また明くる日。
 例のチーフを返すため、つむぎは気持ちを引き締めて、自らがバンジークスのもとへ向かった。亜双義の家を訪ねると昔からの馴染みの使用人が出て来て、今日はまた帝都勇盟大学に行っていると言われた。法学関係者の講演会が開かれているのだとか。
 人力車に揺られて大学まで来たまでは良かったが、講演会が行われているという講堂には流石に易々と入れる雰囲気ではない。そもそも男性ばかりの場所であるから、敷地内を歩いているだけで彼女の存在は妙に目立って仕方なかった。好奇の視線から逃れるべく、つむぎは取り敢えず自分の知っている人物─御琴羽悠仁教授の研究室を目指すのが一番だと考えた。

「よくいらっしゃいました。講演会が終わったらバンジークス卿はこちらへ寄ることになっていますから、丁度良い。ここでゆっくりして待っていてください」

 出迎えてくれた御琴羽はいつも通り穏やかで紳士的で、つむぎの緊張をほぐした。応接用の立派な革張りのソファへ通され、英国産の紅茶を出される。もてなす方と、もてなしされる方、いつもと立場が逆ですねとお互いに笑った。
 しばらく他愛もない談笑を交わしたあとで、研究室の扉が叩かれる。すわ、バンジークス卿かと思いにわかに緊張するが、現れたのは大学職員であった。

「教授、論文資料のことで確認が…少しだけ宜しいでしょうか」

「ええ、では資料室で伺いましょう。つむぎさん、ゆっくりとお話ししたいところですが申し訳ない、少しだけ外します」

 御琴羽は丁寧にそう断って部屋を出た。
 流石、英国への留学経験もあるというから紳士的だなとつむぎは思った。そして御琴羽が一昨日の晩のことを聞き出そうとしてこなかったことに安堵していた。あの時なぜ泣いていたのかともし尋ねられたらどう答えるか、いくつかの誤魔化しの回答を用意していた程だ。真実を答えるのはどうしても難しかった。なぜなら、彼の娘―寿沙都にも多少なりとも関わりのある理由だからだ。自分が苦しむ原因の一端は寿沙都にある。そんなことを、当人の父親に向かって言えるはずもなかった。
 紅茶を飲み干し、脱力感と共にソファに背をあずけた。すると気持ちが落ち着いてきたせいか、急に眠気が襲ってきた。意識を奪おうと瞼が重く重く垂れてくる。無理もない。まさか手ぶらで此処へ来るわけにもいかないと考え、彼女はまた今朝も大変に早起きをして手料理をこしらえていたのだ。






 バロック・バンジークスは非常に困惑した。
 講演会の聴講が終わったら御琴羽の研究室に立ち寄る約束になっていたのでその通りに訪れたのだが、肝心の御琴羽が不在である。そしてその代わりに、先日料亭で出逢った糸賀つむぎがそこにいるではないか。しかも─ソファにもたれて、うたた寝をしているという状態でだ。何故彼女がここに居るのか、そして何故うたた寝をしているのかという疑問よりもまず、自分はどうすべきかをバンジークスは考えた。女性の寝顔を黙って眺めているというのも気が引ける。起こしたほうがよいだろうと思った。
 軽く咳ばらいをしてみたが、反応は無い。低く小さな声で「失礼、ミス…」と声を掛けてみたが、その声はまったく彼女の意識まで到達しなかった。揺さぶり起こすのはさすがに女性に対して失礼なので、致し方なく、とりあえず彼女の向かい側のソファに腰を下ろし頭を抱えた。
 こんなときに騒がしいあの若者たちが居れば良かったのだが、とバンジークスは後悔していた。亜双義、成歩堂、寿沙都ら三人も一緒に講演会を聴講していたのだが、彼らは昼食を摂りに行くと言って別行動となったのだ。
 目の前のつむぎは薄く開いた唇から、すうすうと規則的な寝息を立てている。料亭での姿はぴんと背筋を貼って凛として見えたが、あの時の泣き顔といい、無意識の状態だとずいぶんあどけない印象なのだなと彼は思った。
 対になったソファの間に置かれているテーブルの上には、彼女の手荷物と思われる風呂敷包みがある。それは昨日も此処へ届けられた太巻きのぎっしりと詰まった重箱と同じような大きさに見受けられ、バンジークスの脳裏には、昨日亜双義から聞いた話がよぎっていた。つむぎからの連日の差し入れで成歩堂龍ノ介が太巻きの悪夢を見たという笑い話であったが、今回のこれはどうなのだろうか、と。中身が気になって仕方の無いところではあるが、流石に人の荷物の中を勝手に見ることは出来なかった。

