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「失礼します」

 そう声をかけて部屋の戸を引いたが、そこにいるはずと思っていた人物はおらず、イツキは首を傾げた。
 つむぎのために胃腸によい漢方薬を貰ってきたのに、自室で休むと言っていた彼女は何処へ行ったのだろうか。盆にのせた薬と水をどうしようかと思い悩んだが、置いておけば戻ったときに気付いてくれるだろうと、机に置いておくことにした。
 盆を文机に置いた時、ふと視界の端に見覚えのあるものを彼は見つけた。

「あ……てがみ」

 封をしてあったが、中身が入っていることは解る。ちょっと高級そうな透かし紋様の入った封筒。つむぎが特別な用事の手紙に使うものだ。最近ではそいつは非常に頻繁に使われていることも彼は知っていた。
 亜双義一真が留学から一時帰国したのは二週間程前のことだったか。あの晩に一緒に店にやって来たバロック・バンジークスという背の高い英国人とつむぎの間にどういうわけだか手紙のやり取りが始まって、彼への手紙に使われるのがその封筒だった。そしてイツキは、そのバンジークスへの手紙を届ける役目を密かに仰せつかっていた。旦那様や女将に知られると五月蝿いから内密に、と言われて。丁稚奉公という立場を抜きにしても、普段から世話になっている彼女の頼み事とあらば断わるはずもなかった。
 それにしても、手紙を届ける仕事は非常に緊張した。あの英国人の男がおっかない形相だというのもあるけれど、男女間で秘密の手紙のやり取りというのが何だかイケナイ橋渡しをしているようではないかと彼はひそかに思っていた。
 勿論、イツキは手紙の中身のことまでは知らない。知らないからこそ、 幼心に想像が膨らむのだった。
 今机の上にあるそれも、バンジークスの滞在している洋館ホテルに届けるように必ず言われるだろうと、気をきかせて懐にしまった。なるべく早く届けた方がよいと思われるが、 今日はこだまの予約客が多いと聞いている。客の入る夕刻に向けて忙しくなるだろう。
 少し考えを巡らせ、今すぐにしか手紙を持っていく時間がない、と気付いて彼はすぐ出立することにした。





 人力車に乗ってしまえばほんの半刻ほどで到着する洋館ホテル。外国の要人によく使われており、館内では英国語がそこかしこから聞こえてくる。受付に用件を伝えてバンジークスの在室を確認したイツキは、もうすっかり慣れた足取りで彼の客室を目指した。ふかふかの絨毯敷きの廊下を突き進んで、客室棟の端に位置するその部屋はどうやら一番よい客室―要するに、宿泊費の高価な部屋だという噂である。
 緊張しながら客室のドアを叩くとすぐに出迎えてくれたのは今日は亜双義だった。よく知った日本人の顔にイツキは心底ホッとした。バンジークスの従者である彼は恐らく、仕事の為にたまたまそこに居たのだろう。

「やあイツキか。つむぎさんの手紙だろう?」

「ええ、これを」

 封筒を亜双義へと手渡しながら薄暗い部屋の奥をちらりと見ると、デスクに座っている英国人の大きな背中が確認できた。バンジークスも入り口の方へと視線をやったが、来訪者がいつもの手紙を持ってくる小間使いの少年だと解ると、すぐ机上の書類に視線を戻し、無言のまま対応は亜双義に任せた。どうやら職務が忙しいらしい。

「すまないな、店も忙しいだろうにこんなつむぎさんのお使いまで」

「いえ、私は全く、姐さんの頼みとあらば…!で、でも。あの。その。これって」

「うん?」

「あの。つまりこの手紙っていわゆる。こ。こ。こ…!」

「?」

 イツキは声を詰まらせた。発しようとした単語が、考えてみれば彼のこれまでの人生で初めて口にするものだったので、何だか顎が上手く動かなかったのだ。しかし募った疑問をぶつけるのは今しか好機が無いのでは、と思い切って言葉を絞り出した。

「こいぶみッ…!なのですよね!!」

「―!」

 亜双義は裏返ったその声を聞き、一瞬驚いた後に声高に笑ったので、 部屋の奥のバンジークスは怪訝そうにそちらを振り返った。顔を赤くしている少年と、笑う従者と。一体何の話をしているのかと気にはなったが、耳を傾けてみても聞こえてくるのが日本語なのでどうにもしようがない。

「ち。違うのですか…?」

 恋文。確かにそういう誤解を与えてしまったのは無理もない。男女間の秘密の手紙のやりとりといえば、むしろそう考える方が自然だ。きちんと事情も説明せずに、彼に手紙のやり取りを手伝わせていることに問題がある。

「残念ながら、な」

 残念ながら、と言った亜双義の脳裏には、御琴羽寿沙都の顔が浮かんでいた。つむぎが真に想っている成歩堂龍ノ介に、恋文を書くことはまず無い。彼の隣にあの可憐で無敵なる唯一無二の法務助士が存在する限り。

「では一体、この手紙というのは」

「英国語の勉強のためにしていることなのだ。本場の英国人に指導してもらいたいという、つむぎさんたってのご要望でな」

 余計な詮索を嫌って周囲には話さぬようにはしていたが、実のところ何の後ろめたいこともない。誤解を与えてしまった罪悪感と、イツキに対して誤魔化す意味も無かったので、亜双義は正直にその手紙についてを伝えた。イツキは自らの誤解に一層頬を赤らめつつも、少し安堵したように見えた。

