恐らく自分には、日本的な感覚を身体のどこか潜在的な部分で理解する、そんな素養が備わっているのだとバンジークスは思った。
 初めて訪れる国で、よく知らない女性の作った初めて口にする食べ物を、彼は心から美味だと感じた。運命的にすら思えた。成歩堂のように毎日でも食べたいと言うその気持ちがよく理解できたのだ。

 きつね色の謎の物体─オイナリさん。甘しょっぱい衣で、ほのかな酸味で味つけられた米が包まれている。またしても米を主体とした料理であるが、太巻きともまた違う味わいに今回も箸が進んだ。
 彼が二つ目の稲荷を口にするのを、つむぎは実ににこやかに眺めていた。顔立ちの美しい英国紳士の、箸使いも美しければ咀嚼する様子すら美しい。それだけでいくらでも眺めていられそうだったし、何よりも自分の料理がどうやら気に入ってもらえたらしいということが彼女は嬉しくて堪らなかった。そういえば、手料理を誰かに食べてもらったのは成歩堂以来のことだ、と思い出した。

「あの黒き弁護士が─」

 バンジークスは不意に、箸を置いてつむぎに視線を向ける。突然の言葉に、つむぎは彼の英国語がうまく聞き取れなかった。

「…黒い?」

「ミスター・ナルホドーが。貴女のフトマキで悪夢を見たと聞いたが」

 今度はナルホドー、フトマキ、という単語が聞き取れる。思いがけず飛び出した人名が今まさに思い浮かべていたその人だったのでつむぎは動揺したが、彼が突然何のことを言ったのかが今一つ理解できていなかった。
 つむぎは英国語が話せるが、高等女学校で習った基礎的なことを除けばほとんど独学で習得したものだった。店に外国人客が増えたこともあり、必要にかられて勉強したのだ。だから彼女の英国語の能力はせいぜい日常会話や接客上の会話に特化したもので、その枠からはみ出すと途端に使いものにならなかった。

「申し訳ありません。バンジークス様の英国語は私には少し難しく…」

 その様子で彼女の能力をある程度理解したバンジークスは、ふむ、と少し考えてからソファから立ち上がった。御琴羽のデスクからすぐ手が届くような位置に大きな本棚が配置されており、そこに納められた一冊の本に彼は手を伸ばした。何ということは無い、ここは英国との関わり深い御琴羽悠仁教授の研究室だ。数々の文献と一緒に、英和辞典が無い訳がなかった。
 バンジークスは辞典を引き素早く頁を捲ると、つむぎが聞き取れなかったと思われる単語を長い指先で指し示した。nightmare、と書かれている。

「nightmare…悪夢…?」

 初めて目にする英単語をつむぎはしかと頭に刻み、そしてすぐにバンジークスの紡いだ言葉を今一度辿ってみようと試みた。
 ナルホドー、フトマキ、ナイトメア─。

「あ…、あああ…!」

 彼女には当然、大いに思い当たる処があった。三つの単語が示すのは、あの出来事に他ならない。

「一真さんが…!あの人があの話をしたのですね!!」

 思わず日本語でそう声を挙げていたが、彼女の言ったことを概ね察したバンジークスは素直に頷いて肯定を示した。つむぎが成歩堂に連日太巻きを送りつけて悪夢を見せた、というその話に相違ない。

「まぁ、本当に嫌な人だわ!検事さまにそんな話を吹聴して!今度あったらただじゃおかない。あんまりだわ」

 つむぎは興奮のあまり赤く染まった頬を両手で隠すようにして抗議した。バンジークスは亜双義に聞いたその話を友人間での取るに足らぬ笑い話と認識していたので、まさか彼女を怒らせる地雷になってるとは思いもせず、その反応にたじろいだ。

「何も...そのように怒ることか」

「だって、"悪夢"なんてあんまりです」

 バンジークスの低い声に窘められているように感じて、つむぎは少しだけ気持ちを取り戻して、彼女の出来うる範囲で英国語で答え、弁明しようとした。

「私はそんなつもりじゃあ...」

 そんなつもりじゃなかった。成歩堂が手料理を気に入ってくれたことが只々嬉しくて、その笑顔を得られるのなら毎日でも作ってあげたいと、その一心だったのだ。それを亜双義が悪夢だなどと宣って茶化しているのは、許し難く思えた。

「そうとも。貴女に悪意は無かったのだろう。何事もやりすぎは宜しくないというだけのこと。貴女の手料理は美味であると...ミスター・ナルホドー同様、私もそう思う。それを言いたかったのだが。嫌なことを思い出させたのなら、詫びよう」

