客を乗せた馬車が遠ざかっていく音が、やがて完全に聴こえなくなった。
 二人が去った後、つむぎはバンジークスに渡された黒いチーフをそっと頬にあてた。絹の柔らかな感触が肌の上を滑るようで、それだけで上質の品物だとわかる。そして何より、とても良い香りがした。花などの香料だろうか、これまでに嗅いだことの無いような香りで、ホッとするような甘やかさと、清潔感のあるものだった。鼻と口にチーフをあて、すうっと大きく吸い込んだ。不思議なことに、そうして香りを吸い込むと、それまできつく縄で縛られたようになっていた胸のあたりがふわりと解放されたように軽くなるのを感じた。そのまま繰り返した何度目かの深呼吸で、おや、と彼女は自身の涙がすっかり止まっていることに気付いた。先程までは、あんなに堪えようとしても止められなかったのに。

「バンジークス…検事さま」

 不思議な黒いチーフを渡してくれた英国の客人の名をつむぎは思わず呟いていた。




 翌朝つむぎはとても早く目を覚まし、そして急いで手紙を書いた。宛先は御琴羽教授と、バンジークス卿である。手紙の中でまず彼女は昨夜の醜態を詫びた。とにもかくにも、あのような取り乱した姿を見られてしまったことについては、黙ってそのままにするわけにもいかない。それからバンジークスに借りたチーフを後日必ず返すという旨を、英語で正しく書く自信がなかったので、御琴羽から伝えてほしいと書き添えた。
 書き終えてから店の炊事場へ行くと、住み込みの女中や板前たちがまだ誰も来ていないことを確認して、あれこれと食材を引っ張り出して手際よく得意料理をこしらえた。それをお重に詰め込んで桜色の風呂敷に包み、手紙と一緒に帝都勇盟大学の御琴羽教授の研究室へ届けるようにと小間使いに託した。
 ようやく日が高くなり始める。次につむぎは、彼女の涙を止めてくれた例の漆黒のポケットチーフを洗った。絹の生地を傷めぬよう、充分に注意をした。昨夜は暗い処に居て気付かなかったが、よく見ると銀の糸でそれはそれは繊細な刺繍が施されている。そんな持ち物ひとつから、あのバンジークスという検事は職業的な立場だけでなく彼自身高貴な人物なのだと解る。終始難しそうな表情をしていたが、彼の所作のひとつひとつはとても優雅で美しかったことを、つむぎは見落としていなかった。そのような人を前にして、自分はあまりに失礼な振る舞いをしてしまった、と昨夜のことを改めて苦く思った。
 反省の気持ちと共に溜め息を一つ吐いて、チーフを風通しのよい自室の窓際に干した。
 今日みたいに晴れた日ならばきっとすぐ乾くだろう。そうしたら、きちんとそれを返しに行こうと胸に決めた。









「アソーギ。日本に来て早くも理解したことがある」

 その日の午後、バンジークスは亜双義を従えて法廷を見学していた。そしてひととおり廷内の様子を見終えたところで、彼は大層神妙な面持ちで先のように口を開いた。法廷の施設を見て回っただけなのだが、そこで彼には何か重大な気付きがあったのだろう。さすが大英帝国誇る随一の検事だ。

「…何でしょうバンジークス卿」

「全くもってこれは私の認識不足だったことが否めない事実だが…この国は実に─」

 一体彼の観察眼が何を捉えたというのか、亜双義は身構えて次の言葉を待った。バンジークスは苦しげに息を吐き、そして亜双義にこう告げた。

「─米が、美味である…!」

「……」

「……」

「……はぁ?」

 亜双義はすぐにはその意味を解さず、何度も瞬きを繰り返した。

「こ。米が、何ですって?」

「非常に美味であった。昨夜の料亭の食事も、今日の昼食も─、あれは、何と言ったか…米が黒いもので包まれて、輪切りになった…フト、何とか」

「太巻き、ですか」

「それだ。フトマキ」

 バンジークスはその料理の名を思い出して、さもすっきりしたように口元に微笑を浮かべた。まさにこの法廷見学の少し前、昼食として彼はそれを食していた。御琴羽教授の研究室で法医学の文献などを見せてもらっていたところ、かの料亭こだまから、小間使いの者がそれを届けに来たのである。ミス・ツムギ、と彼は送り主の女性の名をしかと記憶していた。御琴羽とバンジークスに宛てて昨夜のことを詫びる手紙がしたためられ、「フトマキ」とやら言う日本料理の詰まった重箱と共に届けられたのであった。ちょうど昼に差し掛かる頃合いだったので、彼らは太巻きを昼食としてありがたく頂いたという次第だ。

