あなたの言うように、幸せにしてやりたいと願う気持ちが愛なのだとすれば、彼は愛されていましたよ。俺は、こんなどうしようもない自分から彼が解放され、幸せになる事を心底望みましたからね。手の震えが止まない経験は、ありますか。夜、隣で眠っている恋人を眺めていて……その首を絞めてしまいたいと訴えてくる手を、必死に止めた経験は?

 よく思い出すのは夏の日の、蝉の鳴き声です。大学一年のね。あの頃はよかった。彼よりもレベルの高い大学に合格できて。一つとはいえ歳の差があったので、彼と比べて自分を子供だと感じていたから余計にそれが嬉しかった。一足早く大人になる彼は、いつでも俺に金を差し出してきました。飯を奢ってくれたりと。だから、せめて彼よりもいい会社に就職し、給料を多く貰えるようになって、その恩を返したいと強く誓った結果がこれです。それがね、俺の夢でした。

 いっそ結婚してしまえば何かが変わるかと思いましたけどね。言ってみて、心の中で笑いましたよ。ありえない話だとね。

 真綿で首を絞められている感覚が常につき纏うんです。彼が、笑みを浮かべるたびに吐き気が込みあがった。そういった感情が噴き出したきっかけはね、就職活動中に……彼へ自嘲めいた冗談を飛ばしたんですよ。高いスーツが欲しいと。普通、考えたらわかるようなものじゃあないですか。そんな値段のするスーツを就職活動中の人間が必要とする訳がないと。むしろ、そんなスーツを着て面接に行ったら嫌味ですよねぇ。それなのにそう言った翌日にね、彼、余裕のある人間にしかできないような爽やかな笑みを浮かべながら、プレゼントだとそれを渡してきたんです。その背中に、振られている尻尾の幻さえ見えましたよ。ほら、褒めて、嬉しいでしょう? とね。

 苛立ちは全て拳に乗りました。うん、殴ったよ、彼を何度も、何度もね。殴る最中だけ俺は彼より優位に立てた。ただ、その後味の悪さといったらね……血が、ざざざっと下がる音、聞いたことあります? 愛しているはずなのに、大切にしたいと思っているのに自分がコントロールできない。心の中に燻る身勝手な怒りの熱が冷めなくて、苦しくてたまらなかったんだ。

 彼は俺を煽りたかったのか、給与が上がるたびにそれを見せ付けてきました。ははっ、いや、違うな。多分俺を安心させたかったんだ。大丈夫。僕はこれだけ稼いでいるから、君は安心してゆっくりと動けばいいよ、だなどと。ははははっ、ああ、おかしい。おかしいのは……どちらだと思います? 愛する者らしき俺の前で、その命を捧げてきた男と。そんな男の呪縛から逃れられたというのに、結局は、自分の足で立てない俺と。蓋を開けてみれば、似合いだったのかもしれないですねぇ。俺と、彼。表と裏、というよりも裏と、裏。表のないカードは、いつか日の目を見ることがあったのでしょうか。

 彼が死んでから俺は……彼の生前と同じような生活を送っていますよ。理解できないでしょう? あんなに逃げたがっていたのに。その理由は、自分の足で立ちたかったからなのに。逃れられるとわかった瞬間、喜びに涙した癖にねぇ。

 血の匂いが、鼻にこびりついて消えないんです。頬に飛び散った命の熱さが、いまさら胸を震わせてくる。忘れようとしても、変わろうとしても、いつまでもあいつが足にしがみついている感覚。これを狙っていたのだとしたら脱帽ですよ。本当に、してやられました。


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