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ホテルへ帰るそう長くはない道のり、馬車の中で淡々と話す従者の声にバンジークスは耳を傾けていた。外の喧騒にも車輪の音にも混じらない、張りのある凛としたその声。違和感なく聞き取れる流暢で洗練されたクイーンズイングリッシュで、明日からの予定の詳細が伝えられる。従者の幼なじみ―糸賀つむぎの英国語はまだまだそこまでは及ばないな、とぼんやりとバンジークスは考えた。彼女の英国語はまだ拙い。けれど懸命に単語をたぐりよせて話す様はとても真面目で勤勉だし、何より健気に見えた。
「─聞いておられますか?」
ぼんやりと視線を窓の外に放りっぱなしのバンジークスに、思わず亜双義が問う。自分の声は右から左へすり抜けているのではないかと思えるほどの無反応だったからだ。
「無論聞いていた。貴公の英国語は美しいな、アソーギ」
「…はぁ…?それは、どうも」
答えになってはいないが、誉めてもらったらしいので何となく礼を返す。どうも何か別の考え事をしているということだけはよく解った。
「やはり相当修練を積んだのであろうな」
「まあそれなりに…大学でも英国人教授の研究室にばかり入り浸っておりましたね」
幼い頃から父・玄真と一緒になって英国語を学んでいたというのもあるが、結局のところ最も重要なのが実践会話であることは言うまでもない。留学へ向けた強固な執念で彼は、英語学部の生徒でもないのに講義や研究室に入り浸って過ごしていた。
それを聞いて、ふむ、と考え込むようにバンジークスは額を抱え、再び沈黙した。
たとえばつむぎが亜双義のような流暢な英国語会話を目指すなら、やはり手紙だけでは不充分で実践的な会話の練習が必要となるが…どう考えても、あと二週間余りでそこまでの世話をする余裕がないことは明白だ。
車窓の隙間から吹き込む夜風が、彼の額に垂れた藤鼠の前髪を揺らした。普段の厳めしい表情とはどこか違う。愁うような横顔。
─バロック・バンジークス卿は今、きっとつむぎのことを考えている。
亜双義は何故だか直感的にそう思った。
「バンジークス卿。…つむぎさんの、ことですが」
「…あぁ。まさにかのご婦人のことを考えていた。勉学の環境が与えられていないというのは実に勿体無いことだ」
「仰る通り。彼女が女学校を辞めたのは、彼女の兄君が亡くなったことがきっかけでした」
彼にしては珍しい、ゆったりとした口調でそう告げる。非常に繊細な話だったし、それに兄の死というエピソードはバンジークスにとって無視できないものだということも解っていたからだ。変に感情を煽るつもりはない。けれども今彼が彼女のことを何かしら気にかけてくれているのなら、彼女の身に起きたひとつの事実として、伝えておきたかった。
バンジークスはそれまで外へ向けていた視線をやっと亜双義へ向けた。
「彼女には…、兄が…?」
兄、という単語を口にするのに一度呼吸を挟む。どうしてもクリムト・バンジークスの面影がそこによぎるからだ。亜双義は控えめに頷いた。
「…突然の病でした。彼女は兄君に代わって店の後継ぎに。そのための修行を強いられ、勉学や趣味事を奪われたのです。あれから…もう八年は経つのか。一番華やかで楽しいはずの年月を、家業に捧げてきた。年頃のおなごには辛いことでしょう。…実際、人知れず心を病んでおられた」
「…さようであったか」
以前御琴羽教授の研究室で話した際に、恐らく彼女はその事を口にしたのだろうとバンジークスは思った。苦しげに声を絞っていたのをはっきりと思い出せる。あの時は、日本語で告げられるその話の内容までは知り得なかったし、知る必要も無いと考えていた。けれど今はそうではない。事情を聞いて、何か腑に落ちるものがあった。
つむぎに衝動的にも干渉せずにいられないのは、彼女の痛みや葛藤に近いものを彼自身が体験としてよく知っているからだ。本能的な部分で、寄り添ってあげたいという気持ちが湧いたからだ。
「先程貴方とつむぎさんが並んでいらっしゃるのを見て、懐かしく思いました。背丈の差や、見上げる仕草が、昔見た彼女と兄君の姿に重なって見えたのかも知れません」
亜双義は思い付いたままにそう呟いたが、本当にそう見えていたのかどうかは彼自身定かでなかった。兄妹のようにも、昔馴染みのようにも、運命の恋人のようにも見えたかも知れない。いずれにしても、二人が必然的に並んでいるような、昔から当然のようにそうしてきたような光景に思えた。
「兄…か。死神や魔法使いよりは幾分マシだな」
とりあえずまっとうな人間として認識されているならば、それに越したことは無いとバンジークスは思った。これまでの十年と少しの年月、誰にどう思われているかを極力考えないように生きてきたが、その矛盾に彼は目を瞑った。
再び視線を外にやると、滞在しているホテルがすぐそこに近づいているのが見える。
「─ところでアソーギ。明日の予定は何だったか」
「結局聞いていなかったのですね」
極々稀にこうしてとぼけた一面を見せる彼に、亜双義はやれやれと溜め息を吐き、明日から三日間に渡って帝都勇盟大学での特別講義に登壇する予定であることを伝えた。
