これの前日譚と後日談。
校舎を取り囲むように生えそろったブナの梢を揺らす風は、先月に比べ随分と冷たくなっている。
窓際に面した書き物机は天気にかかわらず光をよく取り込んでくれるが、これからの時期は冷気もまた然りで。知らず識らず指先が強張っていたことに気づき、筆を持つ手を止めた。
ホグワーツでは新学期を迎え、間もなくひと月が経とうとしていた。
夏休みの頃はワイシャツにタイを締めベストを着用するにとどめていたが、ここしばらくは出歩くたびにジャケットを持ち歩くようになった。日中こそまだ背中にじわりと汗をかくが、日陰に入れば少し肌寒くすら感じる微妙な季節。
校舎にはすっかり影が差し、生徒たちも夕飯時を構え校内に入るような時間帯にクィレルはひとり校舎をつなぐ廊下を歩いていた。
新学期始めの課題にと生徒に提出させたマグル学のレポートはなかなかに頭を悩ませる内容ばかりで、そのほとんどが今後の授業内容の改善を求めさせるには十分な出来のものばかりであった。
なんせ自身の担当する科目の受講者はその大半がマグルとの関わりが薄い純潔の魔法族ばかりだ。
この分野への探究心を持った生徒などごく僅かであり、彼らが選択科目に悩み数合わせにこの科目を選んでいることは百も承知だったが、それにしても、まさかここまで酷いとは。
今日は丸1日授業が空きだったので、予定していた授業の進行具合を調整しつつ月末に控える小テストの内容を考えていたのだが、生徒たちのお粗末なレポートを片手にしてはそうそう内容が固まるわけでもなし、次第に煮詰まって行くのを感じたクィレルは座り通しだった席を離れ気分転換にと外の空気を吸いに来たのだが。
「冷える…今夜は雨でも降るか?」
空は次第に夜の帳を下ろそうとしている。地上との境界線から少し顔をのぞかせた朱も、間も無く青紫へと色を変えるだろう。校舎の淵から続々と流れてくる雲は、夕暮れの光を浴びて綺麗なグラデーションを作っている。
気が付けば足を止めしばらく変わっていく空の表情を眺めてしまっていた。大広間からは生徒たちの賑わう様子が耳に届く。すこし歩けばその音の集合体の一部になれるのに、足は留まったまま孤独の空間に浸ってしまう。
不意にどこからか駆けるような足音が聞こえる。湿気ですこし滑りやすくなった廊下なのに、響くような足音は迷わずこちらに向かってきた。
「…あっ、クィレル教授!」
廊下の角から現れたのは、自身が受け持つ担当教科では珍しいマグル生まれの生徒、名前・苗字だった。以前、放課後自主的に質問をしにやってきた彼女から聞いたことだが、父親は医者(魔法族で言う癒者にあたる職業)で、母親の方は銀行員をしているのだそうだ。
苗字はレイブンクロー生の中でも名前を言えば嗚呼と返事が来るような生徒で、勤勉ながらもたまにちょっとしたミスを犯し、けれど持ち前の愛嬌で場を和ませるような、憎めない性格の生徒だ。
性別を問わず同世代からも人気はそこそこあるらしく、毎度顔ぶれの違う生徒を連れ立ってくるくる表情を変える姿を見かける。以前他寮の男子生徒が「付き合うなら、ちょっと押せば一発いけそうな苗字だな」と言っていたことから、まあ、そう言う目で見られることもしばしばある、らしい(その後、男子生徒が“突然、不注意で”階段から転げ落ちたのを“助けてやった”ことがあるが、学生たるもの学業が本分であるため…まあ、そういった雑念にうつつを抜かした時点でバチが当たったのだろう。仕方ない)。
「ミス・苗字。どうしました、もう夕食の時間ですよ」
「あ、いえ…そういう先生こそどうしたんですか?廊下で途方に暮れていらっしゃいますが…他の教授をお探しでしたら、えっと…」
指折り数えて各教授陣の場所のあたりをつける苗字をそれとなく静止する。彼女は気遣いが良くできる生徒なのだが、同時にお人好しな面がやや強い。何事か用事があったろうに他人のこととなるとすぐ優先順位がそれに変わる。
