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"精神的健康の回復に向けた心理療法によるアプローチ。
其の一、自らの悩みの本質を知る。具体的手法として、悩みを有り体に人に話すこと。あるいは文字に書き起こすこと。その際に注意すべき点−"
「ちょっ、と…!ま。待ってください、バンジークス様」
開いた頁に書かれた文字列を、バンジークスはつらつらと読み上げ出す。しかしあまりの唐突さにつむぎの思考はこれっぽっちも追い付いていなかった。単語の難しさもそうだし、彼が急に何を思い立ったのかも見当がつかない。
「急に何を…」
「…要するに、」
言いたいことは、つむぎは何か精神的に大きな負担を抱えている為に情緒不安定と思われるが、医学的見地から心理療法というものが彼女にとっては有用なのではと思い、それに則した文献を読んでみることで悩み解消の足掛かりになり、即ち精神の安定に繋がるのではないか。とバンジークスは考えたのである。しかしそう言ったところで、彼女には一切伝わらないことは分かりきっていた。あまり小難しくなく、端的に言ってみたほうがよいだろうと思った。
「要するに。貴女はちょっと頭がおかしい」
「……はい!?」
言葉を発してすぐにバンジークスは後悔した。これではただの悪口ではないか。まったく違った意味合いで伝わってしまうに決まっているではないか。現に、思わぬ言葉を投げ付けられた彼女は目をぱちくりとさせている。英国語での会話だと言うのに、簡単な言葉で伝えるというのがこんなにも難しいことなのかと彼は頭を抱えてしまった。
「失礼した。只今の暴言お許し頂きたい。…つまり。貴女は少し落ち着きがないようなので、この本に書いてあるようなことを試しては如何だろうか、と」
今度は、つむぎにもバンジークスの言っていることが概ねわかった。同時に、自分の様子をこの英国紳士が非常に気にかけてくれていることを知る。確かに彼女の精神は尋常と言いがたい状況であることは本人が一番よく解っている。けれど、そのことを鋭く見抜いて指摘する人はこれまでに居なかったのだ。ましてや解決に向けた対処など、彼女自身も考えてもみなかった。彼の手にしている医学書らしき分厚い文献。そこになにかしらの"治療"のきっかけがあるというのか。しかしそうだとしても、とてもつむぎが易々と読み解けるような書物ではなかった。バンジークスも当然そんなことは承知で、文献を要約しながら読み上げると平行して、英和辞典もその都度捲って見せた。
「こう書いてある−。抱えている問題を、まず自分が理解すること。思っていることを人に話したり、紙に書き起こしてみるとよい。注意点。きれいにまとめようとせず、思い付くままに有り体に言葉にする。話を聞いてもらうのは、当事者や身近すぎる相手は適切でない。また、相手にアドバイスを求めない」
もとの英文はさらに長たらしく書かれているように見えたが、大分噛み砕いてそういった内容らしい。
精神医学は、大日本帝国ではまだ研究の進んでいない分野である。個人的な「悩み事」を医学的な「治療」でどうこうするというのが、つむぎには上手く受け止めることができなかった。
「そのようなことで問題がどうにかなるでしょうか」
「少なくとも…。人目を憚りゴミの隣で泣き暮れるより、幾分意味があるかと」
言い放たれた言葉がぐさりと刺さる。確かに、彼が言うことは尤もである。行動をするかしないかで言えば明らかに前者の方が意味を成すだろう。
しかし、悩み事を誰かに話すとしてその相手は?とつむぎは思い悩んだ。先程注意点として、当事者や身近な相手では駄目だと言っていた。なんとも難しい注文である。道行く他人にでもいきなり打ち明け話をしろとでもいうのか。それこそどう考えても"ちょっと頭がおかしい"人だ。
「そんな相手なんて…」
「話してみよ」
「…え?」
「今ここで話せばよい。私は第三者だ」
「バンジークス様にでございますか?でも…」
言葉の壁がまた鬱蒼と立ちはだからんとするのを感じ、彼女は躊躇う。しかしその躊躇いすらも先回りしていたようにバンジークスは鮮やかに翻した。
「よいか。正確にまとめて話す必要もなく、アドバイスを求めるなとも書いてある。つまりこの手法で重要なのは、相手に伝えることではない。自分の言葉で話すこと。それだけだ−」
「じぶんの、ことば…」
「さよう。貴女の言語は日本語であろう。それで話せばよい」
突飛な思い付きはしかし、合理的で画期的だった。
つむぎは日本語で話し、バンジークスがそれを聞く。勿論彼に日本語は通じない。ただ彼女の内にあるものを引っ張り出すだけが目的であって、言葉を理解する必要は無いのだからそれで充分なのだ。