「そういうことだったんですねえ」

「そういうことだ。さぁ、解ったら、もう店へ戻るといい。夕刻は忙しいだろう、女将さんに叱られるといけない」

「ええ。姐さんもおかげんが悪そうだし、お手伝いしないと」

「ん…?つむぎさんはどこか具合が悪いのか?」

「あっ!いえ…きっと大したことは無いと思うのですが。お掃除中に…顔色がお悪く」

 つまみ食いでお腹が苦しいと言っていた割に、その後自室でじっと休むでもなく姿が見えなかったことが彼には不思議だった。すぐに回復して仕事に戻ったのだろうか。具合が悪そうだったのは確かなのだが―と首を傾げた。

「急に、か?」

「ええ。外を掃除していて弁護士さまと助士さまにお会いして、その時はにこやかにご挨拶されていました。その後急に」

「う…む、成る程。まあ、気にすることは無いだろう…」

 イツキの話からどうやらあの二人に遭遇したらしいことが解ると、つむぎの不調の理由は亜双義の頭の中ではすぐに解明された。が、それこそどうにか誤魔化しておきたい話だ。少なくとも、純朴な少年に話すようなことではない。
 心配そうに見上げる少年の髪を、亜双義はくしゃっと軽く撫でてやった。

「オレがまた後で様子を伺いに行こう。心配するな」

 そう言ってイツキに帰還を促した。
 彼は手紙の謎が明らかになったことと、亜双義がつむぎの様子を見に行くと言ってくれたことですっかり安堵した様子で帰って行った。




 亜双義は仕事場の料亭へと帰っていく少年の後ろ姿が廊下の角を曲がって行くのをしかと見届けてから、今しがた受け取った手紙をバンジークスへと手渡した。
 それを手にしたバンジークスはわずかな違和感を感じた。いつもと同じ透かし特徴的な透かし紋様の入った封筒だが、いつもとは違う点がある。まず持った感触が軽く、中身の用紙が少ないようだと解る。そして封筒の表書きにいつもならきちんと書かれている、バロック・バンジークス卿という宛名が今回は書かれていなかった。
 不思議に思いつつペーパーナイフで封を切る。
 バンジークスは思わず眉をしかめた。
 つむぎの書く英字の筆記体はいつも非常に美しくて、文体が多少まずくても、その点については褒め称えたいと彼は思っていた。が、今回の手紙はそうではなかった。何しろ、そこにあったのは書きなぐりの文字でしかも彼の読むことができない異国の言語―日本語で何か書きつけてあるのだった。
 これでは返事の書きようが無いが、そんなことよりも、その乱れた文字を見ていると妙に胸がざわざわとした。これは明らかに"手紙"ではない。しかし見慣れた紙と墨の色から推察すれば、書いたのは確かにつむぎなのであろう。一体どういう状況でこれを書いたのか。そして、その内容は―。
 考えてもわかる筈も無く、従者をちらりと見た。彼は客室内に用意させた日本式の座卓の前に正座して、バンジークスが校正を入れた留学の中間報告書をまとめ上げる作業にかかっていた。

「…アソーギ」

「はい」

「先程の…料亭の小間使いの少年と何か話していたようだが」

「ええ。彼がつむぎさんと卿の手紙を恋文だと思い違いしていたので、そういった物ではないと説明しておきましたよ」

「他には何か、変わったことは言っていなかったか」

 亜双義は筆を置き、バンジークスの顔を見た。変わったことというのは、例えばどういうことを指すのか判断できなかったからだ。バンジークスのデスクには先程渡した手紙が広がっているようだが、その中身のことまでは亜双義は知りえない。しかし恐らくは、そこに何かしらの問題があるのだろうと思った。

「何故そのようなことを訊くのです。手紙に妙なことでも書いてありましたか?」

「…少々、気になることが」

 妙なことかと聞かれれば、妙でしかない。その手紙を亜双義に見せて日本語の読解を頼めばそれで済むのかもしれないが、バンジークスは大いに躊躇した。どうしても、それを勝手に人の目に晒すのは良いことと思えなかった。
 亜双義もまた同様に躊躇っていた。幼なじみの体調のことをイツキは言っていたが、それが彼の気になるという何かに関係するだろうか。

「つむぎさんの体調がお悪いように見受けられると言っていたので、 後程オレが様子を見に行くつもりです」

 その核心にある彼女の横恋慕の件は言及を差し控え、イツキとのやり取りだけを正直に簡潔に伝えた。
 すると一瞬何か言いたげに視線を揺らしたバンジークスは、唐突に立ち上がったかと思うと、おもむろにグローブを外出用のものに付け替えた。

「……では。私も同行しよう」

「えっ、」

 あまりに唐突な申し出に理解が追い付かず、亜双義は言葉を失った。今すぐに行くというのか、何故貴方が彼女をそのように気にかけるのか、手紙はどういう内容だったのか、と問いたいことは幾つもあるのに、余計な追及を拒むようにバンジークスは従者を一瞥した。

「丁度あのご婦人に用がある。行くぞ」

 亜双義が問いたいことの答えにはなっていなかった。しかし、目的と意志がそこにあることだけは明示される。

 ばさりと音を立てて外套を羽織る後ろ姿が、地上に降り立つ死神のように見えた。







式日