「う〜…ん…」

 不意につむぎの口から僅かな声が漏れた。すっかり深く眠り込んでしまったのか、腿のあたりに置かれていた手が完全に脱力して、だらりとソファの上に投げ出されてしまった。その瞬間、彼女の着物のたもとに、バンジークスにとって見覚えのあるものがちらりと覗き見えた。黒い、光沢のある絹の生地─。間違いなくそれは一昨日の晩に、暗闇で泣きじゃくる彼女に手渡したポケットチーフだった。太巻きと共に届いた手紙にも、返却しに来るという旨が書いてあることを御琴羽が英語に訳してバンジークスに伝えていた。律儀にも、手紙に書いてあった通りに手渡しでそれを返そうと、わざわざ此処へ脚を運んだのだとバンジークスは理解した。

「日本人の呆れるほどに几帳面なこと…」

 呆れると言っても、それは当然侮蔑の意味では無い。きっと彼女も成歩堂たちと同様、呆れるほどに真面目な人柄であろうと彼は思った。
 バンジークスはなるべく音を立てぬよう彼女の側によって、たもとから見えているチーフに手を伸ばした。用件が解ればわざわざ起こす必要はない。そっとそれを取り戻して、その旨は後で御琴羽に伝えれば良いと考えた。しかし慎重に黒い生地の端に指先を触れると、何か良からぬことをしでかしているような錯覚をおぼえ、元・スリの少女の顔が浮かんだ。いや違う、自分は自分の持ち物を返してもらうだけだとバンジークスは少女の面影を掻き消し、自らに言い聞かせた。

「…うう〜ん…」

「…!」

 彼の僅かな躊躇いが災いとなった。その瞬間にまた少しだけ身体を動かしたつむぎの腕と、バンジークスの手がぶつかってしまったのだ。声を掛けられても起きなかったつむぎは、その物理的な感覚で今度はしっかりと意識を取り戻した。

「えっ…!?きゃああッ!?」

 目覚めと同時に眼前に現れた死神風情漂う男に、彼女は思わず声をあげてしまった。しかも彼は自分のたもとに手を触れている。状況を判断するよりも早く、反射的に、身を守るように彼の手を振り払っていた。










「本当に本当に本ッ当に…!申し訳ありません!!」

 不名誉な誤解はすぐに解けた。
 つむぎは全面的に自分が悪いと平に謝り倒したが、バンジークスの方も一応は失礼なことをしたと詫びた。スリまがいの行動に出たことは否定できなかった。チーフは無事彼の手に戻ったのに、互いに何とも言えない気まずさが漂っていた。
沈黙に耐え兼ね、何かこの場を和やかにやり過ごさねば、とつむぎは自分が持ってきた風呂敷包みのことを思い出した。

「バンジークス様。昼食はまだでございましょう?」

 言いながら包みをほどくと、バンジークスの想像した通り、そこに隠れていたのは昨日同様の漆塗りの重箱であった。昨日の太巻きには心から感銘を受けた彼であったが、そう言えば、その件をまだ彼女に告げていないことに気付いた。

「昨日のフトマキ、ありがたく頂いた。ミス・ツムギ」

「ええ。お口に合いましたでしょうか」

「勿論。この国の食文化の豊かさには恐れ入る…」

「まあ良かった!ではこちらも是非」

 嬉々として彼女は重箱の蓋を開く。あの彩り華やかな太巻きがバンジークスの目にはしっかりと焼き付いていたから、よもや自分も連日の太巻き攻撃に遭わされるのでは、となんとなく身構えてしまっていた。─が、それを裏切るかの如く、今回は重箱一面がなんとも地味なきつね色一色という様相であった。バンジークスはここでまたも困惑した。子供の握りこぶしくらいの大きさのきつね色のかたまりが、ぎゅうっとひしめいている。美しいとも美味しそうとも形容できないその物体が何なのか、彼には全く見当がつかなかった。

「こ…れは…」

「今日はお稲荷さんにしてみました」

「オイナリ、サン…」

 "さん"が付くのは人物名ではないのか。日本語はわからないが、それくらいの知識は彼にもある。オイナリとは一体誰なのか。目の前のこの食べ物はどうしてそういった名称なのか。何もかもがわからなかった。バンジークスは勧められるままに、いつのまにか右手に箸を握っていた。「遠慮なさらずに」と言うつむぎの悪意の無い柔らかな微笑みが、有無を言わさぬ状況を作っている。箸に挟んで持ち上げればずっしりと重く、表面は水分を帯びてつやつやと輝いている。得体の知れぬものを口に入れる恐ろしさをどこかに感じながら、バンジークスはオイナリさんを食んだ。
 




式日