 彼は慎重に単語を選んだ。分かりやすいように、伝わるように、出来るだけ口をはっきりと動かして話した。つむぎは今度は、先程とは違った意味で顔を赤くした。難しげに眉間に皺を寄せたこの男が、こんな気遣いの言葉をかけてくれるとは思ってもみなかったからだ。感情を昂らせてしまった自分が恥ずかしかった。

「…私にはこれくらいしか取り柄が無いのです」

「充分立派な取り柄だと思われる」

 にこりともせず、極めて淡々とそんなことを言う。彼が慰めやおだて−所謂リップサービスでそう言っているのか、それとも真にそう思っているのかは定かでなかった。しかし亜双義や成歩堂らが信頼を寄せる検事が、そのような浮わついた白々しい嘘を吐くとも思えない。
 料理も勉学も、つむぎは何でもやってみたいという気持ちを確かに持っていた。けれど家族をはじめとする周囲の面々は理解を示さなかったのだ。こだまの女将を継ぐのだから、愛想と気遣いと機転が利けばよい。それ以外は無用の長物だから、ほどほどに嗜めばよいのだと。
そういう環境だったから、たとえ社交辞令でも自分をそうやって評価してもらえることは、彼女にとって非常に大きな衝撃があった。
 つむぎは泣きたくなるような気持ちに駆られ、それをぎゅっと抑え込んで微笑んだ。

「...勿体無いお言葉です」

 窓辺から入り込むそよ風に、ひとすじなびいた髪をそれは気品ある仕草で彼女はそっと直した。何度も深呼吸を繰り返して息を整える。暑くも無いのに、その額にはうっすらと汗がにじんでいた。
 つむぎは一見落ち着いたように見えたが、バンジークスには違和感に満ちて見えた。ちょっとしたきっかけで急に怒ったかと思えば神妙になるし、泣きそうな顔で笑ったりする。勿論ひとつひとつの感情表現に彼女なりの理由があるのだろうが、それにしてもあまりに不安定と言わざるを得ない。聞き分けのよいふりをして、何か対処すべき問題を閉じ込めているのではないかと思えた。



「先日から失礼な態度ばかりで申し訳ありません。…あ、先日と言えば。ひとつお聞きしたいことが」

 気を取り直したように、つむぎはそう切り出した。

「何か」

「ええ、お借りしたチーフの事ですけれど。とても良い香りがしたのは、何の香料でしょうか」

「ああ、あれは−。香り袋を、いたずら好きの知人が私のポケットやトランクに放り入れたのだ。花やハーブを乾燥させた物だろう。詳細は申し訳無いがわからぬ」

 知人と言うのは彼の姪にあたるアイリス・ワトソンのことだが、その人物についての言及は割愛した。バンジークスが渡航の準備をしている際に、どこからともなく現れた彼女が「良い香りを漂わせるのは英国紳士のたしなみなの!」とか言って勝手に入れていったものだ。決してバンジークス自身の趣味嗜好ではなかった。

「さようですか。あの香りでとても心が落ち着いて、涙がぴたりと止まったものですから気になっておりました」

「心理療法の効果だな。知人曰く...アロマセラピーとか言ったか...」

 リラックス効果云々と、ハーブに造詣の深いアイリスが確かそんなことを言っていた、とバンジークスはぼんやりと思い出した。それは本当にぼんやりとした記憶だった。何故なら彼には一切の興味の湧かない話だったので、右から左へと聞き流していたのだ。しかし今彼はそのことを後悔している。もう少し詳細にアイリスの話を聞いていればと。心理療法。それだ、今目の前の女性が必要としているのは。現にアロマセラピーによる一定の効果がすでに得られたというのだから。
 バンジークスが何気なく呟いた心理療法、という専門的な単語はまたつむぎには解らなかった。小首を傾げる彼女をよそに、バンジークスは何かを思い付いたように、再びひらりと席を立って本棚に向かった。まったく、今日この場にて彼らが顔を合わせたことは大変に都合が良かった。心理の分野は御琴羽の専門外とは言え、医学知識の為にその手の文献も多少は揃えられていることを、昨日も此処に来ていたバンジークスは知っていたのだ。
 英国語で書かれている、辞書よりも分厚いその一冊をぶつぶつと呟きながら彼は熱心に捲った。長い指が文字列をなぞり、そしてある項目でぴたりと止まった。

「ふむ...此処に、貴女に必要なことが書かれているな」

 




式日