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古びたロシアンレストランにはロシア民謡のBGMが響いていた。
大きなグランドピアノが置いてあるのに、今日はピアニストが居ないのだろうか、生演奏ではないのが少し残念だ。
以前から来たいと思っていた、雰囲気のあるレストラン。内装も凝っていたし料理も予想通りに美味しかった。
ピアノだけは残念だけど、それ以外はデートにぴったり。

の、はずだったのに。
一緒に来ていた彼との会話が妙に弾まないなと思っていた矢先、歩むべきお互いの道が違うとか、もともとの趣味性格が違いすぎたんだとか、なんだか抽象的でそれっぽい言葉を並べ立て。

「…だから、別れた方がイイ、と思うんだ」

どうしてだろう。
煮えるような熱いボルシチを目の前に、彼はどうしてこんなことを。
このディナーは私の大学卒業祝いのはずだった。
別れ話をするためなんかじゃ、ない、決して。
いつも強気だった彼に似合わず、それはそれはバツが悪そうに目線を泳がせ、決して私を見ようとはしなかった。
そのそぶりは、なんとなく、しばらく前からあったけれど。
そうか。まさかお別れのサインだったとは。
じゃあそういうことだから、とか有耶無耶に彼はつぶやいて席を立った。
私には異議の言葉も無かった。
唖然としていたというわけではない。
もしかしたら私は彼のよそよそしいサインに、内心では気付いていたのかも知れない。
この日が来ることを、どこかで予兆していたのかも知れない。
ただ、彼が去っていった数十秒後にぽたりぽたりと言い訳するように涙がこぼれた。

好きだった。
すごく大切だった。
趣味や価値観が違うのはよくわかっていたけど、だからこそ惹かれていたのに。

ああ、悔しいけど。涙味のボルシチなんて食べれるもんですか。
この店はそんなに安くはないのに勿体ない、なんて場違いな懸念が浮かぶ。
ぐちゃぐちゃと混乱する思考回路をよそに、今起きた出来事を言葉にしてしまえばいたってシンプルだった。
私は付き合っていた男に振られたのだ。



もう春だというのにロシアの雰囲気をこれでもかと追求した店内はとても寒く、あっという間にボルシチは冷めた。
一口も手を付けられることなく、美味しい頃合いをあっさりと失ってしまっていた。
こんな寒いところに一人きりでいつまでも座っていてもしょうがない。
そう思った時だった。

―カタン、

隣のテーブルでひとりで食事を摂っていた人物が、緩慢な動きで椅子をひいた。
おそらく私たちの話は丸聞こえだっただろう。
ちらりと目が合った瞬間、気まずさを浮かべた苦笑いでその人物は肩をすくめた。
パーカーを来て、青いニットキャップを目深にかぶった男。
店内のグランドピアノに男は指を乗せる。
そしてまた、ちらりと私を見た。

「一曲、キミに」

男は店員に何かしぐさで合図を送って、BGMを止める用に指示したようだ。
BGMがぴたりと止むと、ゆっくりとピアノが響いた。
それはとてつもなくつたない演奏だった。
かろうじてメロディーとして成り立っているような状態。他の食事客たちは顔をしかめるか、ほとんど聴いていない。
それなのに、どうしようもない程にその音は優しく響いていて。
だって、このメロディーは。
この曲は。

「下手でごめんね」

彼は眉を下げて心底すまなそうにそう言った。

「それ、私の好きな曲です」

いつか見た映画の、そう、別れのシーンのBGM。
お別れなのに、悲しいのに、なぜかキラキラ輝いているみたいに見えたあのシーンが私の脳裏をよぎる。
同情なのかも知れない。
激励なのかも知れない。
はたまた単なる気まぐれなのかも知れない。
でも、別にどれでも良かった。
見ず知らずのこの男性からの、精一杯の気遣いなのだ。

「そうかい。じゃあ次までにもう少し練習しておくよ。また店に来てくれるのなら」

「…どうせなら別れの曲じゃない曲でお願いしますね」

「あ、そっか」

はっはっはっは、とピアノマンは馬鹿みたいに明るく笑った。
春風の笑顔。
その人は私にとっての新しい風だった。









引っ越す場所は、あのピアノマンに出会ったボルハチのある街に決めた。
苦い失恋の思い出の街になってしまったけど、時々ボルハチに出向いて、あの人物のピアノの上達ぶりを確認してやるのも悪くないと思った。
幸い、この春から私が働く職場にもほど近い。

「…あれ。道一本間違えたかな」

不動産屋にもらった地図をタテにヨコにしてみるが、目印にしていた法律事務所が見当たらない。
間取りと立地だけで決めてしまったけど、やっぱりきちんと下見に来れば良かった。
まずい、早く着かないと引越し屋さんが先に着いてしまうかも知れない。

「すみません、ちょっと道教えてもらえますか?」

こうなったら恥も外聞も無い!と私は通りすがった小学生とおぼしき少女に声を掛けた。
(小学生でも道くらいはわかるでしょ!)

「はい?」

栗色の髪を後ろで一つに束ねた愛らしい少女は、にっこりと微笑みながら私を覗き込んだ。

「この地図のココに行きたいんだけど……わかるかな?」

「あっ、ハイ。このアパートだったらうちの事務所の真裏ですよ!」

「事務所、って」

「あ、やだなーお姉さん、この地図古いですよ」

ほらココ、と少女は地図の一点を指し示す。

「ココ、今は法律事務所じゃないんですよ。今はゲーノー事務所なんです。成歩堂芸能事務所!」

ちなみに目の前のこの建物ですけど。と少女は付け加える。
道で迷ったわけじゃない、地図に問題があったのだ。どうりで目印が見つからないわけだ。
私は改めて目の前の建物を見上げた。
確かに少女の言った通り、「成歩堂芸能事務所」という目立たない看板が出ている。
私の新たな住まいはここの真裏、ということらしい。

「どうもありがとう」

「どういたしまして!」

それではさようなら!と丁寧かつ快活に挨拶をして、少女は成歩堂芸能事務所の中に姿を消した。
そういえば先ほど少女はこの芸能事務所のことを「うちの事務所」という風に言わなかっただろうか。
ふむ、と私は妙に納得した。
どうりでキラキラとした笑顔をふりまく、可愛らしい女の子だ。子役タレントか、はたまたモデルか。
口調もはきはきとして、年頃の割に受け答えが明朗だった。
親か芸能事務所のスタッフが、きちんと躾けているのだろう。







パパ、ただいま!

おかえり、みぬき。

みぬきね、今人助けしちゃった。

ふうん?

迷子のお姉さん。裏のアパートに越して来たみたい。

こんな変哲も無いところで迷子?よっぽど…マヌケだねぇ。

うん、マヌケだね。

はっはっはっは。









春風に乗って。
春風みたいな心地良い笑い声が、聞こえてきた気がした。
この街で新しい生活が始まろうとしている。




別れの曲ではない曲を、あの人は練習してくれているだろうか。





晴天の式日


式日