聞いて頂いてありがとうございましたとつむぎはバンジークスに深々と礼をした。
 退室しようとした扉のところでちょうど戻って来たらしい御琴羽に会い、お邪魔致しました、とここでもやはり丁寧な礼をして彼女は去って行った。



「随分と長いこと席を外しておられた」

「お待たせして申し訳無い、バンジークス卿。つむぎ嬢は貴方に借り物を返せたようですね」

 テーブルに置かれたままの黒いチーフを目に止めて、御琴羽は安心したように笑った。彼は先程すれ違い様につむぎの涙を含んだ目を見ているはずなのに、その事については触れようとせず、飄々として自分のための紅茶を注いでいる。

「…聞いていたのだろう、ドクター・ミコトバ」

 彼が客人を二人も長々と放っておくような無礼な人物でないことはわかっていたし、つむぎとの話の途中からなんとなく扉の外に気配を感じてもいたのだ。バンジークスはそれが御琴羽であると確信していた。

「失礼。しかし大事なお話をされていたようなので、割って入るのは遠慮しました」

「すべて聞いておられたか?」

「まあ、概ね」

 概ね、というのは何処の部分からなのか。明言せず言葉を濁す日本人の悪い癖に彼は溜め息を吐いた。そして彼女とのやりとりを頭の中で振り返ってみる。彼女の表情豊かなのは決して感情表現が豊かな訳ではなくて、情緒不安定の為だと直感的に思った。よかれと思って心理療法を勧めてみたが、付け焼き刃のような知識で果たしてそれは正しかったのだろうかという気持ちが湧いたのだ。彼女は、最後の言葉と同時にぽろぽろと涙を流していた−。日本語の意味は解らない。しかし、リューノスケという名前だけはしかと聞き取ることが出来た。

「私は…医者でもないのに過ぎたことをしただろうか。ドクターとしての貴公の見解を聞きたい」

「…困りましたね。私も精神医学は専門外です。しかし...、あの方は随分沢山の悩み事に苦しんでいるようですが、私は、彼女の様子を見ただけではそれほどとは気付かなかった。きっと、彼女の周りの人々すら誰も気付かぬのでしょう。気付いたって、手を差し伸べられる人ばかりでない。
 けれどバンジークス卿。貴方は気付き、手を差し伸べた。それは何か運命的で、とても意味のあることなのではないでしょうか」

 手を差し伸べた。御琴羽はそう言うが、バンジークス自身にはそんなつもりはなかった。助けるとか解決するとかそういう意図は全く無く、ただ目の前の問題に対して何も行動しないのは愚かだと思う。しかしその結果がどう転ぶのかまで責任を負えない−その事に気付くと、自分は随分無責任な事をしたのではないかとにわかに不安になったのだ。
 返されたチーフを手に取った。
 良い香りがして涙が止まった、とつむぎが言っていた。アイリスがいたずらで香り袋をポケットに入れたことなどさして気にも留めていなかったし、それが心を癒すような香りだったのかどうかもバンジークスにはよく解らなかった。
 鼻先に近づけてみる。洗濯されたからだろう、そこにはもうハーブの香りは残っていない。代わりに、どこか懐かしいような香りがふんわりと鼻腔に広がる。
 恐らくは、つむぎのおしろいの香りだった。

「彼女の言っていた事を、英語に訳しましょうか?」

 静かに浮かべた笑顔のまま御琴羽が言い、バンジークスはすぐさま首を横に振ってその申し出を断った。
 つむぎはバンジークスが言葉の解らない英国人だからこそああして吐き出すことが出来たのであって、それをこっそりと他者から聞き出すなどというのは礼節に反していると彼は思った。
 バンジークスが断ることを既に予見していたらしい御琴羽は、それ以上それについての会話を発展させることはせず、彼女の置いていった稲荷をひとつつまんで「日本茶を淹れれば良かった」と苦笑いした。








 剣術の鍛練から始まる亜双義一真の朝は早い。
 その朝は殊更、鍛練を終えて朝食を済ませてもまだ幾分時間が余っている程だった。暇な時間をのんびり過ごすということが出来ない性分の彼であるから、そんなときには大抵読書などをすることにしていたが、その日はなんとなく外へ出てみることにした。帰国をして僅か数日。久々の帝都の様子を、散歩をしながらゆっくり見て回ってみようという気持ちになったのだ。
いずれにしてもバンジークスが宿泊している洋館ホテルへ迎えに出向かなければならなかったので、散歩がてら向かってゆけば丁度良さそうだ。
 亜双義の自宅から大通りへ出るまでのさほど遠くない道のりの途中に、料亭こだまがある。だいたい何処へ出掛けるにもそこを通る必要があり、つむぎと顔を合わせることも珍しくは無かった。
 こだまの前で亜双義は、竹箒で往来を掃いている少年に会った。住み込みでこだまの小間使いとして働いている、いわゆる丁稚奉公と言われる者だ。少年の名をイツキといい、つむぎやこだまの従業員の面々からはいっちゃんと呼ばれて可愛がられていた。