「思いがけず食べ過ぎたようだ…法廷内の見学は丁度良い腹ごなしになると思われたが、今も尚腹が苦しい」

「はぁ…腹持ちが良いですからね、あれは」

 法廷見学を腹ごなしの運動程度に思われていたことも衝撃的であったが、突如持ち出された太巻きの話に亜双義は困惑した。しかしそんなくだらぬ話題で人をおちょくるような人物ではないということは、重々解っている。だから今バンジークスの脳内と腹が太巻きでいっぱいになっているということは、どうやら紛れもない事実らしいと彼は結論付けた。

「昼に太巻きを召し上がったのですか?」

 亜双義はバンジークスの従者として立ち回っているが、午前中は行動を別にしていた。御琴羽教授の研究室で資料などを見ていたという話は聞いていたが、昼食はてっきり洋食レストランにでも行ったものと思っていた。

「やはり良質の米が採れるというのが、この国の食文化に大きく影響しているのだろうな」

「はぁ、そうかも知れません」

「貴公の国を極東の途上国と考えていたことは詫びたい。フトマキ…か、見た目にも芸術性が高い。色とりどりの具材。まるで花を描いたように見えた。独創的な食文化は世界に通用する物だ」

「花…?」

 具材が絵に描いた花のようだというバンジークスの表現に、亜双義は思い当たることがあった。一言に太巻きと言っても店や家庭、扱う具材によって様々な仕上がりになる料理だが、そのような太巻きを作る人物が彼の身近に一人だけ居るのだ。かの料亭の娘─。

「その太巻きはつむぎさんが作ったものでは?」

「さよう。かの料亭のツムギ嬢から届けられた」

 やはり、と腑に落ちる。つむぎの作るそれは他の者が作るのとは明らかに違った。独特なる具材の配置で、バンジークスの言うとおり絵画のように彩り美しい太巻きを彼女は作るのだ。しかしそのような技術を持っていても、彼女は料理人ではない為に店の炊事場に立つことを許されていなかった。だから彼女の手料理を食することが出来るのは、親兄弟やそれに近い亜双義のような、ごく限られた人物だけだった。

「あの方の一番の得意料理です」

「そうか…是非また願いたいものだな」

 死神と恐れられた男が極東の食文化にここまで感銘を受けるとは思っていなかったが、幼馴染の料理を誉められたことは亜双義にとっても妙に嬉しく感じる出来事だった。そんな喜びと同時に、ふと思い出したことがある。太巻きといえばひとつ愉快な思い出があったのだ、と彼は押さえきれずにくくくと喉で笑った。

「同じように感激して、彼女の太巻きを連日でも食べたいと言ってエライ目に遭った奴を知っていますよ」

「エライ目?」

「手料理を誉められて喜んだ彼女はそれから毎日毎日そいつに太巻きのぎっしり詰まった弁当を差し入れたのですが、しかしさすがに食べ飽きて十五日目でそいつも断りました。太巻きが夢に出てうなされるとか言って、寝不足でゲッソリしていましたね。あれは可笑しかった」

 いくらなんでも、確かに同じもの─しかもあれほどのボリュームのある食べ物を連日十日以上ともなると、さすがに腹がどうにかなるのでは、とバンジークスも思った。そしてどういうわけか不思議なことに、今の話を聞いただけで何となく頭の中には、ある人物でもって情景が浮かんでしまった。

「まさかと思うがそのエライ目に遭った人物と言うのは─」

「それは勿論。我らが弁護士、お人好しの成歩堂龍ノ介に決まっているではないですか」

 口に出してしまえば尚のこと可笑しく思えて、亜双義は今度は声をあげて笑った。





式日