12
またか、とつむぎは辟易の溜め息を吐いた。
店が忙しい時間帯になる前に自室で少し休もうと思っていたが、今日は特別大切なお客様があるからと母である女将に呼びつけられた。客室や料理の準備の手伝いかと思ったのも束の間、どういうわけだかまず着物を着替えさせられた。まるで小さな子供の身支度のように帯の色まで決められて、あれよあれよと締め上げられる。しかも、いつも店では控えめな柄の着物を着るようにしているが、今日は持っている中でも一等華やかな物を着せられた。嫌な予感しかない。まるでこれからお芝居でも見に行く外出着ではないか、と女将に抗議したが、それでよいとの一点張りで客室に放り込まれた。
つむぎの嫌な予感は的中した。
少し緊張した面持ちで部屋に座す客―それは客のていを装った、縁談の相手だった。何のことはない、これまでにも何度か体験している女将の手口だ。そうと解っての、前述の溜め息である。
あれこれと理由をつけて幾つも縁談をはぐらかしてきたが、めげずにこういう仕掛けをしてくるのだ。女学校のときの友人たちがもう殆ど嫁いでいることも知っているから、母の焦りも理解できる。店の跡継ぎという意味合いでも早く安心したいのだろう。
つむぎとて、父母を厭っているわけではない。店だって大事にしたいと思うし、親に安心してもらいたい。―自分の気持ちを一切無視出来るなら、気に染めない相手と結婚しても平気なら、成歩堂との出逢いが無かったなら、とうにそうしている。
今回のお相手はどこかの官僚のご子息らしい。歳も近く、顔もまずくない。言葉を交わしてみたところ、愛想もあって気の良さそうな青年だった。要するにこれといって悪いと言える要素の見当たらない人物なのである。
―と、こんな感想をもし素直に述べたのなら女将の思うつぼで、あっという間に縁談をまとめられてしまうだろう。
けれどつむぎには解っている。自分との縁談を望む相手は、自分の人柄を好いてくれているわけではない。"こだま"という料亭の周辺に渦巻いている要人たちのコネクション目当てだということを。
お銚子を交換するために一旦客室を下がったつむぎは、廊下でぼんやりと天を仰いだ。自分の価値とは何なのだ、と宙に問いかけても当然答えなど返ってこない。とにかく今は、またいつものように縁談を断る言い訳を考えなければいけなかった。相手を傷つけず、どの方面にも角がたたない、そんな言い訳。
考える程にまた息苦しさが増した。母の手で締め上げられた帯が妙に苦しくて、今すぐにでも脱ぎ捨てたい気持ちに駆られた。
「つむぎさん、お客様が…」
呼びかけられた声に振り向くと、自分が子供の頃からいるサトという古参の女中だ。サトにぼんやりしているところを見られて、ばつの悪さを隠すように微笑んで応えた。
「ええ、今お銚子を交換するところです」
「いえ…そちらのお部屋のお客様でなくて。亜双義さまがいらしてますよ」
「え、一真さんが?」
幼なじみの名につむぎは目を丸くした。先日の朝のように住居の方へ気ままにやって来ることはあったが、わざわざ店の方へ自分を訪ねてくるのは珍しいことだった。
「何でしょう、急に」
「お顔を見に来ただけと仰ってましたけど、" 春の間"が空いていたので上がって頂きました。店先で待って頂いても…ホラ、何かと目立ちますでしょう、英国の方がご一緒だと」
「―!」
英国の方、と聞いて更に驚き、心臓が跳ねた。あの高貴なる英国紳士のことだというのは聞くまでも無い。なんとも言い表せない緊張と動揺が胸に湧いてくる。それは決して嫌な緊張ではなかった。
手に持っていた空のお銚子が乗った盆をサトに預け、 つむぎは春の間に向かった。
「失礼しますッ…」
動揺のせいだろう。普通なら声をかけてから戸を開くところ、 戸を開いてから声をかけるという逆のことをしてしまった。料亭の次期女将としては致命的な行動に、腕組みして立っていた亜双義は思わず苦笑いした。
「一真さん。バンジークス様。どうなさったのです急にいらして」
「どうって、貴女の体調がお悪いのではとイツキが…」
しかし亜双義が思っていたよりは、彼女はまずまず元気そうに見えた。いつもより華やかな着物が血色を良く見せていたのだ。
つむぎは自分の知らぬ内にイツキがあの手紙とも言えぬ殴り書きを届けに行ったなどとまさか思いも寄らず、きょとんと首を傾げた。
「?」
「まあ、いい…それよりも卿が…」
彼女の様子と同じくらい亜双義の気にかかったのは、バンジークスの様子だ。急につむぎに用があるなどと言うのでホテルに馬車を手配させてここまで来たわけだが、その道すがらに理由などは一切口にしなかったのだ。
内障子を少し開け、そこから庭園をじっと眺めていたバンジークスはゆるりと二人の方へ振り向き、つむぎの前まで来て恭しく挨拶をした。
「突然訪問する無礼、お許し願いたい。ツムギ嬢」
「とんでもございません。ご機嫌麗しゅう存じます、バンジークス様」
「貴女に…お渡しするものがあって参じた」
「はい…?」
バンジークスの大きな左手がつむぎの右手をすっかり包み込むように握りとって、もう一方の手でポケットから取り出した何かをそこへ置いた。それは彼女の手にも収まるくらいの、小さくて可愛らしい巾着袋だった。やわらかな木綿のガーゼの生地で出来ており、口の部分はすみれ色のリボンで結ばれていた。