「早くから精が出るな」

「一真様。おはようございます!」

「お早う。つむぎさんは?」

「姐さんは…そういえば今朝は見ていません。いつも誰より早いのに。まだ寝ていらっしゃるのかなぁ」

「ふうん?まあいい、ご機嫌伺いがてら起こしてやろう」

「姐さん怒りますよ」

「慣れてるさ、構うものか」

 亜双義はそう言って笑い飛ばした。イツキもつむぎに怒られると一応は忠告したものの、実のところ彼を止めようというつもりはなかった。つむぎの幼なじみである亜双義は出入りの自由を許されていたし、彼女との姉弟喧嘩じみた応酬は確かに見慣れたものだ。イツキ自身も弟のように彼女に接してもらっていることもあり、そこに何の違和感も抱いていなかった。
 こだま自慢の庭園を通り抜けていく。亜双義にとっては久々の風景だが、いつもながらに整えられた庭である。夜は灯籠の灯りで妖しさがある反面、朝の光に照らされている時は非常に爽やかで、朝露を乗せた季節の花が美しかった。朝の散歩に申し分ないと亜双義は思った。
 庭園を抜けて同じ敷地内に糸賀家の住居がある。まるで自分の家のように玄関から堂々と上がり込んだ亜双義は、迷い無く二階の端に位置するつむぎの部屋を目指した。
 引き戸をこつんこつんと叩いた。前述の通りここまで来るのに抵抗感は全く無いのだが、流石に女性の部屋を訪ねるのにそれくらいの配慮はする。姉のようだけれど姉ではない、そんな微妙な関係の彼女のために。

「つむぎさん。起きているか」

「一真…さん?」

 戸の向こうからすぐに声が返ってきたから目は覚めていたのだろうが、何となく覇気が無いようだった。嫌な感じがして、「入りますよ」と言うのとほぼ同時、許可の返答を得ないまま戸を引いた。
 部屋にはもうすっかり朝陽が射し込んでいるというのに、部屋の主は未だ布団からやっと半分身体を起こしたような状態である。ぼんやりとした目線を亜双義へと向ける。

「珍しいじゃないか、貴女がそんな風にー」

 そんな風に寝惚けているなんて、と言おうとして、彼女から一瞬視線を外した亜双義は部屋の様子がいつもと違うことに漸く気付いた。文机も畳の上も、これでもかと本や筆記帳が散らばっていた。彼女の部屋はいつ訪れても割と整頓されていたから、彼は初めて見るそんな様子に些か驚いた。

「どうしたのです、これは…」

 強盗が押し入ったという訳でも無さそうだし、きっと彼女自身がこの状況を作ったのだろうと思う。寝惚けたような虚ろな表情も、何か関係しているに違いない。亜双義は心配に駆られ、畳に膝をついて間近からつむぎの顔を覗きこんだ。どうも具合が悪いらしいと気付いた彼は、すかさず彼女の額に触れた。

「熱がある」

「そう、みたい」

「何を他人事みたいに。腹を出して寝ていた訳でもないでしょうに、一体どうされたのか。この散らかりっぷりといい…」

「…きっと知恵熱ね」

 ますます他人事のようにそう呟いたつむぎは、ふっと吐息で笑ってみせた。

「知恵熱?」

「そう。久々に勉強なんてしたせいだわ」

 勉強―。言われて改めて散乱しているものたちを見ると、それらは英国語の教科書や辞書をはじめとする本の数々だった。彼女が高等女学校で使っていたものもあれば、亜双義が譲ったものもある。
 しかし一体今更どうして勉強などしているというのか。熱を出すほどとなると、ちょっと尋常ではない。にわかに途方もない心配が亜双義を襲った。単なる気まぐれからくる行動ならよいのだが、以前から彼女が人知れず精神を病んでいることを、彼はよく知っていた。自分が望むように生きて行けないことに、酷く心に傷を負っていることを。






式日