唇は震えるがそれでも、黙ってこのまま引き下がることはできない。

「普通の人生が。結婚し、子供を持って暮らす人生が、智泰に送れるとでも?」

「送るさ。秋人との楽しい楽しい思い出を胸に、な」

 背中を向け、ひらひらと手を振って彼は去ってゆく。全身に打撲の痣をつけられ、精液と尿にまみれ、全裸で床へ力なく座っている僕を残し。

 ここは地獄よりも深い場所にある。底なんて見えやしないし、見ようとしても仕方がない。もう這い上がれないのだ。

 実家には二度と顔を出せないだろう。地元の大学へ行くのではなかった。すぐに噂が回るはずだ。いや、後悔はそこにすべきではない。最初に。彼と出会ったあの時に、その爽やかな笑みを向けられ飛びつくのではなかった。餌に食いついた自分の愚かさが、笑えて、笑えて、喉が千切れるような叫び声が込み上がる。

「智泰……ともやすぅ!!」

 ああ、薬だ。薬が欲しい。ヤクを打ちたい。こんな、鬱々とした気分は最低だ。痛めつけられ、勃起し、射精した自分が情けなくて、惨めでたまらない。悔しさに歯軋りをすれば、口の中に血の味が広がった。

 服を探す。見当たらない。どうやって帰れというのだ。だいたい、ここの小屋はどこにある。目隠しをされ連れてこられたというのに、それをした人間が、こんな姿で置いてゆく。捨ててゆくのか。

 僕にはもう、彼が必要不可欠なのだ。ここまでされて、用済みだと放り出されてどう生きられるというのか。与えられ続けた痛みは瘡蓋にすらならない。流し続ける血を拭えるのは彼しかいないというのに。

 ゲイではなかった。僕は、恋をしたことがないけれど、それでも自慰をする時に使うのはいつだって女の裸だった。男に肉欲を覚えたことなど、智泰からの残虐な仕打ちを受けるまでは、一度もなかった。それなのに今は――勝手にアヌスがひくつく。ペニスの匂いに勃起する。こんな風にしておいて、自分は平然と日の当たる道を歩くつもりか。

 頭に上る熱で眼球が溶けそうだ。聞こえていた虫の羽音はもう、耳に届いてこない。震える頬に爪を立てる。引っ掻いてて、引っ掻いて、指先が血でぬめるほどに引っ掻いて。

「大丈夫。大丈夫だ。大丈夫。ああ、ああ、あああああっ。僕は、ほら、大丈夫だ」

 ふらつく足で立ち上がる。小屋の隅に重ねて置かれていた新聞紙を身に纏えば、尻に当たるそれが、アヌスから零れ落ちた精液で濡れた。


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