02


 ニコラスが赤ワインの風呂に浸かりながら、憂鬱と嫌悪と喪失の三つの人格を戦わせているころ、セドリック・ディゴリーはニコラス・マッキントッシュについて考えていた。ロックスターを彷彿とさせるような倒錯した性的挑発性と時代錯誤の反対社会性を持ち、時代錯誤のナルシシズムやスノビズムとも捉えかねない無防備過ぎる精神は人を惹きつける。だが、セドリックから見れば、タチの悪いパロディを見せつけられているようにも思えた。いつからなのかワインの香りを身体に染み込ませた猥褻ぎりぎりの毒々しい色気と、着飾ることを知らない産まれたままの姿のロマンチズムと、露悪的なほどのナルシシズムが混同し、甘いルックスも相まってか、ニコラス・マッキントッシュという人間が、途端に分からなくなる。美術館に飾られているカラヴァッジョのナルキッソスが、額縁から抜け出して歩いているようにさえ思う。
 セドリックが初めてニコラス・マッキントッシュを近くで見たのは、図書館の奥まった人気のない静かな場所だった。ニコラスは上級生の男に自分の性器を咥えさせながら、ジャン・ジュネの『泥棒日記』を手に、快楽に身体を震わせていた。ニコラスはセドリックと目が合ったと思うと、滑らかな動きで腰を振り、セドリックを挑発した。セドリックは全身の血液が沸騰したかのように身体が熱くなり、喉が乾いた。セドリック自身ですら知らなかった欲を引きずり出したニコラスは、セドリックのことなどお構いなしに、上級生の男の性器を取り出し、自分のものと同時に擦り合わせ始めた。舌を絡めキスをしながらも、ニコラスはずっとセドリックを見つめていた。このことがあってから、セドリックは度々ニコラスのことを考えるようになった。ニコラスが、あの時、持っていたジャン・ジュネの本を手に取り、自慰に耽けることもあった。裏切りは究極の献身だ。ケチな犯罪は恥を知らないヒロイズムだ。監禁は自由だ。背徳の三位一体は、まさにニコラス・マッキントッシュを表しているように思えた。いつか、ニコラスと関係を持てたら、と、想像するだけで果ててしまえそうだった。セドリックは自分が彼の好みに合うかどうかが分からなかった。それに、ニコラスは誰とでも寝る。男でも女でも。ニコラスはゲイじゃないし、バイセクシャルでもない。ニコラスは、ニコラス・マッキントッシュという人間で、寝たい人間と寝る。ただそれだけだ。このことを分かっていない人間が、あまりに多すぎる。だから、誰も彼もがニコラスに自分の都合のいい様々なラベルをベタベタと貼り付けて、そういう人間なのだと勝手に決めつける。ニコラスを理解できるのは僕だけだ。そんな苛立ちが、セドリックの中に産まれた。
 ニコラスとセドリックが、初めて会話らしい会話をしたのは、九月の初めの週末の、ホグズミード休暇のことだった。ニコラスは、いつものように一人でフラフラと彷徨っている。その後ろ姿を見たセドリックは、足音を立てないように気をつけながら後を追った。ニコラスは赤ワインの風呂に浸かりながら、アレン・ギンズバーグの詩を読んでいた。ニコラスの血液は赤ワインで出来ている。セドリックは神を信じていないが、もしキリストが居るとしたらニコラス以外には考えられないとすら思った。神が不在なら発明する必要があった。ニコラスという神話は時の流れを逆行するような、他者を縛り付けるような保守的で閉鎖的なものではない。退廃的であり、無防備であり、そして何より原始的であった。無防備に誰かを愛するということは、ときに裏切られることもある。すべての善意が報われるわけではない。それでも、ニコラスは、それを美しいものとして肯定する。それは妄信的なポジティブでも、荒唐無稽な理想を掲げるのでもなければ、悪意によって他人を傷付けるものでもない。セドリックは彼に声をかけようか悩んだ。この機会を逃せば、きっと一生、ニコラスという信仰を失うと思った。

「きみの名前を忘れたことなんてないよ。ブルネットが綺麗な……ジェシカ?デボラ?」

 叫びの屋敷の影に隠れていたつもりだったが、ニコラスの方からは見えていたらしい。眠そうな目でセドリックを眺めながら声をかけた。セドリックは数度、口を開けたり閉じたりした。なんて返せばいいのか分からなかったのだ。

「デボラはブロンドだよ。ブルネットはジェーン。ジェシカは……知らない。それから、君はニコラス・マッキントッシュだ」
「そうだった。ジェシカは赤毛で、きみはブルネットのジェーンだ」

 ニコラスは自分を癒し、そして再起不能になるまで自分を傷付けていった相手の名前を、一人も覚えていない。過去は今や、ニコラスの未来の一部。現在は、もう手が届かない。リーマス・ルーピンの名前は、ニコラスの頭から消えてしまった。ニコラスはニヒルな笑みを口元に浮かべながら、吸血鬼が食事をしているかのようなエロチシズムを振り撒いている。

