこのパノラマ国の女王様だ。人間界へは決して二度と姿を見せないだろう。君はこの島にある群像の国を見ただろうか。時として悟は、あの目まぐるしく林立した裸体像の一人になりすましていることもあるんだよ。そうでない時には海の底の人魚か、毒蛇の国の蛇使いか、花園に咲き乱れた花の精か、そして、その様な遊びにも飽き果てると、この壮麗な宮殿の奥深く、錦のとばりに包まれた、栄耀栄華の女王様だ。この楽園の生活を、どうして彼が好まないことがある。彼は丁度、昔話の浦島太郎の様に、時を忘れ、家を忘れてこの国の美しさに陶酔しているんだ。お前方はちっとも心配なんてすることはない。お前のいとしい主人は、今、幸福の絶頂にあるのだから」

悟の年とった乳母が主人の安否を気遣って、態々、沖の島へ彼をお迎いにやって来た時、傑は、島の地下を穿って建築した壮麗な宮殿の玉座に坐って、まるで一国の帝王がその臣下を引見する様な、おごそかな儀礼を以て、この昔者の老婆を驚かせました。
老婆は傑の美しい言葉に安堵したのか、それとも、その場の光景の物々しさにうたれたのか、返す言葉もなく引下る外はなかったのです。
凡てがこの調子でありました。
五条には重ね重ねの莫大な引出物、その外の親類、縁者には、あるものには経済上の圧迫、あるものにはその反対に惜しげもない贈物、それから官辺へのつけ届けなども、傑の手によって、抜かりなく実行されていたのです。
一方島の人々は、悟の姿を垣間見ることさえ許されませんでした。
彼は昼も夜も、地下の宮殿の奥深く、傑の居間の裏側の、重いとばりの蔭にかくれ、何人たりとも、その部屋に入ることを禁ぜられていたのです。
でも、主人の異常な嗜好を知っている島の人々は、定めしそのとばりの奥には、王様と女王様だけの、歓楽と夢の世界が秘められているのであろうと、ニヤニヤ笑いながら噂し合う位で、誰、一人、疑いを抱くものとてもありません。
一体、島の人達は、数人の男女を除いては、悟の顔をはっきり見知っている者もなく、ふと行きずりに女王様のお姿を見たところで、それが果して本当の悟かどうかを見分ける力もないのでした。
斯様にして、殆ど不可能な事柄がなしとげられたのです。
傑は五条家の限りなき財力によって、あらゆる困難に打ち勝ち、凡ての破綻を取りつくろうことが出来ました。
今まで貧乏だった親類、縁者が忽ちにして俄分限となり、みじめだった曲馬団の踊子、活動女優、女歌舞伎達は、この島では日本一の名優の様に好遇され、若い文士、画家、彫刻家、建築師達は、小さな会社の重役程の手当を受けているのです。
仮令そこが恐しい罪の国であったとしても、その人達にどうしてパノラマ島を見捨てる勇気がありましょう。
そして、遂に地上の楽園は来たのでした。
類を絶したカーニバルの狂気が、全島を覆い始めました。
花園に咲く裸女の花、湯の池に乱れる人魚の群、消えぬ花火、息づく群像、踊り狂う鋼鉄製の黒怪物、酩酊せる笑い上戸の猛獣共、毒蛇の蛇踊り、その間をねり歩く美女の蓮台、そして、蓮台の上には、錦の衣に包まれたこの国々の王様、夏油傑の物狂わしき笑い顔があるのです。
蓮台は時として、島の中央に完成したコンクリートの大円柱の、それには一面に青い蔦が這い、その間をこれは又、鉄の蔦の様な螺旋階が、ネジネジと頂上まで続いているのですが、その螺旋階をよじ昇ることもありました。
そこの頂上の奇怪な蕈形の傘の上からは、島全体を、遙かなる波打際まで一目に見渡すことが出来たのですが、その眺望の不可思議を何に例えたらよいのでしょう。
下界でのあらゆる風景は、螺旋階を昇ると共に消え去って、花園も池も森も人も、ただ見る幾重畳の大岩壁と変わり、頂上からは、それらの紅がら色の岩壁が丁度、一輪の花の各々の花瓣の形で、遙かの波打際まで重なり合って見えるのです。
パノラマ国の旅人は、様々の奇怪な景色の後で、この思いも設もうけぬ眺望に、又しても一驚を吃しなければなりません。
それは例えば、島全体が、大海に漂う一輪の薔薇でありましょうか、巨大なる阿片の夢の真紅の花が、空なるおてんとう様と、たった二人で、対等の交際をしているのです。
その類なき単調と巨大とが、どの様に不思議な美しさを醸し出していたか。
ある旅人はともすれば彼の遠い遠い祖先が見たであろう所の、かの神話の世界を思い出したかも知れないのですが、それらのすばらしい舞台での日夜を分かたぬ狂気と淫蕩、乱舞と陶酔の歓楽境、生死の遊戯の数々を、作者は如何に語ればよいのでありましょう。
それは恐らく、読者諸君のあらゆる悪夢の内、最も荒唐無稽で、最も血みどろで、そして最も瑰麗なるものに、幾分、似通っているのではないかと思われるのです。



<完>

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