強面の紳士には似つかわしくない、あまりに可愛らしい巾着袋。そこからふわ、と舞う香りを彼女は知っていた。あの時のチーフの香りだ。つむぎはそれが何なのかに気付いて彼を見上げた。
「香り袋」
バンジークスは彼女の手を取ったまま頷いた。
「きっと必要であろうと思い持ってきた」
その瞬間。つむぎは頭の中にきらきらと星屑が降り注ぐような、世界の見え方ががらりと変わるような不思議な衝撃を受けていた。
大英帝国の人であるバロック・バンジークスが何の因果か大日本帝国を訪れたこと。そして糸賀つむぎという日本人女性に出逢い、彼女の苦しみに触れ、ほんの少しだけ背中を押したこと。たったそれだけ。けれどもそれは運命的とも言える巡り合わせだった。
その手の甲に、グローブごしにも伝わるバンジークスの体温。この人は付加価値の無いまっさらな自分を、正面から見つめようとしてくれている人だと彼女は思った。
―いつまで手を握っているのだ、と亜双義は思った。勿論、バンジークスがそうした下心や軟派な気持ちを持っている人間でないことは承知しているが、自分の幼なじみの手を握って意味深に見つめあっているこの状況を看過してもよいのか悩んだ。悩んだ末に、結局口を挟むことは出来なかった。とても水を指す雰囲気では無かったのだ。
「私、」
彼女はたった今深い眠りから目覚めたばかりの少女のような惚けた顔で、しかし至極はっきりと口を開いた。
「私、ちょっと今から大事な用を済ませて参ります」
ひらりと身を翻した着物の柄が飛び立つ蝶のように目に鮮やかで、だから亜双義の目にはその光景が、死神が籠の中の蝶を外の世界に解き放ったかのように見えた。
そして放たれた蝶は、空ではなく地に足を着け走った。迷いなく真っ直ぐに廊下を突き進み、先程の縁談相手のいる部屋へと舞い戻ったのだ。
勢い良く部屋に駆け込んできたつむぎに、彼女の代わりに酒を注いでいたサトが驚いて目を白黒させていた。
「まあつむぎさん、一体何です…!お客様に失礼な」
「そうです、失礼なのです。失礼を承知でお伝えしなければなりません!」
慌てふためくサトを押し退けるように卓上に身を乗り出した彼女は、手の中にぎゅっと握っている香り袋をほんの一瞬だけ見つめてから、ぽかんと口を開けて箸を手から落としそうになっている男に面と向かって告げた。
「私、糸賀つむぎは貴方様との縁談をお断り致します。申し訳ございません!!」
「………」
「………」
「………え、ええええぇッ!?!?」
暫しの沈黙を、絶叫で破ったのはサトだった。
「ちょっ、つむぎさん、駄目ですそんな!お断りするんだって、ご自分から直接仰るなんていけません!女将さんが知ったら…!! 」
まさしく彼女の言う通り、断るなら断るでそれらしい理由を付けて、誰かが間に入ってやんわりと伝えるものである。今までもそうしてきたし、今回だってつい先程までつむぎはその理由ばかり考えていた。けれど、もう同じ繰り返しをしていられなかった。自分の意思と自分の言葉で伝えなければその壁の先には到底進めないのだから。
「女将は関係ありません。私の問題です」
バンジークスの教えてくれた心理療法というものは、きっかけでしかなかった。けれども、あるがままの今の自分の姿を気付かせてくれた。前を向くことを教えてくれた。
そして前を向いたら、今度はその方向に歩んでいくだけだ。
意外なことに、男は最初こそつむぎの勢いに驚いた顔をしていたが、その後は怒るでも問いただすでもなく、穏やかに笑った。
「糸賀のお嬢さん」
その遠回しな呼び方からも、彼が縁談相手をどのように捉えていたのかよくわかる。老舗料亭当代の娘。ただそれだけの認識でしかないということだ。
「……はい」
「承知しました。…僕からも、お断りをしようと思っていたところです」
「んまあ、ちょっとお待ちください貴方ねえ!うちのつむぎお嬢さんの一体どこが気に入らないと仰るの!?あたしは赤んぼの頃から知っていますけどそれは愛らしくて聡明で…!」
今度は思わず、サトが声を荒げた。 つむぎとの縁談を男性側から断りの申し出など今までに一度も無かったことだから驚いたし、何より由緒ある高級料亭の一人娘に何の不満があるのかと、にわかに信じがたかった。ずっと成長を見続けている彼女にすれば手塩にかけた自分の娘も同然で、なおのこと腹立つ思いだった。
「ええ、ええ、わかります!お嬢さんのせいではないのです。…僕には心に決めた女性がいまして」
彼のその一言に、今まさに掴みかからんという勢いだったサトもぴたりと動きを止め、わななく握りこぶしの力もふっと緩められた。
「…それなのに父に言われるがまま、のこのこと此処へ来てしまい。男らしくないですね。貴女にはっきりとお断りをされて、僕も自分の意思で行動しなければと、なんだか目が覚める思いです…」
二人の意向が一致した以上、体裁を取り繕う意味も無かった。
事の顛末はきっとサトから女将へと伝わるだろうし、そうしたらきつく叱られるだろう。でも、それすら厭わないと思えるくらいにつむぎの心は清々しさに満ちていた。目が覚める思いというのは相手の男だけでなく、彼女にとっても同じ思いだった。
⇒