整然と並ぶ机に、黒い学生服たちがぴんと背筋を伸ばして座している姿はなかなかに見ごたえのある光景だと思った。
知的好奇心に満ちた顔、そうでない顔も入り交じっているのはどこの国の大学でも同じであるが、その中にもひときわ煌々とした大きな瞳で教壇へ視線を寄越す者があった。
大英帝国における司法の歩みと現状を教壇上で説いていたバンジークスは、何気無く目をやった一番後ろの席のその人物としっかり目があった。片手で辞書を捲りながら懸命に筆記帳に講義の内容を書き取っている様子だったが、視線が重なると相手はハッとしたように学帽を目深にかぶり直した。そもそも講義中に帽子をかぶったままというのも何かあからさまにおかしい。
─誰だ。
瞬時には答えがでなかった。黒い学生服の知人など一人しかいなかったが、そこに居るのは成歩堂龍ノ介ではない。しかしどこかで見た顔をしている。いつかどこかで─否、つい最近だ。
バンジークスは表面上は淡々と講義を続けながらも考えを巡らせた。
男子学生の格好という先入観が大いに邪魔をしたが、彼は人から聞いたある出来事を思い出していた。確か、御琴羽教授から聞いた話だった。─そう。彼の娘、御琴羽寿沙都がまさにその格好で法廷に立ったことがあるという話だ。
ふと、何かに思い当たりもう一度学帽を被った怪しげな学生を見る。目元は帽子のつばに隠されてしまったが、男子学生にしては小柄なことや、筆を握る手が日焼けをしていない白い肌であるのが目についた。そしてその手を当然彼はよく知っていた。何しろ昨日二度にわたって握りしめたのだから。
「まったく。何をしておいでです」
講義後に亜双義に首根っこを引かれるようにして別室へ連れ出されたつむぎは、咎められているのも気にも留めない様子で微笑んだ。
「よくぞお気付きで。バンジークス様も気付かれましたでしょうか」
「…無論」
「まあ。やはり検事様がたの目はするどいこと!渾身の変装でしたのに」
亜双義、バンジークス両者共に講義の途中で不審な学生の正体に気づいてはいたが、他の学徒たちの勉学の妨げになることを避け、その場で摘まみ出すことはせずに終わりまでそのままにした。
実際のところ、大勢の生徒たちの中に彼女ひとりが混じっていたからといって大きな問題ではない。しかし外部者の聴講を認めていなかったので、他の大学関係者には知られぬよう配慮した。
「不法侵入すれすれ─、それにその学生服。非常によく見覚えがあるのですが?」
襟元の校章に、仕立ての丈の長さ。上着を裏返して記名を確認するまでもないくらい、亜双義の目に慣れた黒い学生服。
「はい。一真さんのお部屋から、今朝方お借りしてきました」
亜双義家の使用人にきちんとことわりを入れたから、泥棒ではありませんと彼女は主張する。そういうことを問い質したいわけでなく、どうしてそのような行動に至ったのかを訊きたいのだが。
いつもの癖で机を叩きたくなるのを若い検事はぐっと抑えた。これは罪人の取り調べではない。
「バンジークス様のご講義と聞いて、どうしても聴講したく。どうかご容赦ください」
そう釈明する彼女に、バンジークスは顔色を変えず頷いた。
「失礼だが、貴女には難しい内容だったのでは」
ええ、とっても、とつむぎは眉を下げて笑った。彼に言われるまでもない。講義はすべて英国語、内容は大英帝国の司法制度についてであり、日常会話では到底出会うことの無い専門用語がひしめいていたのだ。
「わからない単語がたくさん。出来るだけ書き取りましたので、あとでゆっくり調べます。─ですがとても勉強になりました。発音や聞き取りの練習は、お手紙や自学ではどうにもできずに苦慮していたところです」
彼女が口にしたのはまさに昨晩バンジークスが胸中で懸念していたことだ。彼女なりに問題を理解しており、こうして勉学への道を模索しているというなら、尚更それを咎める気がしなかった。
「折角のご縁です。少ない日を無駄にしたくありません。あと二日間のご講義も、目を瞑っては頂けませんか?」
聴講する生徒がたった一人増えることは講師にも周囲の他の生徒らにも何ら影響が無いのだから、断る理由が無い。 しかし立場上、はっきりと返事を口にすることが出来ず、バンジークスは亜双義の顔色を見た。その視線で上席の意向をよく理解した彼は、やれやれと苦笑いと溜め息を溢すしかなかった。あと二日間は、幼なじみに制服を貸しておくということだ。
「折角の縁─という点では、私からも貴女に言っておきたいことがある」
「はい、何でございましょう」
「…まず。一方的な話になること、お許し願いたい。もし英国語が聞き取れないようであれば、深く考えずに聞き流して頂いて結構」
バンジークスはそう丁寧に前置きをしたうえで、彼女の瞳を見据えた。自分が伝えようとしていることの繊細さは重々承知で、押し付けがましく思われることも避けたく、しかし口を開かずにいられなかった。
「―貴女に、兄君がいたと聞いた」
そう切り出され、つむぎは薄く開いた唇から浅く息を吸い、瞳を一層丸く見開く。
ええ、とかはい、とか上手く相槌打つことができず、ただただ曖昧に小さく頷いて応えた。
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