つむぎは何かからかわれているのではないかという気もして、目の前の検事とじいっと視線を合わせた。しかし、彼の碧い目はそれを逸らすことなく真正面から受け止めるだけだった。年若い女に睨まれたとて恐ろしくも後ろめたくも無いのだから。
半信半疑に陥りつつも彼女は恐る恐る口を開いた。実際、自らの想いを言葉にするのは何故だかやけに恐ろしくて指先が小さく震えた。
「あの、私―。お、お店を。継ぎたくありません」
掠れる声を絞り出す。にわかに息が詰まりそうになるのと、動悸。額に汗が滲んだ。けれどもバンジークスは眉ひとつ動かさずに涼しげに、いつの間に用意したのか片手に葡萄酒のグラスを揺らしていた。ぐるんぐるんと揺らされた液体は小さな渦を作り、やがて凪を迎え、彼の唇に運ばれる。ほんの一口。飲み下したのかどうかもわからないくらいの喉の動き。その一連の動作は、つむぎの目にはまるである種の儀式のように神聖なものに見えた。
続きを促すように、彼は少しだけ首を傾けた。
つむぎは高等女学校を中途退学していた。成績も素行も悪くないし、経済的に問題があったわけでもない。ひとえに家庭の都合であった。
彼女には十ほど歳の離れた兄がいて、当然その兄が料亭こだまの跡取りとなるはずだったが、つむぎが十六のときに病に伏して帰らぬ人となっていた。あまりに突然のことだったので、こだまの跡取り問題はまさに降って湧いたような状況で彼女に降りかかってきたのだった。親にしてみれば、もう一人の子供であるつむぎに後継が変わったというだけのことかも知れない。しかしそれは彼女の希望や感情をまったく無視した大人の都合で、心の準備をする暇すら与えられず、女将になるための下積み修行をすぐにでも始めよという理由で退学することになってしまったのだ。
文学も科学も世界のことも、人並み以上に興味があった。
将来は何か専門的な職について、先進的な女性として男性らと肩を並べて仕事するのもよいと思っていたし、彼女にはそうなれる自信もあった。
―其れから、いつか。いつか素敵な殿方と出逢って、ささやかな幸せを得られればいいと。
その点については人並みの、手を伸ばせばすぐそこにありそうな、ごく平凡な幸せを願ったつもりだった。
しかしそれらの願いは、どれもこれも届かなくなっていたのだ。
勉学を奪われ、女将になることを強要され、ついでのように気の進まない縁談がいくつも舞い込んだ。
いやだ、と声を挙げたい。
けれど優しかった兄の顔もちらつく。店を守っていきたいと心から望んでいた兄−。その遺志を継ぐべきなのだという気持ちもある。それが彼女を苦しめていた。
諦め、受け入れればそれで済むこと。
苦しみはきっと時間が解決するだろうと、そのままにして数年が経過してしまっていた。
「あれから苦しみはちっとも消えないのです」
家業への不満を、途切れ途切れになりながらもひとしきり吐き出すと、つむぎはそう結論付けるように結んだ。そこまでどれくらいの時間を要していたのか彼女自身定かに分かっていなかったが、バンジークスが空になりかけたグラスに自らの手で葡萄酒を注ぎ直すのを見て、何だか随分長いこと言葉を紡いでいたような気がした。
ぐるん、とまた大きくグラスが揺らされる。自分の心もあの葡萄酒のように、大渦のあとにまた凪を迎えるのだろうか、とつむぎは思った。
少しの沈黙に、これまでか、と思ったバンジークスはグラスを置こうとした。−が、同じ瞬間に「でも、」と彼女は再び口を開いた。
「でも、―あの方に出逢った。
明るく、快活で、すなおで。私のようにひねくれた処のない、人としてとても美しいあの方−」
只唯一、彼女の心をほんの一時癒してくれたその人。彼となら、側に居させてもらえるなら、つむぎは思い描いたささやかな夢を取り戻せるかもしれないと思った。
今はもう叶わないと悟ってはいたけれど、彼を思うとやっぱり胸が苦しいのはきっと、諦めきれていないからなのだ。
一番最初の言葉を発するのと同じくらい、一番最後のその言葉を口にするのは大きな勇気のいることだった。
つむぎはもう一度改めて目の前に座っているバンジークスをしっかりと見据え、大丈夫、と自分に言い聞かせた。大丈夫、この英国人の検事は自分のことをよく知りはしないし、ましてや日本語もわからないのだからと。
「私は、龍ノ介さんを…お慕いしています」
初めて、人に向かって吐露する感情。
諦めようとしている恋の重さを、彼女自身、自分がいつの間にか流している涙で知った。
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