悪いこととは言わないが、この純真な子がいつか食い物にされる日が来るのではないかと、男として、あ、いや教師として、心配にもなる。…例の男子生徒の一件も付随してのもの、だが。
「お気になさらず。ただ、空気を吸いに来ただけですので」
「そうだったんですね。今日は先生お休みでしたし、小テスト前だと気分転換もしたくなりますよね」
驚いた。自身の休みなんて生徒に伝えることもなかったが、苗字が各学年のコマまで知っていたなんて。
確かに彼女は勤勉で、授業を終えた後や夕食後も質問をしにやってくることが多い。レポート内容も受講する生徒のほとんどが見るに堪えないものを持ってくる中、彼女は出生も相まってか教授であるクィレル自身も目を見張るような内容のものを持ってくる。まだ赴任して数年しかたっていないが、過去受け持ったどの生徒より苗字はこの授業に対し真摯に打ち込んでいる。
それだけについつい入れ込んで、ほかの生徒より、そう、ほんの少し、構ってしまうこともあるが。
「ええと、それでミス・苗字、私に何か御用で?」
「あっ、そうでした。この間お借りした本の返却をしたくって」
先日授業でマグルの文学について取り上げた際、苗字は逆に魔法界の文学について興味を持ったらしく、放課後におすすめはないのかと聞かれ、所持していた中でも気に入っていた本を貸していたのだ。
「如何でした。魔法界とマグルの世界ではそもそもの思想もさることながら、話の作り方が随分違うでしょう」
「ええ。けど、魔法界の本も経験してしまえばそれほどおかしなものにも感じませんでした。お借りした本も、とても面白かったです」
「それは、何より。…私はマグルの科学というのはどうも苦手ですが、物語や芸術などに関してはマグルのもののほうが素晴らしいと思っているんです。彼らの作る世界は、稚拙で、ばかばかしくて、それでいて…愛おしい」
魔法界の文学というのはどこか説教じみていたり、児童書でもない限りは実際に起こったことを記したような、よくある出来事を記したものばかりだ。嫌いではないが、マグルのものと比べれば夢がない。差別的な内容を取り上げたものも多く、読んで行くうちに気分が落ち込むような…現実を思い起こさせるものばかりだから。
「実は、先生におすすめしたい本がありまして」
「へえ。それはそれは…いったいどういった本で?」
「先生の普段読むものとは違うかもしれませんが…」
肩掛け鞄から苗字が取り出した本は、サフラン色の布製のカバーに小花柄の文庫本で、それほど分厚くもない。内容はどうやら恋の物語らしい。
「いま、マグルの世界で流行っている本なんですけど、もし読んでいなければ面白かったので是非」
「ありがとうございます。こういった内容はあまり触れて来なかったので…助かります」
苗字は暫く私と同じように空を見つめ、それから少しして居心地が悪そうにでは、と言って大広間へと向かおうとした。夕飯時だ。ある程度考慮されているとはいえ大広間の食事はある程度の時間になると消失するので、長居させるのも良くはなかろう。だがその瞬間、どうしてだか苗字から放たれる花のような香りが気になって、或いは後ろ髪をひかれる思いからか気が付くと呼び止めてしまった。
「…?えっと、なんでしょう?」
「あ…、いや…その、香りが…」
「香り…ああ、これの事ですか?」
香りだと。引き留めるにはあまりに残念な言葉のチョイスだ。我ながら己の人付き合いのへたさには嫌になる。苗字は気にせずローブのポケットから小さな小瓶を寄越してきた。本当に片手で余るほど小さな、香水瓶のようなものだ。中には少し粘度のある黄みがかった液体。断りを入れてふたを開ければ、どうも香油のようで。あの離れがたくなるような香りの発生源はこれか。
