これでどうだ、と、内心ほくそ笑んだのだが――井上は、顔を顰めた。

 スーツの上着より取り出されたハンカチを放り投げられ、冷たく言い放たれた。

「俺の方に用事は無い。風邪をひく前に帰れ」

 飯束の我慢は限界を超えそうになっていた。

 どうしてこうまでしているのに、井上は全く反応を示さないのだろうか。男には食指が伸びないのか。完全にノーマルだとしても、今まで自分はそういった男たちを何人も落としてきた。それなのに、井上にだけそれは通用しないようだ。

 いつの間にか、頭の中には常に井上の存在があった。眼鏡の奥にあった瞳の薄い色が忘れられなかった。そうして自分ばかりが相手を気にかけていることも、気に入らなかった。

 飯束は次なる計画を実行した。

 やはり生徒たちが帰ってゆく中、駐車場で井上を待つ。

 もう日は暮れて、星空が見え始めた頃にやってきた井上の元へ猛スピードで駆け寄り――わざと目の前で滑るように転んだ。

 狙い通り肘を擦りむいて、ほくそ笑む顔を髪で隠す。

「何をやっているんだお前は」

 呆れたように言われるのだが、手を差し出された。

 そこを掴んだ瞬間に飯束は、身体の芯が震えたような気がした。

 やっと触れられたと思った瞬間、何かがおかしいと感じた。胸が、きゅっと締まった。

「手当をしてやるからついてこい」

 井上の広い背中を眺めながら飯束は、自分の頬が熱くなっていることにやっと気づいた。



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