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その運命とやら言うものは、そこで待ち受けていたのか。
それとも、彼が迎え入れに行ったのか。
海を越えて。
誠にわが人生は数奇なものよとバロック・バンジークス卿は胸のうちで自嘲した。何せ自らが、かの地に足を着けることなど想像だにしなかったのである。ロンドンとは違う、どこか湿り気を帯びた空気が彼を彼を包み込んだ。大英帝国の検事であるバンジークスが今まさに降り立ったその地こそ、彼が長きに渡って苦しまされ、そして忌み嫌った大日本帝国だ。兄の死にまつわる日本人に対する誤解やわだかまりも今となっては解消されたように思えたし、日本人留学生を従者として共に仕事をしているわけだが、それにしてもやはり自分が日本にいるというのは大いなる感慨と違和感を生んでいた。
この国と自分とは何か、絶ちきれない縁のようなものがあるのだろうとバンジークスはそう思うほか無かった。ある種の運命とも呼ぶべき縁が。
極東の地への渡航は休暇ではなく、職務である。亜双義一真の一時的な帰国に合わせて、バロック・バンジークス卿も是非同行するようにと正式に招かれていた。日本における裁判の視察と意見交換が主な目的で、ついでのような形で帝都勇盟大学での特別講義も依頼されていた。
港でバンジークスと亜双義を出迎えていたのは成歩堂龍ノ介、御琴羽寿沙都、御琴羽悠仁教授の三名である。ロンドンで別れて以来の久方ぶりの面々。成歩堂と寿沙都は亜双義との再会に若者らしいはしゃいだような感嘆の声を挙げ、御琴羽教授は落ち着いた様子で微笑み、「長い船旅、誠にお疲れ様です。貴方が我が国へおいでくださったこと、大変嬉しく思います」とバンジークスに右手を差し出した。
「ドクター・ミコトバ。此度お招き頂いた事と、丁重な出迎えに感謝する」
バンジークスも恭しい礼で応え、彼らは握手を交わした。
「さあ、さあ、バンジークス検事!折角はるばるおいでくださったのです。帝都を案内しますよ。何処へでもお連れしましょう」
親友との再会に余程気持ちが高ぶっているらしい成歩堂は、大英帝国の地では見られなかったような親しさでそう言った。観光しに来た訳ではないとバンジークスが一蹴すると、やれやれと亜双義は溜め息を吐き、寿沙都は困ったように笑って成歩堂を嗜めた。
「成歩堂さま。おふたりは長旅でお疲れでございましょう」
彼女の言うとおりに違いなかった。なにしろ、大英帝国から大日本帝国までの五十日にも及ぶ船旅である。留学を経験した成歩堂自身にだって当然身に覚えがある。洋箪笥に詰まって渡航したあの出来事を、忘れるはずもない。
「そ、そうですね!失礼。では、お腹は空いていませんか?夕餉にちょうどよい時刻です」
「確かにそうでございますね、ディナーに参りましょう、バンジークス検事」
観光はともかくとして、疲れている身であっても、然るべき時刻に食事を摂ることは万国共通とも言える。見上げれば、空の色は茜が混じり、夕刻に差し掛かっていることを告げている。船内ではティータイムに軽食が施されたのが最後で、バンジークスも亜双義も確かに空腹を感じはじめていた。
「バンジークス検事に美味しい日本食をご馳走してさしあげないといけませんね」
さてそうなれば何処がよいか、と成歩堂の脳裏にアレコレと彼の知りうる食事処が浮かんだ。ラ・クワントスは即刻却下である。美味だが、良いおもいでがない。そもそも日本食ではなく洋食レストランだ。ならば亜双義とよく行った牛鍋屋は…などと考えていると、御琴羽教授が「お店を予約してありますよ」と余裕たっぷりに言った。
「まあ、そうなのですねお父様」
「勿論、バンジークス卿は政府が直々にお招きしている客人なのですから。それなりのところを手配しています。…料亭、"こだま"へお連れしましょうぞ」
「こだま!」
寿沙都は驚いた顔で口元に手をやってから、すぐさま嬉しそうに両手を合わせた。父の口から出たその店名は、帝都なら誰もが知る高級料亭だったからだ。
「ああ、あそこなら間違いありませんね」
うんうんと納得の様子で頷いて、ここいらでは一番有名な料亭なのです、と成歩堂はバンジークスに告げた。
「お気遣い…感謝する」
日本の料亭というものがどういうものなのか彼にはまだぴんと来ていなかったが、どうやら厚遇らしいと察してバンジークスは深く礼をした。
料亭こだまは、高給官僚や政府要人御用達─。本来であれば一介の学生風情が気軽に敷居をまたげるような店ではないが、成歩堂と亜双義にとっては馴染みのある店だった。
こだまの大将と女将につむぎという娘があり、彼女と亜双義一真とは幼なじみの仲だった。幼少期からこだまに出入りしていた亜双義には、高級料亭というよりは第二の自宅のような感覚に近い。そんな彼に連れられてやって来たのが帝都勇盟大学に入学したての頃の成歩堂で、それ以来、成歩堂にとってもつむぎは幼なじみのような姉のような気易い存在になっていた。
つむぎは亜双義や成歩堂より一つだけ歳上で、こだまで次期女将となる見習いとして働いている。
料亭の門は確かに立派な造りであったが、バンジークスがくぐるには身を屈めないといけなかった。頭上にも注意しなければいけないし、足元は砂利敷きで、こちらも気を付けないと足を取られそうだと彼は思った。門から入り口まで小路のような前庭を通り抜けると、着物を着た女性が出迎えた。それはこだまの女将で、御琴羽教授とバンジークスには丁寧に挨拶をし、亜双義を見るなり「まぁ一真さんご立派になって!」と目に涙を浮かべて迎え入れた。
留学からの一時帰国に、家族を持たない彼はこれといった感動もないと彼自身どこか冷めた気持ちでいたというのに、成歩堂や寿沙都といい、家族でなくても自分を待ってくれている人がいるのだと心が温かかった。
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