すっかりと宵が深まった頃、すでに自力で立ち歩けない状態になったのは成歩堂龍ノ介であった。─とはいえ、さほど多くの酒を飲んでいたわけでもない。彼はただひたすらに酒に弱かった。弱いと自覚しているのに、場の雰囲気に乗せられて飲んでしまう、厄介なたちなのである。
 亜双義は呆れ果てた表情を浮かべ、寿沙都もどうしたものかと頭を抱えた。しかしこの手の厄介な客は常日頃から一定の割合でいるもので、つむぎは手際よく馬車の手配を済ませていた。

「すみません、うちで使っている馬車が二輌あるのですが、丁度今一輌が出ておりまして。一輌では皆様乗り切れませんので少しお待ちいただけますか」

「ええ、構いません。しかし成歩堂くんは今ある馬車で先に帰してやりましょうか」

 酔い潰れた若き弁護士を見かねての御琴羽の提案に、皆同意した。

「オレが付き添います」

「ではわたくしも。心配でございますから」

 世話が焼けるという表情を浮かべながらも、同時に心底の心配もしているのであろう。彼の親友・亜双義と、助手・寿沙都が付き添いを申し出て先にある馬車で帰路につくこととなった。必然的に御琴羽教授とバンジークスは料亭こだまに残り、戻ってくる馬車を待つ。半刻ほどで戻るだろうとのことで、折角なのでもう少し飲みましょうと御琴羽はバンジークスに酒を勧めた。

「まあ、先生も今宵はよくお飲みですこと」

 つむぎはいたずらっぽく空になった銚子の数を数えながら言った。

「若者達と酌み交わすとつい飲み過ぎてしまう」

「ふふ。御琴羽先生、検事さま、今しばらくごゆるりどうぞ」

 丁寧に深くお辞儀をしたつむぎは、成歩堂ら三人分の膳を片付けて部屋から下がった。
 残された御琴羽とバンジークスは二人で翌日からの日本での予定などをあれこれと打ち合わせた。何かとやかましい若者たちがいないほうが、そういった事務的な話は淡々と進めやすく好都合である。視察、会議、特別講義…。ひと月程の滞在予定であるが、充実した密な内容と言える。
 しかし観光や余暇の面については、バンジークスの頭には特になかった。職務に関わること以外で、日本で見るべきものや特別な過ごし方というのが彼には特段思い浮かばなかったのだ。なので、「何処か行きたい所などはございませんかな?」と御琴場に訊ねられると、つい考え込んで押し黙ってしまった。

「これといって考えが無いのだが…」

「例えば景色のよいところなど…、あぁ、そうでした。此処、こだまの庭園も大変立派なのですよ」

「庭?」

 ガーデンと聞いて思い浮かべるは彼の邸宅のように幾何学的に整えられた広い庭園か、イングリッシュガーデンと呼ばれ郊外によく見られる自然美を趣としたものだが、しかしどうだ。御琴羽が颯爽と障子を引くと、そこにはバンジークスの知るそれらの庭園とはまた意趣の異なる庭があった。植木や池や燈籠や石。一見無造作に配置されているようで、それなのに一枚の絵の中にあるように絶妙なバランスで構成されている、自然とも人工的とも捉えられる不思議な空間だ。空に浮かんでいる月でさえ誰かの手でそこに置かれたように一体になっている。手入れの行き届いた植栽が、夜の燈籠の明かりに照らされて美しく浮かび上がる。その明かりに誘われるようにして、彼は外廊下に出た。

