ふれられるしあわせのすべてよ

※暗

「庭の紅葉が見頃なので、見に行きましょう」
「…いいよ、行こうか」

 今年はなかなか冬が始まらなかったせいで十二月になってもまだ寒くなかった。体調は大丈夫?と聞くとあたりまえのように元気ですよ、と微笑む。それでも名前には分厚いダウンコートを着せて、自分にくらべるとずいぶんと小さな手を引いて病室から出た。
 彼女は毎日、この部屋の窓から四季の間にある無限のグラデーションを五感で感じている。世間のことなど、呪いのことなど、何一つ気にしなくて良い、閉鎖された空間で、僕だけが異質だった。相変わらず黒い服を着て、季節に見合った花束を買って、名前に会いに行く。もう、そんなことを繰り返して半年が経つ。
 中庭に続く扉をくぐると、朱色に色づいた紅葉が目に入った。風が吹くたびに空色の膜を破ってはらはらと落ちていく小さな葉を見て、名前はきれいですね、と笑った。

 たぶん、苦労をかけることになると思うけど、それでも僕と結婚してくれる?
 なんて格好のつかないプロポーズだったんだろうと、今になって思う。そんな不甲斐ない愛の言葉にも名前は泣きながら喜んでくれた。
 悟さんのことが必要な人はたくさんいます。だから、家に帰ってこれないことくらい、気にしないでください。その言葉は間違いなく彼女の本心だったのだろう。結婚したからといってふたりで過ごす時間が増えるわけではなかった。僕が帰れば名前は任務に出ていることもあった。それでもふたりでいる時はなによりも彼女のことを優先したし、幸せだった。幸せだったはずだ。
 絡まっていた糸がふつふつとほどけていくようだ、と思った。半年前のある日、名前は任務で大怪我をした。外傷は硝子がきれいに治したけれど、心のほうは治らなかった。心の病気はどんな術式でも治せない。時折ひどく怯えたかと思えば、数分後には泣きながら笑っている。呪いや、家柄や、結婚したにも関わらず一人で過ごすことが多い部屋、そういったものが少しずつ彼女のことを蝕んで、ついには音を立てて崩れてしまった。原因の大半は僕にあるんじゃないか、と何度も彼女に聞きそうになったけれど、聞かなかった。答えがどうであれ、名前のことを傷つける。
 僕はずっと後悔している。結婚したことも、なんなら、数年前に好きだと言ったことすら。名前は呪術師としてとても強かったけれど、きっと名前は呪いと関係ない世界で、ふつうのお嫁さんになるべきだったんじゃないか。そう、ずっと後悔している。こんな部屋に大切に仕舞っておくために、僕は名前と結婚したんじゃないんだよ。

「やっぱりダウンコートなんて、おおげさですよ」
「風邪ひいたら困るじゃん」
「昔から、過保護ですよね」
「…名前が、大切だからね」

 繋いだ手からはかすかに心音が聞こえる。ああ、よかった。今日も名前の心臓はこうして動いている。大切だと言った自分の言葉にはひとつだって嘘はない。名前が望むのならなんだってしてあげたいし、望まなくても暖かくしてほしいし美味しいご飯を食べて欲しい、呪いに関わらずに生きて欲しい、笑っていてほしい、そのためならなんだってしてあげたいと思っている。
 空の青色と、紅葉の朱色のコントラストを愛おしそうに眺めては、名前は笑っている。僕はもう一度安堵した。

「悟さん、もうすぐ誕生日でしょ」
「え、ああ、そんな時期か」
「ほしいものはなにかありませんか、お祝いしたいです」

 欲しいもの。ほしいものなんてないけれど、ただ名前に家に帰ってきて欲しい。それが無理なら、僕が触れられるすべての幸せは、名前に降り注いでほしい。たったそれだけの願いも叶えることができない。なんて無力な手のひらなんだろう。壊すことよりも、守ることの方が何倍だって難しい。
 幸せにできなくてごめん、という情けない言葉は、たった今吹いた強い風が、散りゆく紅葉とともにさらっていった。自分がここに閉じ込められているのは僕のせいだと罵ってくれたなら、どれだけよかっただろう。僕がこんな気持ちの時は決まって、わたしは幸せですから泣かないで、と名前は笑う。そうしてようやく、視界が歪んでいたことに気付いた。


20200420
ふれられるしあわせのすべてよ