「僕はセドリック・ディゴリー。図書館で君を見た。君は僕を見ながら……」
「あぁ、うん。思い出したよ、セドリック・ディゴリー。ハッフルパフの王子様だ。きみは、ぼくの恋人役?」

 セドリックは猫足のついたバスタブに腰をかけて、ニコラスの髪に指を通した。シルクのような肌触りで、いつまでも触っていたくなった。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。決めるのは君だ。僕じゃない」

 ニコラスはセドリックの言葉に気分をよくしたらしく、自分の頭をセドリックの手に押し付けた。誰にでも懐く猫のように。

「ぼくにチャンスはある?やり直すチャンス……いや、始めるためのチャンスか」
「君が何かを愛したとき、それは永遠に君のものになるのかもしれない。それは突き放しても弧を描いて君の元に戻ってくる。君の一部となり……最後には君を破滅させる」

 ニコラスは暫く何も言わなかった。セドリックも、それきり黙り込んだ。ニコラスを傷付けたかもしれないと思ったからだ。ニコラスはセドリックの手を取って、何度かキスを落とした。まるで何かを誓うかのように。

「ぼくらは一番美しい瞬間に、この世を去るべきだと思わないか?」

 そう言ったニコラスは、バスタブから立ち上がった。そのとき赤ワインの雫が数滴セドリックを濡らしたが、セドリックは気にならなかった。ニコラスは丘を駆け上りながら、叫んで言った。

「セドリック!きみの言葉は美しい!ぼくは、性と死の話しか、したくないんだ!」

 美とは、この世の存在を互いに惹き寄せあい、互いを自らの支えとして信頼させあうために自然がめぐらす巧妙な策略の一つだ。ニコラスは、いつだって、その策略に自ら嵌りにいく。美しいものは何だって好きだ。愛している。ニコラスがセドリックの言葉を聞いたとき、自分には彼以上の美しい生き物と出会うことは、この先、一生ないだろうと確信した。人が人を愛することは、残酷なくらい原始的だ。性と死。それはセドリックにとって、どこか言い様のない懐かしいさに似た感情を思い起こさせた。新しいクラシックに触れた瞬間であり、どこまでも抽象的で、それなのに、どこまでも人間味のある感情だった。ニコラスの言葉からは、傷つき、裏切られながらも誰かを愛するべきなのだという明るくキャッチーな印象を受けるが、その影には常に孤独や世の中の不誠実さ、痛みや悲しみを目を逸らさずに全てを言語化するニコラスという人間の本心が読み取れた。自分とは違う存在の肯定をすること、つまりは他者の肯定、多様性と人間性の肯定であり、それは肯定という形をしたニコラスの愛の本質がある。何気ない日常の裏に隠れるように愛の本質があり、退屈な日々の繰り返しのなかでも、美しく掛け替えのないものはあるという普遍的なメッセージ。普遍の中に美しさを見出し、愛することの尊さを、口先だけの理想でも、偏見や恐怖に取り憑かれた被害妄想でもなく、セクシュアリティや人種に関わらず、自分の隣りにいる者の存在を、ありのままに肯定し、愛するという多様性とヒューマニズムが何よりも大事だということを、恋人を愛するどころか、ベンチで隣りに座る人間すら信じられない世界で、他者を肯定しようとすることの尊さを堂々と掲げている。行為は約束できるものだ。しかし感覚は約束できない。なぜなら感覚は意識の力では動かないものだからだ。よって永遠に愛するということは、約束できないように見える。しかし愛は感覚だけではない。愛の本質は、愛するという行為そのものであるからだ。
 曇り空の下で、何も着飾ったりしないニコラス・マッキントッシュとは、こうも美しい生き物なのか。セドリックはニコラスを追いかけ抱きしめて、薄く赤く芳醇な香りのする唇に何度もキスを落とした。ニコラスはワンダ・ジャクソンのFunnel Of Loveを口ずさんだ。初めて聴いたときはシンディ・ローパーのようなダミ声だと思った。恋に落ちた瞬間の気持ちを、愛の煙突に落ちれば自力では登っていけないことを、どこまでもセクシーで何も着飾らない声で歌い上げている。ニコラスはワンダ・ジャクソンやシンディ・ローパーのような声は出なかったが、それでも気分は良かった。

 ぼくは下に落ちて行く。ぼくの心は空白で、頭は回り回ってる。愛の煙突に落ちて行くとき、クレイジーな気分になる。ぼくは膝から弱くなって、頭も回っている。愛の煙突に落ちて行くとき、走って隠れようと何度も試して逃げようとも思った。でも、愛の煙突からは逃れられないよ。いつか、きみも落ちて行くんだ。それは変な気分だよ。ぼくは下に落ちて行く。ぼくの心は空白。頭は回り回ってるんだよ。愛の煙突に落ちて行くときは。



- 2 -

*前次#


LOVELESS トップページへ