個室に入ると女将に代わって、若草色の着物を着た若い女性が彼らの接客を担当した。彼女こそが亜双義や成歩堂が姉と慕う糸賀つむぎその人である。
 女将の娘であるから一般の女中とは立場が違うが、ある意味で女中よりも女中らしくてきぱきと良く立ち回るので、殊更大切な客人の接客に、彼女は重宝された。大英帝国の検事、バンジークス卿ももちろんそれにあたる客人だった。

「どうぞ足を崩しておくつろぎくださいませ」

 つむぎが英語で話しかけたので、バンジークスは少し驚いた。寿沙都のように英国語会話に長けた婦女子ももちろんいるのだろうが、女子教育はあくまで途上だと聞いていたからだ。思わず、その黒い瞳を覗きこんでしまう。バンジークスに見つめ返されて、つむぎは首を少しだけ傾げるようにして微笑んだ。たったそれだけのしぐさや物腰の柔らかさに、確かな品を感じさせる。それが接客としての技術なのか、彼女本来が持ちうるものなのかは、出会ったばかりの英国紳士にはわからなかったが。

「英国の方のお口に合いますかしら。…あらいけない、フォークをお持ちしますわ」

 彼のお膳を見て、すぐにつむぎは立ち上がった。外国人である彼に、箸は不都合だと察したからだ。しかしそんな心配りを「いえ、結構」とバンジークスはすぐに伏した。

「ええでも…」

「心配ご無用。箸の使用は習得してきた」

 まさかの返答に、一同驚きを隠せず目を丸くした。そして宣言の通り、それはそれは美しい所作で彼は苦もなく箸を握った。

「バンジークス検事は器用でいらっしゃる」

 寿沙都は素直に感服した。これまでの経緯もあり、今回彼は嫌々日本の地を踏んでいるのではという思いがあったものだから、渡航に備えて箸使いの練習までしているとはよもや思いもしなかった。

「まぁ本当に。素晴らしいですわ。外国のお方でお箸をこんなにきちんと持てる方は初めて」

「検事も素晴らしいですが、つむぎさんこそ英国語ができるのですね。知りませんでした」

 成歩堂が口を挟むと、はじかれたようにつむぎはそちらを見て、誉められた仔犬のように嬉しそうに笑った。それは先程バンジークスに向けたものとはまた違った、品というよりも人懐こさを感じさせる笑顔だった。

「ええ勿論。英国語は高等女学校でしっかりと習ったわ」

「ふん…中途退学したのではなかったか」

「一真さんは黙ってちょうだいな、嫌なことを言う人ね!」

「客人に黙れとは随分だ」

「いいえ、貴方はお客様ではなくて弟みたいなものじゃないの。それもとっても生意気な弟」

 舌戦では亜双義には敵わぬのではと思われるところ、なかなかどうして、彼女も淡々と言い返す。突如勃発した二人の口喧嘩のような応酬に、バンジークスも寿沙都も御琴羽教授も面喰らった。ここへ来るまでの道すがら、幼なじみが働いているという話は聞いていたのだが、この悪態の吐き様は確かにきょうだい喧嘩のそれのようだ。

「か、一真さま、つむぎさま…」

「ああ寿沙都さん、よいのです放っておいて。このお二人はいつもこうなのですから」

 狼狽える寿沙都に成歩堂はそう言いながら、尚もぐちぐちと言い合う二人を本当に止めることもせず呑気に食事を続けた。

「まあそうなのですか」

「あっ、これ何だろう、すごく美味しいです!バンジークス検事も召し上がって。ほらほら、寿沙都さんも」

 促されるままに寿沙都はお膳の焼き物などを口に運ぶと、成歩堂の言うとおり何とも言えない美味なものばかりで、高級料亭の食事にすっかり夢中になった。



「一真さんたら本当にもう…!聞いてまして、龍ノ介さん」

 しばらくしてひとしきり悪態をぶつけ合ったらしいつむぎは、気を取り直してもう一度成歩堂に声を掛ける。

「此方には久しぶりにきましたけど、うん、美味しいですねやっぱり。毎日こんな食事だったらなぁ」

 敢えてそうしたのか、それとも天然か、成歩堂は上手いこと口喧嘩に巻き込まれるのをかわしていた。それもまたいつものことなのである。仲裁をするでもなくただそこにいるだけで、絶妙な均衡を生み出す。それが彼の役目と言っても良いだろう。すっかり毒気を抜かれたようにつむぎは軽く溜め息を吐いた。

