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 それは衝動に近かったのかもしれない。
 日本語の悲痛なる文字列。そこに確かに燻っているつむぎの感情を見るに、バンジークスは彼女のもとへ駆け付けずにいられなかったのだ。
 女性の小さな手にも収まるちっぽけな香り袋が、ちっぽけなりにも彼女の助けになるのならばと思った。

 つむぎの手の感触が残っているような気がして、彼は白いグローブの手のひらを見つめた。離すのが些か名残惜しくなるような、不思議としっくりと収まりのよい感触だった。

「つむぎさんに何を渡したのです」

 不躾と思いながらも、先程幼なじみの手にした巾着袋について、聞かずにはいられずに亜双義は口を開いた。

「ミス・ワトソン手製の香り袋だ。…彼女に必要だと思われたので、渡した」

「何故そのような物を?」

 急に挙げられたアイリス・ワトソンの名。彼女の作ったものと聞いて、亜双義としては信頼を置けばいいのか怪しげなものと疑うべきか悩ましく思った。何故ならホームズと彼女はやたらと怪しげな薬品や機械ばかり発明しているからだ。しかし、よもや危険の及ぶようなものであれば、バンジークスが人の手に渡すことも無いだろう。彼の言う通りそれはただの香り袋なのだとして、今度はつむぎに渡さなければならない必然性、その意図が解らなかった。やたらと踏み込みたいわけではない。が、自分の知り得ぬところで幼なじみの身に何が起こっているのかはどうしても気になるのだ。
 バンジークスはそれを察しながらも、溜め息と共に目を伏せた。

「…誠に申し訳無いが。私の口から話すべきではない事柄だ。彼女から聞くがよかろう」

「誰も彼も秘密主義で困ったことだな」

「貴公の言えたことか…。私の用は済んだ。ホテルへ戻る」

「―お待ち頂きたい、バンジークス卿」

 亜双義は彼に踵を返す隙すら与えず、噛み付くように言った。

「何だ」

「つむぎさんはオレの大切な幼なじみだ」

「…だから何だと言う」

「だからこれだけは言っておきたい。…もし、彼女に―」

 殺気だったような鋭い目付きを久々に見た。かつての彼の父によく似ている。今にも刀を抜いて斬りかからんと言うような、真っ直ぐに見据える目線だ。

「……」

「―彼女に何かのきっかけを与えたのが貴方なら…心から御礼申し上げる…!」

「――!」

 身構えていたのとは全く正反対の言葉と、迷いなく深々と頭を下げる従者に、バンジークスはたじろいだ。彼のそんな姿を見るのは初めてのことだった。出会い、プロフェッサー事件の解決を経て、 職務を共にするようになり信頼関係は築いてきたと思う。しかし憎まれ口を叩かれることは数あれど、これほどまで率直な感謝の表し方は今まで一切無かった。

「オレは幼なじみである彼女に何も力添えできない。貴方がどんな魔法を使ったのか知らぬが…オレより余程、力になったのであろう」

 魔法、と聞いてこそばゆいものを感じた。そんな得体の知れぬ力ではなく、にわか知識とはいえ医学的な手法を用いたつもりだ。しかし一方では亜双義の言う通り、医学的根拠とはまた別の、何か衝動的で説明のしがたい空気がつむぎとの間に生じていることも彼は否定できなかった。

「ようやく死神と呼ばれることも減ってきたというのに、今度は魔法使いか。この私がそんなに人ならざるモノに見えるか」

「人の目にどう見えようと、貴方は貴方だバロック・バンジークス卿」

 それはそうなのかも知れぬが、果たして糸賀つむぎ本人の目には自分はどう映っているのだろうとバンジークスは思った。未成熟な英語で綴られる手紙からは、そこまでは読み解くことは出来なかった。彼女にとって自分は、死神か、魔法使いか、 偶然通り掛かった親切な英国紳士か─。

「…どうであろうな」

 どれも自分という存在を言い表すのに、適しているようには思えない。
 何かもっと他の。もっと新しく、特別な表現があるのなら教えてもらいたいくらいだった。

 二人はなんとなく沈黙して、庭を眺めた。春の間からは春に花をつける木々や草花が望めるが、今は季節外れで非常にさっぱりとした景観である。清々しくもあり、それはそれで悪くなかった。
 バンジークスはグラスに葡萄酒を注いだ。従者である亜双義がいつ何時も持ち歩いてくれるので、手持ち無沙汰になったときにすぐ葡萄酒を嗜むことができる。普段は薄暗い部屋に籠っていることが多いせいか、景色を眺めながらのそれはいつもと違う趣を感じた。そうして今しばらくは静かな空気に思考を預けていたいような気もしたが、中断してきた仕事があることも事実で、改めてホテルへ戻ろうとふすまの方に向きなおした時だった。
 小動物が駆けるような足音がこちらへ向かってくるのが聞こえ、その直後にすうっと心地よく滑ったふすまは、トンと太鼓を叩くような軽快な音を立て開かれた。
 そこには再び春の間へ舞い戻った蝶─もといつむぎが、上気した血色のよい頬で立っていた。勢い良くふすまを開けたその手の中には尚も小さな香り袋を握りしめて。