「私、この香り好きなんです。気持ちが落ち着くというか、安らぐっていうんでしょうか。悲しいときや、辛いとき、勇気をもらいたいときに嗅ぐようにしてて…」
「なるほど。ああいや、べ、別に取り上げようっていうわけでは、ないんです。少し気になった、だけで」
「分かってます。先生、そんなことする人じゃないもの。香りって、人によって合う合わないがあるから…」
クィレル先生とは趣味が合ってるみたいで、なんだかうれしい。
ひっそりと呟いた苗字の声に、嫌にドキッとした。それはいったいどういう意味で言ったのか。聞いても、気付いてもいけないことだ。瓶を鼻によせ、いい匂いだと言って聞こえなかった風を装ったが、きっと動揺してしまったことはばれている。あまりに吃ってしまったし、瓶に蓋がしてあるのに今気づいた。
「…気にいっていただけたのなら、それ、お譲り致しますよ」
「え…い、いやしかし」
「大丈夫です。まだ寮にたくさんあるし、なくなっても自分で作れるので。結構簡単なんですよ」
簡素な瓶に入った、別にどうって事ないありふれた香油だ。普段使うこともない、縁遠いものだ。
だが、コロコロと鈴がなるように笑う苗字が印象的で、気が付けば自身の口は感謝の言葉を伝えてしまっていた。
匂いとは、記憶の中で最後まで残るものだそうだ。どこかのマグルが言った言葉だが、思い当たる節がないでもない。手の中にある小さな瓶が、苗字を連想させるものだと思うと、無意識のうちに胸の内が熱くなるのを感じた。
あまりに私が眺めすぎていたためだろう。苗字は思いついたようにちょっといいですか、と言って半歩こちらに寄ってくる。
「手を出していただいても?」
言われるがまま右手を突き出す。苗字は瓶から垂らした香油を掌で温めるようにすると、そのまま私の手を両手で握りしめるように包み込んだ。は。なんだこれは。何をしている。
「先生の手、すこし乾燥してるんですね」
「あ、いや、な、なにを」
「こうやって、マッサージするように使うんです。手だけじゃなくって、耳の裏だとかみぞおちだとか、あとは…」
説明される言葉が、右から左へと通り抜けていく。若い女性の手だ。小さくて、肌寒さからか少しひんやりとしていて、私の甲のスジをなぞるように滑っていく。香油を伝って、自身の熱も伝わってしまわないか気が気じゃない。私の骨ばったものとは違う、ほっそりした指がくすぐるように爪先をなでる。親指と小指の付け根を揉み込み、手首まで流す動きはどこかぎこちない。他人にしたことはあまりないのだろうか。ああだめだ、こんなことで喜ぶんじゃない。
私が放心しているうちに苗字はもう片方の手も同様にマッサージを施した。廊下は冷えており、触れられていたのは手だけなのにやけに全身が熱い。終わったあとの滑るような感触に思わず手を追いかけそうになったのは許してほしい。不可抗力というやつだ。
「なんだか、ドキドキしちゃいました」
「え、?」
「友達にはたまにしてあげるんです。けど、女の子ばかりで…男の人の手に触れたのって、初めてで」
それはどういった意図で言ったのだ。俯いた苗字の頬はほんのりと赤くなっていて、それが寒さからなのか、あるいはそれ以外のものなのか。私にはよくわからないでいた。
「そう、なん…ですか」
「ええ。だから、恥ずかしいので、ほかの人には内緒ですよ。先生と私だけの秘密」
「私と、苗字さんだけの…」
「…ふふ。私、そろそろ行きますね。先生もそろそろ室内に入ってくださいね。体冷やしたら、また風邪ひいちゃいますよ」
苗字は悪戯っ子のような笑みを浮かべると、大広間へと続く道へと駆けていった。
翌日の授業は、風邪を引いてしまって言葉は詰まるわ声は通らないわで散々だった。授業後、案の定苗字にはだから言ったのにと笑われてしまった。冷たい廊下で突っ立っていたのが原因なのは明白だろう。
