02



数日かけて荷解きを終えて、ようやく自分の部屋がそれっぽくなった。
ああ、しかしそれにしても……。

「ツカレタ」

自分以外に誰もいないけれど、とりあえず今の一番の気持ちを声に出してみる。
そして言葉に数秒遅れて襲ってくる空腹感。
何か食べなきゃと思っても、実家を出るときに持ってきた食糧はすでに切らしていた。
ごく簡単に化粧をして、財布を掴んで外に出た。




何食べようかな、と考えたところで、まだこの辺りに何があるのかいまいち把握していない。
唯一確実にわかっているのはあのボルハチだったが、敷居が高い店ではないが、決して安くもない。
この新生活に向けて何かと物入りで、金欠だ。あの店は無理だ。
さあどうしたものか。

「また迷子ですか?」

「いやいや今度は食糧難という名の人生の迷子……わっ!」

「えへへー。またお会いしましたね」

目をくりっとさせて私を覗き込んだ少女は、先日の礼儀正しくかつ快活なあの娘だった。

「こ、こんにちは。この前はありがとう」

「いえいえご近所さんですから!」

ご近所さん。
そう、この娘はなるほどーげいのー事務所を「うちの事務所」と言っていたのを覚えてる。
なるほどーげいのー事務所。聞いたことは、無い。きっと小さな個人事務所なのかもしれない。

「あなた、げいのうじん、なの?」

あの日から湧き上がっていた疑問をぶつけてみる。
おそらく聞くまでもないとは思う。顔はカワイイし、その、なんていうか今日はとんでもないコスチュームを身にまとっている。
いわゆる「魔女っ娘」と呼ばれるような、そんな格好だ。
よくわからない世界だがこれもひとつの萌えなのかも知れない。
アイドルだって清純やらクール系やら色々だから、魔女っ娘も当然需要はあるのだろう。

「はいっ、実はそうなんです!お姉さんも是非みぬきのステージ観に来てくださいね」

「えっと、機会があれば…是非…」

ステージ。
そうか、あれか。あれなんだろう。
テレビで多少見聞きしたことはある。観客の男性たちが一糸乱れず踊り狂うという、巷で話題の。
じゃあこれどうぞ、と言って少女は紙切れを差し出した。
片面に『ビビルバー』というお店の住所と、もう片面には『成歩堂みぬき』という名前の記載がある。

「なる…」

「なるほどう、です」

「なるほどうみぬき、ちゃん」

いつか有名になるかもしれない。覚えておこう。
こんな少女が名刺を持っているというのに、恥ずかしながらもう社会人になろうというこの私はそんなご立派なものは持っていない。

「えっと私、春原みのり」

「みのりさんですね。迷子で食糧難の」

「そのステータスをまるで職業みたいに言われるとツライものがあるんだけど。決して間違ってないのがまた悲しいし」

「みぬきも今からご飯に行くところなんですよ。パパの働いてるお店で食べさせてもらえるので。一緒に行きますか?ボルハチっていうお店です」

ボルハチ。
その間抜けなダジャレの店名が呪文になって、私は思わず首を縦に振っていた。







彼女のパパはロシア人でもなければコックさんでもウェイターさんでもなかった。
親子にしては不自然な歳の頃合いの人物を、みぬきちゃんはためらいなくパパと呼んだ。
私はその人を知っている。
あの日と同じ、青いニットキャップが印象的だ。

「はじめまして。みぬきの新しいお友達?」

はじめまして、の言葉に多少のショックはあった。
私にとって彼はあれだけ印象的だったけど、そりゃあ、彼にとっては私は客のひとりに過ぎないだろう。そんなものだ。別にいい。
どっちにしろ、恥ずかしい失恋のシーンは忘れて欲しかった。

「みのりさんだよ。ほら、裏に引っ越してきた」

「ああ、みぬきが道を教えてあげたっていう、迷子のお姉さんかい」

「みぬきちゃんにはお世話になりました」

私がぺこりと頭を下げると、成歩堂さんはじいっと私の目を覗き込んで、それからやわらかく笑った。
彼の目に覗き込まれていたその一瞬だけ、私はびくりと動けなくなった。
不思議な感覚。
やさしい、するどい、あつくて、つめたい、不思議な視線。
寒い店内にいるのに、ぶわっと汗が噴き出してきそうだったのだ。

「みのりちゃん、だっけ」

「ハイ」

「お近づきの印に一曲」

そう言ってあの日のように鍵盤に指を置く。







とおん、と一つ目の音が私の鼓膜を揺らした。







やっぱりいつかと同じつたない演奏。
でも曲目はあの日と違っていた。

「みのりさんすみませんね、パパ、ピアノ下手で」

みぬきちゃん。
上手いとか下手とかそんなこと問題じゃない。問題じゃないよ。
私にとって、それはちゃんと特別な意味がある。
彼の弾いた曲は、あの日とは真逆の、出会いの曲だった。

「ひどいなみぬき。これでも随分練習したんだ」




いつかの約束だったね、と、成歩堂さんは言った。













いよいよ3日後から、私は教師として小学校の教壇に立つ。
資料や名簿など、必要となる様々なファイルを学年主任から受け取る。
6年1組。それが私の受け持つクラス。
新人にいきなり最上級生を任せるのはいかがなものかと思うが、やるしかない。頑張ろう。

「あーそれと春原くん、これもね」

と学年主任は私のデスクにファイルを一冊追加した。他のファイルと違って、何のラベリングもされていない。

「何ですか?コレ」

「……教育の現場も色々ね、大変だから」

「はあ」

「いわゆる、生徒のブラックリスト、だよ」

ブラックリスト…こんなものがあるんだ。
あまり開きたくないファイルではあるが、目を通さないわけにはいかないだろう。私はそのリストから自分のクラスのページを捲った。
暴力を振るう子。
不登校ぎみの子。
クレーマーの親。
数人の生徒たちのデータが並ぶ中、私の目はある生徒のところでピタリと止まった。
こんな珍しい名前の人物が、この世にふたりといたらそれは奇跡だ。




【成歩堂 みぬき】

給食費未払いが頻繁。
一緒に暮らしている養父に働かされているとの噂あり。




「なるほどう、みぬき」

「ん?あー、成歩堂は…悪い子ではないんだがね。家庭のジジョウ、親のツゴウがね」

「……ぷっ」

家庭のジジョウ、親のツゴウ、とあまりに深刻そうに言う学年主任の言葉に、思わず噴出してしまった。
あの晩出会ったあの親子。
彼らのじゃれ合う姿と、その深刻げなジジョウとやらがあまりにミスマッチで、なんだか笑えたのだ。



成歩堂みぬきちゃんとそのお父さん。
にどめまして。
いいえ、さんどめまして。




晴天の式日


式日