「なるほど、確かに─美しい庭園である」

 美しさ、そして何かモノノケでも出そうな怪しさが立ち込めている。そうした雰囲気が、バンジークスは嫌いではない。景色と、そして、静寂─。

「…?」

 否。静寂ではない、と彼は気付く。耳を澄ませた。微かではあるが、遠くない処から聴こえてくるもの…。

「どうかされましたか?バンジークス卿」

「何か…いるようだな。犬だろうか?この鳴き声…」

 目には見えないがそう遠くない、確実にこの料亭の敷地内からその小さな声のようなものが彼らの耳に届いていた。








 数日前、帝都勇盟大学の御琴羽教授からの予約が入ったと聞いたとき、つむぎは嫌な予感に襲われた。
 御琴羽悠仁教授は大学や法曹関係者と共にときおり訪れる客であったが、今回は留学から一時帰国する亜双義一真と英国の客人がいるというではないか。─予約人数は五名。あとの二人は間違いなく亜双義の友人であり弁護士の成歩堂龍ノ介と、教授のご令嬢である御琴羽寿沙都だと確信した。姉弟のような亜双義の帰国は嬉しくないわけじゃない。しかし彼女は今回についてはどうしても気乗りしなかった。それとなく他の女中に接客を任せようとしたが、英国語が話せるのはつむぎだけだから、と言われてしまい役目を受けざるを得なかった。
 極力心を乱さないようにと彼女はわざと亜双義に悪態を吐いた。ただただ、他の感情から逃れるため。そうすることで何とか自分の心情を誤魔化していた。
 ようやく彼女が緊張から解き放たれたのは、酔い潰れた成歩堂を亜双義と寿沙都が連れ帰った時だった。馬車を待つ御琴羽教授と英国紳士に気を遣うそぶりをして、つむぎは客室から下がった。
 料亭内のいくつかの部屋に居た客たちもほとんど帰っていったようで、ずいぶんと静かだ。後片付けに追われる女中たちのぱたぱたと廊下を渡る足音や、食器を重ねる音が時々聞こえた。
 溜め息なのか、深呼吸なのか解らない重く長い息を彼女は吐き出した。
 ─その瞬間。こみあげる虚しさやら悔しさやら嗚咽やらを抑えることができない、と気付く。つむぎは走った。廊下を端まで駆け抜け、帳場にいる女将の目を避け、炊事場を通り抜けて勝手口から外へ出た。丁度こだまの店構えの裏手にあたる位置だ。明日焼却するごみがまとめて置かれている以外は何もなく、ごみの横に膝を抱えてうずくまって泣いた。嗚咽が抑えられない。けれど、誰かに気付かれてもいけない。脳裏に浮かぶ誰かの面影を、何度も何度も掻き消すことを繰り返した。彼女には時々こんな風に、一切の抑制の効かない激しい感情が押し寄せてくる時があった。大声で叫びたいのをどうにか両手で塞いで堪えるしかなかった。
 夜の薄闇に、彼女の消え入りそうなすすり泣きが、仔犬の鳴き声のように聞こえていた。




「これは驚いた。…犬ではなかったようだ、ドクター・ミコトバ」

 低く淡々とした声が夜空から降ってきて、つむぎは思わず小さな悲鳴を挙げた。見上げれば、眉間に傷跡を刻んだ死神のような紳士が覗き込んでいる。そしてその後ろに、一回り背の低い紳士も。

「おや。貴女でしたか。どうしたのですこんな処で」

 夜の庭園で何か小動物の鳴き声なようなものを聞き付けた二人は、その声の聞こえてくる方へと外廊下をぐるりと通って、店の裏手側へ辿り着いた。そこは炊事場へ出入りする勝手口になっていて、ごみの一時置き場のようだ。確かに野良犬や野良猫が寄ってきてもおかしくはない場所であるが、彼らがそこで発見したのはすすり泣く仔犬─ではなく、女性であった。薄明かりに浮かぶその顔を見れば、つい先ほど迄にこやかに接客していたつむぎではないか。

「あっ…、あああの、いえ、…なん、でもっ…無いので、す…!」

「何でも無いようには見えません」

「…ひ、え、お気に…なさら、ないで…どうか…」

 嗚咽を堪えようとすればするほど、反発するように溢れてくる。着物の袖も、涙を含んですっかり色が変わっていた。

「ドクター・ミコトバ、彼女は一体…」

 尋常ではない様子は見れば解るが、日本語を解さないバンジークスは困惑した。

「ええ…気にしないで欲しいと言うのですが」

「誰か人を呼んだほうがよいのでは」

 バンジークスの言葉に、女将を呼ぼうかという考えが御琴羽の頭にもよぎったが、ぐしゃぐしゃに泣き崩れたつむぎの顔を見ると、何となくそれは止したほうが良さそうだと思った。見る限り、怪我をしたり物理的な要因で泣いているわけでは無いらしい。彼女はこの高級料亭の女将見習いだ。こんなところで仕事を放って泣き暮れているなどと下手に人に知らせれば、女将や他の女中たちに叱責を受けることになるだろう。

「だいっ、じょうぶ、…です!…ほんとに…ひっく、」

「しかし…」

 二人の紳士は途方に暮れてしまった。訳もわからず泣いている女性をなだめる術を、彼らはいずれも持ち合わせていなかったのだ。そんな中、店の中に女中と思われる女性の声が響いた「つむぎさぁん、馬車が戻りましたよ、つむぎさぁーん?」と彼女を探している様子である。

「あぁ…申し訳…ありま、せん、どうか…、お行きくださいっ…」

 つむぎを探す声と足音が近づいてくる。ここで行かねば、彼女がこうしていることがやはり人に知れてしまう。泣いている女性を置いて立ち去るというのも彼らの紳士精神に反してはいたが、致し方の無い状況である。

「貴女の力になれず申し訳ありません…つむぎさん、何か困ったことがあったらいつでも仰いなさい」

 御琴羽はそう言い残し、そしてバンジークスは、言葉で伝えるべきことが見つからず、彼の上着からポケットチーフを出してつむぎに差し出した。彼女は反射的にそれを受け取ると驚いて彼を見た。漆黒のチーフ。涙を拭けという意味だと、数秒遅れて気がついた頃には、バンジークスは胸に手を当てて深々と礼をし、颯爽と立ち去って行った。





式日