性癖 - 迅悠一
「相変わらず、太ももが好きだね」
迅はこの部屋に来る度に、同じことを言う。グスタフ・クリムトの『ダナエ』を横目に、もう少しアングルがズレてくれれば、きっと肉感の凄まじい尻を拝めただろうにと思った。太もものみに焦点を当てるのであれば、この絵は太ももの魅力を完璧に表現している。だが、迅はどちらかと言うと、太ももより尻の方が好きだった。そんな迅を咎めるように、フランツ・フォン・シュトゥックの『官能』に描かれた真っ黒な蛇がこちらを睨んでいる。やれやれ。ほんの少しの邪な気持ちを抱くだけで、絵に睨まれるのだから、この部屋はいつだって趣味が悪い。
「相変わらず、人の尻ばかり追っかけてるきみにだけは、言われたくないね」
彼女はジョルジュ・バタイユの小説から顔を上げて、迅を見つめる。本のタイトルには『眼球譚』とあった。また悪趣味な本を読んでいる。彼女の目が蛇に似ているのは、気の所為ではないだろう。睨んでくるのは、何も絵の中の蛇だけではなかったらしい。
「オペレーターの子たちだけじゃないよ。戦闘員の女の子だって、きみのセクハラにはうんざりしている。そして、その愚痴を聞かされるのは、いつだって私だ」
やれやれ。そんな言葉が聞こえそうな、大きなため息だった。実力派エリートの些細なる息抜き。それが彼女のストレスの原因になっているらしい。だが、迅とて自らの、言うなれば数秒にも満たないバカンスを手放すことはしたくない。どうせ触るなら太ももより、尻の方が良いに決まってる。
「太ももなんか触ってどうするのさ」
「どうもしない。それに、私はきみと違って目で楽しむタイプだ。それこそ、触ってどうするんだよ」
この部屋を見れば分かるだろ、とでも言いたげな顔をしている。彼女が君臨するこの王室は、彼女のためだけに誂えてある。絵画、本、女性の下半身だけのオブジェ、その他いろいろ。本部のエンジニアは変わった人間が多いと聞くが、その噂の大半は彼女のことを指しているのであって、他のエンジニアからすればいい迷惑だろう。鬼怒田開発室長は何も言わなかったらしいが、多分それは見逃したのではなく諦めたのだと迅は思っている。彼女の頑固なところは、死んでも治らないだろう。
「尻派のおれからしてみれば、太ももは尻の下位互換なんだよな。両手に収まるくらいの丸いサイズと、言葉にしようのない柔らかさ。ここにロマンがあるわけだ。でも、太ももにはそれがない」
尻派と太もも派の戦いに決着が着いたことは一度もない。今まで、何度も同じ内容の話を延々と繰り返している。なんて不合理的な会談なのだろう。
「男が尻を好きなのは、胸の形に似ているからだよ。胸が好きな男は大勢いる。下位互換だなんて言葉を持ち出したきみが悪いね。今回は私の勝ちだ。尻こそ胸の下位互換。所詮はその程度なんだよ。それに比べて、太ももには圧倒的な美がある。エロティシズムの本髄は太ももにあり、だ」
両者、一歩も引かず。己のロマンに対する情熱は留まることを知らず、互いが互いの、尻だの太ももだのに、ケチをつけている。傍から見れば、二人とも大差ない変態だろう。迅はオブジェの硬く冷たい尻を撫でながら、そう思った。
「そんなに言うなら、尻を触ってみればいい。目で楽しむんじゃなく、手で触って感じる。そうすれば尻の良さが存分に分かるし、お前はきっとおれに平伏するだろうな」
彼女は迅の言葉に重い腰を上げて立ち上がり、オブジェの尻を撫で回した。それはもう見事な撫で回し方だった。おれでも、もう少し遠慮するのに。そうして一言、呟いた。
「硬い」
「……だろうね」
「きみ、ちょっと尻を差し出せよ」
「首を差し出せみたいに言わないで」
「悪いようにはしないから」
「嫌だ」
「生きてる人間の尻でなければ駄目なんだろう?」
「そういう問題じゃないんだよなぁ……」
迅はため息を吐きながら、徐に一枚の写真をポケットから取り出した。彼女はそれを受け取り、しげしげと見つめた。見覚えのある写真だ。あれは確か、去年か一昨年のクリスマスだったろうか。まだボーダーにいる隊員が少なかった頃の写真だ。黒いコートを着た彼女が写っている。彼女はそれを指先でなぞりながら、小さく笑った。
「懐かしいね。きみ、写真なんて趣味してたっけ?」
「趣味っていうか、まあ、趣味かな。昔、付き合ってた子の写真だよ」
「へえ」
「別れたけどね」
「ふぅん」
彼女は興味なさそうな声を出した。だが、その目は冷めきっていない。相変わらず、獲物を狙う蛇のような目をしている。迅は何故、彼女と別れることになったのか思い出そうとした。何か深い理由があっただろうか。……なかったんだろうな。お互い忙しくなって、何となく連絡を取り合わなくなっただけだったようにも思う。もしくは、尻派と太もも派に決着がつかなかったからか。その程度だろう。だから。
「今夜、撮影会をしようと思ってるんだけど」
「モチーフは?」
「そりゃ、尻に決まってるでしょ」
「……他の女の子には、そんな誘い方しちゃ駄目だぜ。きみ、フラれるかもしれない」
「いや、これはお前にだけ。それに、今のところフラれる未来は見えてないよ」
こんなことにサイドエフェクトを使うなんてどうかしてる。だが、見えてしまったものは仕方ない。
「おれのサイドエフェクトがそう言ってる」
確定された未来で、迅は彼女とベッドの中で微睡んでいた。迅はシュトゥックの絵を壁から外した。
「ずっと言おうか迷ってたんだけどさ、おれ、この蛇、嫌いなんだ」
「私はその太もも、好きなんだけどね」
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