「…龍ノ介さんは日本にいらっしゃるのだから、もっと頻繁に来てくれればよいものを」

 彼女はうつむきがちに言った。彼女にとって成歩堂にそれを言うのは、馴染みの客にまた来てくださいねと社交辞令的に言うその台詞とは明らかに違っていた。生意気な亜双義一真とは違う、もう一人の弟分─。

「亜双義が一緒ならよしみで来やすいのですけどね。こだまは敷居が高いですよ、僕のような若輩弁護士には。…ねえ寿沙都さん?」

「はい。わたくし共も頑張って、このようなところへ通えるようにならないといけませんね、成歩堂さま!」

 二人はそう言って微笑み合った。
 ちらり、とバンジークスの視線が動き、つむぎが眉をしかめる一瞬をとらえる。
 日本語でやりとりされる彼らの口喧嘩なぞにさして興味の無い彼は、器用に箸を扱って食事にあたっていたが、つむぎの表情のころころ変わるのには妙に目を引かれていた。
 ファーストインプレッションの上品で物腰柔らかな様子や、成歩堂に向ける親しみ、亜双義に対する辛辣さ、そして─今この瞬間に見えたのは。何と表現すべきものだろう、と彼は考えあぐねた。怒りでもなく哀しみでもなく、けれど何か良くない方向の感情が彼女の表情に浮かんで消えたのだ。
 つむぎは何か振り払うように髪を揺らしながら顔をしっかりと上げ、バンジークスから向けられている視線にやっと気付いた。英国紳士の透き通るような碧い瞳に、何か見透かされるような居心地の悪さを感じる。

「検事さま…あぁ、お酒を!お酒をお出しするのを忘れていましたわ!」

「バンジークス卿は葡萄酒がお好みだ」

 亜双義が言うと、つむぎは困ったように眉を下げた。

「さようでしたか…検事さま、申し訳ありません。今夜は葡萄酒のご用意が無いのです。日本酒ではいかがでごさいますか」

「恥ずかしながら、日本の酒は嗜んだことがないのだが」

「では是非一杯お試しを。今日のお料理に合わせたお酒にございます」

 そう渡されたのはバンジークスがいつも放り投げているような深く丸みのあるグラスではなく、あまりに小さく可愛らしささえ感じる猪口である。それは彼の大きな手に収まると、より一層小さく感じた。そこへ透明に澄んだ液体がとくとくと注がれると、葡萄酒とは明らかに違う独特の香りがふわりと舞った。同じように御琴羽教授の猪口にも注がれる。御琴羽の所作を真似るように、バンジークスはそっとそれに口を付けた。
 甘い芳香が広がる。酸味の強い葡萄酒にすっかり支配されていた彼の舌には随分と甘く感じたのだが、それは嫌なくどさの無い甘さだとすぐ気付く。もう一口、二口、とあっという間に飲み干した。どんな類の酒であろうとも少しずつ味わって飲み進めるのが紳士としての作法であるが、それにしても器がこんなにも小さいのだ。致し方ない。よい飲みっぷりでございます、とつむぎは嬉しそうに注ぎ足した。

「誠に─貴女の仰せのとおり、料理に良く合う。ミス…」

「つむぎ、です」

「ツムギ嬢」

「お口に合って何よりでございます」

 彼女の表情は、また最初の上品な微笑に戻っていた。それが接客用の顔なのだとようやく理解したバンジークスは、仕事とは言え、せわしなく表情を変えるのは疲れないのだろうか、と心の中で涌く疑問を酒の滴と一緒に飲み干した。






式日