闇の魔法使いの影を追い求め、現在アルバニアの森に潜伏しているのではないかとの情報をつかみ脚を踏み入れてから数週間、そろそろその欠片でも見せてくれればいいものを、いまだクィレルは男の幻影すら捉えられずにいた。止まっている宿の店主にもそろそろ顔を覚えられつつあり、植物学者と名乗るのも限界を感じつつある。
店主の作るキドニーパイはいささか味が薄く、食の楽しみすらない今残された娯楽と言えば持ってきたいくつかの本と、たまに町で手に入れるマグルの新聞くらいのものだった。
休職中ながらもマグル学への研究は怠るまいと目にするものの、彼らの世情など自身にそれほど関与するものでも無し、気づけばもう何度も読み返してばかりの本を読み返すことになった。
今日はどれを読もうか、検知不可能拡大呪文を掛けたトランクをあさり、指先に当たった背表紙を引っこ抜く。小説はどれもマグルのものばかりだ。出先でうっかりマグルに見られては困るというのもあるし、何よりマグルの文学が好きなのだ。
手に取った表紙は自身が持ち歩くにはあまりにかわいらしい、サフラン色に染めた小花柄のカバーがかかっている。内容を確認しようと頁をめくれば薄っぺらな影がはらりと落ちた。途中に挟んでいたものか、目を凝らせばそれは黄色い押し花の栞だ。香水でも染み込ませてあるのか、持てばふわりと香ったそれは、彼女が良くつけていたそれと似ている。ああ、まずい。この本は、持ってくるつもりなんてなかったのに。
あの日、廊下で苗字に渡された、マグルで流行りの恋の物語。
いけない、この記憶は、この感情は呼び起こしてはならないものだ。だから大事に蓋をして、あの香水瓶だってあれから開けないようにしていたのに。
もうかれこれ半年会っていない、ただの生徒の一人だ。なんてことはない。突き放したのは私じゃあないか。こちらに伸びた手を、言葉すら言わせなかったのは。そうとも、彼女はただの、……ただ一人だけの、私の大切な。
不要なものだ。私にはまったくの不要。だって、誰もが私を嗤ってきた。人より少し変わっているからと私の何もかもを否定して。だから私も捨てるべき。だから捨てるのが正しいのだ。目からあふれるこれは、不要だから出しているだけに過ぎないのだ。
「……苗字、さん……私は、私の…唯一の……名前、」
あの時、差し出された手を取っていたなら。
本当はつれていきたかった。彼女が来てくれるのなら。私を捨て、私を貶めるこの世界で唯一、私を私として認識し慕ってくれていた彼女がいたならば。見た目や、生まれ持っての性格から生徒にすら馬鹿にされていた私を、ただ独りの人間として扱ってくれた彼女ならば。
あの日、最後に会ったあの日。彼女に想いのたけを伝えればよかったのだろうか。野心もプライドも卑屈さもかなぐり捨てて、彼女の手を取ればよかったのだろうか。
出来るわけがない。後悔など何度もした。だが彼女を連れていくわけにはいかなかった。私のバカげた自己顕示欲から彼女を危険にさらすわけには。なにより教師と生徒だ。年も離れている。そして、男と、女だ。
名前さん、風邪は引いていないか。私は風邪なんて引いてないよ。
あの日以降きみには身体が弱いと思われていたようだが、実を言うと丈夫なほうなんだ。体調を悪くしていれば、君がまた触れてくれるかもだなんて思って、体調が悪いようなフリをしていたんだ。不誠実な男だろう。
いつの日か冬にレポートを提出した日も、別に君がすっぽかしただなんて思ってやしなかった。翌日持ってこようが受け取るつもりで、そうしたらよく頑張りましたと褒めてあげて、町で買ったおかしをこっそり持たせてあげるつもりだった。ただ、もしかしたらと思っていたら、朝に君が来てくれたから。その時には私は、もう。
匂いは記憶の中で一番最後まで残るものだそうだ。
あの日微笑んでくれた彼女の、愛しい名前の記憶が、やけに香って離れない。