「たった今。縁談をお断りしてきましたわ…!」

 ぽかんとする二人を尻目に、つむぎは笑った。
 突然の申告に亜双義もバンジークスも驚きを隠せなかったが、それは実に憑き物が落ちたような笑顔だったので、二人も次第につられるように頬を緩めていた。
 彼女の中に、何かが起きている。
 亜双義が感じ取ったように、バンジークスの与えた魔法のようなきっかけで、気持ちを新しく動かそうとしているのがその表情に見てとれるようだった。
 縁談を断った。しかも相手に面と向かっての宣告。それはこれまでの彼女にしてみれば非常に大きな変化だった。のらりくらりとかわし続け、それでいて自分の気持ちを顕にすることも出来なかった今まで。
 いつか長いものに巻かれるように、縁談を受け入れなければならない日がやってくるのかもしれない。けれども今はその時ではないということを、しっかりと自らの意思で示したのだ。

「へえ。やるじゃないか」

 いつもの淡々とした口調で、しかしどこか爽快な気持ちも隠せず歯を見せて笑いながら亜双義は言った。彼女にとって勇気のいる行動だったということは、彼が一番良くわかっていた。

「母様が怒り狂うでしょうね。恐ろしいわ」

「ちっとも恐ろしいという顔をしてないな」

 感服とも呆れとも取れるような曖昧な言葉と表情を浮かべたのは、バンジークスだ。つむぎは先程から変わらずまだ星屑の降るようなきらきらした瞳を向け、背の高い彼を見上げた。

「バンジークス様」

 手のひらに乗せた香り袋を差し出す。どうやら余程強く握りしめたらしく、すっかり潰れて見えた。

「…返さなくてよい。貴女に差し上げた物だ」

 バンジークスは、今度は彼女の手のひらに蓋をするようにそっと手を置き、改めて香り袋を握り込ませた。彼の大きな手に二度までも包まれて、つむぎは思わずはにかんで頬を染めた。先程までは自分の気持ちの忙しさにいっぱいいっぱいで意識していなかったことが、今になって急に鮮やかに意識に飛び込んで来たように感じた。─男性に手を握られているという事実だ。

「…では、有り難く頂戴します」

 声が上擦った。
 流れる妙な空気に少しだけ居心地を悪くしたのは彼女の幼なじみで、致し方なく咳払いをしてみせた。

「ご婦人にそう容易く触れるのは如何かと。舞踏会に慣れた英国のレディとは違うので…」

 言われて、自分の行動をはっと思い直したバンジークスはすぐに手を離した。彼の指摘は尤もだ。社交場に訪れるレディにだって、エスコートやダンスの申し入れもしないままに手を触れることなど、無礼に決まっているのだ。
 理性的でも論理的でもなく、必然性のようなものを感じるままに行動してしまう。
 衝動。それはあまりに自分らしくない。にわかに羞恥に襲われ彼は珍しく、耳のあたりが熱くなるのを感じた。

「断じて、不埒な気持ちでは…!」

「いえっ、あの、勿論!そうでございますとも!」

 つむぎも慌てて手を引き、どこか渋い顔をしている亜双義に対して弁明した。不埒で邪な気持ちでないなら、バンジークスのそれは真心からくる行動だ。はて、そちらのほうが厄介なのではないか、と亜双義は胸中に呟いた。本心から彼女を想っての行動。それが単純な親しみなのかそれ以上の特別な感情なのかが問題である。ただ、そこまで追究するのはあまりに無粋というものだ。それに、彼こそ幼馴染という立場で、姉弟のような存在と思いながら簡単に彼女を抱きしめたりするのだから強く言えたことでない。
 ―きょうだい。そう、目の前の二人の姿は、亜双義が幼いころによく見ていたつむぎと彼女の兄君の姿にもどこかよく似ているのではないだろうか。そういった類の関係性というのは、確かにあり得るものだと彼は思いなおした。

「ご婦人へのかような無礼な振る舞い…お許し頂きたい」

「いいえ、私の方が…お忙しい中お気遣い頂き、恐縮です」

「貴女の英国語の勉強は捗っているだろうか」

「ええ、バンジークス様のお陰です」

「力になれれば何より…。帰国まで限られた時間ではあるが」

 その一言に一瞬ぽかんと口を開けたつむぎは、ああそうだ、とその意味を理解する。帰国。そう、この人はほんの限られた時間しか日本にいない。解っていたのに、まるで初めて聞いたように彼女はその事実を残念に思った。
 日記のような手紙は一方的なものなのに、それに対して寄越される添削の返事を読むのは嬉しかった。そこには感情的なことは一切書かれなかったが、律儀で礼節があり、それだけで不思議と彼の人柄が伺えたのだ。
 それに、お礼として手料理を贈ることも。何を作ろう、どんなものがお好みか、喜んで貰えるだろうか、と考えを巡らせる時間が、彼女にとって今までに感じたことのないような楽しい時間だった。その事を今バンジークスに伝えようかと彼女は思ったけれど、どうしても気恥ずかしさが勝って言葉が出てこなかった。先程縁談を断ったのとはまた違った種類の勇気がいるようだった。

「あと…どれくらいの滞在でございましょう」

「英国行きの船が横濱に着くのが、十五日後だ」

 十五日。
 つむぎは手の中の香り袋を見た。
 二週間後には、その香りも消えてしまっているかもしれないと思った。






式日