美々子と菜々子と一緒に過ごすようになってから夏油様は煙草を吸うのをやめて、あっさり禁煙に成功した。
煙草を吸うのをやめてから、キスすることが増えたと思う。口寂しい、らしい。わたしは煙草を吸ったことがないのでよくわからない。口寂しいというなら、ガムでもミントの味がするタブレットでも食べておけばいいんじゃないですか、なんてつまらないことをわたしは言わない。わたしがこの人の寂しさを少しでも埋められているのだとしたら、こんなに嬉しいことはないのだ。
ふたりが旅行に行きたいというので、四人で東京を離れて海が綺麗な離島に来た。本当に、海以外なにもなかった。三泊四日でちょうどよかったな、と思う。海に入るだけだとすぐに飽きてしまった。一日目は浮き輪でぷかぷか揺られてたら終わってしまった。二日目はあらかじめ持ってきたビーチボールで遊んでいたら終わってしまった。明日はいったいなにをしよう。海でできることは、案外限られているし、SPF50の日焼け止めが役に立たなかったせいで水着の跡ができている。
美々子と菜々子は疲れて、帰ってきて早々シャワーを浴びて眠たそうにご飯を食べた後すぐに寝てしまった。夏油様はお酒を飲むけれど煙草は吸わない。こっちにおいで、と呼び寄せられて窓辺で何度かキスをした。
「名前、ふたりとも寝たし、ここから抜け出そうか」
「どこに連れてってくれるんですか」
「夜の海とかどう?」
「…最高です」
旅館を一歩出ると、惣暗が広がっていた。東京とは違って街灯が少ない。少ない街灯にはわらわらと見たことがない虫が群がっている。ああそうか、しかも、今日は新月だ。月の光までここにはない。カメラと財布を持って、ビーチサンダルを履いて、深夜の二時を過ぎたころに波の音だけを頼りにして浜辺まで歩いていく。本当に誰ともすれ違うことはなかった。蝉のオーケストラと波の音で私たちの足音はかき消される。
わずかな星の光が海の波を銀色に染め上げてはすぐ消えていった。その様子がとても綺麗でわたしは何回かシャッターを押した。昼に来た時よりも波は手前まで来て、さまざまなものをさらっていく。あやしくて神々しい。
「夏油様、夜の海が似合いますね」
「そうかな」
純度が高い黒は限りなく透明に近いと思う。それがわたしにとっての夏油様の色だ。ここに広がるのはそういう黒色だ。
「ずっとこの夜が続いたらいいんだけど」
「どうしたんですか、死ぬ前みたいに優しい声で」
「死ぬなら夜の海がいいな、と思っただけだよ」
いつか本当に死んでしまう前よりも、今が一番死に近いような気がした。桜、夜の海、彼岸花、枯れ落ちた木。死の印象を強く持つそれらの前で生きていることが、なによりも死を形取る。
「じゃあわたし、夏油様がひとりで死なないように見張っておきますね」
今だって何も言わずに唇を押しつけられる。口寂しい?いや、たぶん本当に寂しいのだ。あなたが寂しい時にはわたしがそばにいて手を繋いでおかないと、夜の闇に溶けてしまいそう。
持ってきたカメラで何枚か撮った写真は、あとから見返したら何も写っていなかった。
夏油様、今日の夜のことは忘れてもいいですよ。安心してください、写真がなくても、わたしがちゃんと覚えておきます。
きっと今が世界で一番静かな夜の底。さっきまで聞こえていた暗騒音のひとつだってない。死ぬ前みたいに世界がわたしたちに優しい。旅館までの帰り道、手を繋いだ夏油様の心臓の音だけが聞こえる。
20200503
揮発していく夜