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本の中では、人々は愛や憎しみを告白し、心に起こることをなんでも語っている。どうして現実ではそれが可能ではないのかしら。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール『離れがたき二人』
ニコラス・マッキントッシュと付き合った女は、必ず別れる。別れた女は、必ず美人になる。存在が昇華されるのだ。蛹が一羽の美しい蝶になるように。
ホグワーツでは、そんな噂が至る所で、まことしやかに囁かれていた。
存在。それが何だというんだ。ぼくは精一杯、存在してる。過去は今や、ぼくの未来の一部。現在は、もう手が届かない。
ニコラスは、のぼせた頭をバスタブの淵に乗せて空を見上げた。九月の初めの週末のイギリスは、今日も絶好調に曇り模様だ。
憂鬱。
ニコラスがホグズミード村にある叫びの屋敷で、猫足のついたバスタブを見つけたのは数年前のことだった。一人になりたくて、誰も近寄らない場所を彷徨っていたときに見つけた。片手に赤ワインの瓶を持っていたのが、全ての始まりだったかもしれない。ニコラスは、その猫足のついたバスタブを屋敷の裏へ移動させた。その日、たまたま晴れていたから、だったように思えるし、全く違うことを思っていたかもしれない。とくに深い理由はなかった。ニコラスはバスタブに赤ワインを並々と注いだ。補充呪文でバスタブ一杯になるまで継ぎ足した。着ていたコート――元はアメリカ軍に支給されていたトレンチコートが払い下げになったもので、誰が書いたのか背中に白いペンキでHATEと書かれている――を脱いで、脚の長さの不揃いな椅子の背に丁寧な手つきで掛けたあと、ニコラスは赤ワインの風呂に、服を着たまま浸かった。気分が良かった。たとえ真っ白なワイシャツが赤ワインの色に染まろうが、服がニコラスの身体にまとわりつこうが、全てが、どうでもよくなった。恋人や愛人たちの趣味の悪い安物の香水も、何の香りなのか分からないシャンプーや柔軟剤の香りも、今のニコラスには煩わしいものでしかなかったからだ。服を着たまま、赤ワインの風呂に浸かることは、ニコラスにとって、一つのストレス解消法だった。
嫌悪。
当時、闇の魔術に対する防衛術の担当をしていた人狼の教授と、初めて身体の関係を持ったのも、このバスタブだった。ニコラスの初恋は、優しさと無関心で出来ていた。世界がその二つで成り立っているのと同じように。ニコラスはリーマス・ルーピンが人狼だろうが、どうでもよかった。それはリーマスにとってニコラスから与えられた優しさであり、ニコラスにとっては無関心であった。二人を繋いだのは、誰にも理解されない孤独だけであり、他は不純物として持ち込まれなかった。ニコラスの孤独はニコラスだけのものであったし、リーマスの孤独はリーマスだけのものであったから、互いに、互いの孤独を理解しようなどという崇高な努力など皆無に等しかった。ただ、キスをして、セックスをして、赤ワインに含まれるアルコールが全ての輪郭を曖昧にさせた。瞬間的な温もりは湯気のようで、手に入れたそばから一気に冷めていく。
リーマスがニコラスから与えられたのは何も優しさだけではなかった。初めて人を愛することの楽しさを知ったのは、ニコラスの存在があったからだ。彼は学校を辞めたあと、ニコラスの知らない女性と恋に落ちたんだか、なんだったか、それはニコラスの預かり知らない話である。ニコラスがリーマスから与えられたのは、麻薬のように中毒性のある真心と、酷い裏切りだった。リーマスはニコラスの元から去り、ニコラスには傷が残った。初恋は実らず、初めて信用してもいいと思える大人には裏切られた。それだけだった。それだけだったが、よくある話だとも思った。それからニコラスは手当り次第――といっても、ニコラスの審美眼に叶う相手だ――色んな相手と関係を持った。寮や学年などの枠には囚われず、数々の異性、それから中には同性も、もちろん含まれていた。だが、最後には一人残らずニコラスの元を去ったのは、ニコラスが未だに初恋を引きずっているからなのか、それとも初恋によって付けられた傷を治療している最中だからなのかは、ニコラスにも分からない。
喪失。
低気圧のせいでニコラスの頭痛は死ぬまで治らないが、それでも赤ワインのアルコールがニコラスの脳をふやかす。何もかも、なんでもないし、そうなると自分が悟りの境地に至ったのかとすら錯覚させる。だが、この錯覚がアルコールによるものだということを、ニコラスは、きちんと理解していた。
ひとりよがりな快楽。それが世界から、ぼくへの褒美なのか。集団からの孤立は、内なる人格同士の闘いの始まりになる。ぼくは精一杯、存在してる。
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