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 オレが弁護士になった理由に、インテリが格好いいとか金持ちになりたいとか有名になりたいとかそれらを総じて女の子にモテるためとか、そうした浮わついたものはただ一つとして無かった、ということをまず言っておきたい。
 それは断言できる。
 浮わついた心など何もなく、少年期からのこの上なく純真無垢な夢であり、その為に机にかじりついて幾つもの甘く怠惰な誘いを振り払ってきた十代後半から二十代のはじめ。
 学生時代というごく限られたキラキラとしたモラトリアム。
 その中にあって、他の者たちと同じ様に夜毎遊び回らないのは愚かだとさえ言われた。
 けれどもオレは頑なに勉強以外の空いた時間はバイトで埋めつくして、友人たちが楽しげに語るコンパもサークル活動も断ってきた。
 コンパで仲良くなったんだ、と友人が携帯画面をちらりと見せてきたことがある。文字列に不規則にちりばめられるハートマーク。しかもゆらゆら動くやつ。
 へえ、やるね。と笑って言うと、この子のトモダチ紹介しようか、と。
 オレはまた笑って、それからノートやテキストと一緒に机に積んでいたポケット六法を手にとって顔の横でひらひらさせて見せた。
 友人は、オマエって本ッ当に...、と肩を竦めて苦笑い。
 そう。その頃は、そのポケット六法こそが恋人と言っても過言でなかった。
 毎晩毎晩ひとつの布団で身を寄せあった仲でもあるわけで。
 美しい学生時代を楽しくすごした友人たちに羨ましさは多少あれど、後悔は無い。
 一日だって早く弁護士になりたかった。




 そんなオレだからこそ、きっと許されるだろう。


 職場へ行けば、好きな人に会える。なんて。


 浮わつきまくっている今日この頃。






 職場はビルの五階にある法律事務所。エレベーターは使わずに階段で昇ることにしている。
 そのほうがドキドキするから。
 一段一段、この脚で彼女の待つ場所へ近付いていく。その感覚がたまらなく甘酸っぱいから。
 法律事務所の名が刻まれた重厚で厳めしいドアを、勢いよく開ける。
 五階まで駆け昇ってきて乱れた息と、上下する肩を整えるほんの少しの間に、彼女が振り向いた。

「やあ、おはよう、王泥喜法介弁護士」

 ああ、しまった。
 先に挨拶されてしまった。

「おはよう、ござい、ます...!みつば、さん、」

 息切れしてるじゃない、と小馬鹿にする、でも親しみのこめられたやわらかな声。歯を見せて笑う。
 息切れしているのは。
 鼓動が速いのは。
 額に汗をかいているのは。
 階段を駆け昇っただけが理由ではないのだと、この人は知らない。


 オレの好きな人。
 青井みつばさん。
 職場の先輩。
 ちょっとだけ年上。



 背負っていたバッグからタオルを出して額や首の後ろの汗をがしがしと拭う。
 それを見ていたみつばさんが、ふ、と吐息で笑うのが聞こえた。

「まぁ、お水でも飲みなさい王泥喜法介弁護士」

 言いながら彼女は手にしていたフローリングワイパーを壁に立て掛け(朝一の事務所の清掃は彼女の日課で、手伝いますと言っても好きでやっているからいいの、とやんわりと断られる)、手を軽く洗ってから、ウォーターサーバーの水を注いでくれた。

「その、王泥喜法介弁護士っていうのヤメてください」

「どうして?」

「まだ一回も弁護の依頼を請け負ってませんし...弁護士と言われるのは...」

 受け取ったグラスの水を一気に飲み干す。

 事実。まだ働き始めて間もないオレは、事務所の雑務をこなしたり、牙琉先生やみつばさんの立つ法廷を見て勉強するばかりの日々だ。
 そういえば、そうだ。あれだけ学生時代を勉強に費やしてきたのに、ここへきて尚、学ぶことは尽きなかった。

「何を言ってるの。これはハリボテ?」

 みつばさんは、人差し指でオレの胸元に光るバッジをつんとつついた。

「きみは、正真正銘の弁護士、だよ」

 そうでしょう?と言われ、どくん、と心臓が跳ねる。
 彼女は首を軽くかしげ、覗きこむように形のよい瞳を数回瞬く。
 媚びない猫のような、その何気ない仕草の扇情的なこと。
 つつかれた胸元から熱が広がり、また汗が吹き出す。
 彼女のそういうところが好きなのか、好きになったから些細な仕草まで気になってしまうのか、オレにはもはや説明出来ない。
 そもそも卵が先か鶏が先かといった論争に関してはいつだって答えは決まりきっている。
 そんなことどうでもいい。それが答えだ。


 彼女に触れられたとても幸運な我が分身である弁護士バッジを見遣る。
 ぴかぴか。
 まだ、ぴっかぴか。
 誰でも最初はそうなのだと頭では理解しつつも、少し焦れったい。
 自分も早く法廷に...傍聴席なんかじゃなくて、ちゃんとした弁護人席に立ちたいという気持ちばかりが馳せていた。


 みつばさんは牙琉法律事務所に所属する弁護士で、基本的に民事を担当している。刑事事件は軽微なものをときどき扱う程度だ。
 民事は刑事事件の裁判に比べて軽いもの、簡単なものと思われがちだが、(恥ずかしながらオレも彼女の法廷を見るまではそう考えていたフシがある)それは間違っている。
 牙琉先生が、勉強になるから民事裁判も見ておきなさいと言う意味がよくわかった。
 殺人事件みたいに、「犯人はこいつ」「罪状はコレ」という風なハッキリとした白黒がつかない場合が非常に多く、依頼人の意志を最大限に反映する判決を得るのはかなり難しいことなのだ。
 白黒つかないことに納得が出来ずにわだかまりを残してしまうケースは珍しくない、というか、大半がそうである。
 でも彼女はそうじゃない。
 みつばさんの法廷は、素晴らしかった。
 陳腐な表現であることは重々承知だが、他にうまく言えない。
 落としどころが上手くて、誰もが納得せざるをえないような判決へ導いていく。
 綿密な接見を重ねるのだろう、依頼人を知り尽くしていると言ってもいい、自信に満ちた論証。
 勝ち負けの世界ではない。それは、正しさの世界。

 うつくしい、人。

 憧れの成歩堂弁護士や、最高峰と言われる牙琉先生、どちらもオレは尊敬している。
 だけど、彼女はそれらの今まで見てきた弁護士とはどこか少し違ったステージに立っている。そんな風に、見える。
 彼女は熱くならないし、慌てない。
 派手さは無く控えめなのに、堂々としていて誇り高かった。

 思わず、じっと見つめてしまっていた先に、彼女の弁護士バッジがあった。
 白いカットソーにジャケットを羽織った、飾り気の少ないシンプルな格好。
 そのジャケットの襟元にそいつは留まっている。
 それは磨かれているのだろうが、心なしか色味が沈着したように見えた。

「あれ...みつばさんのバッジって、なんだか随分と年期が入っていませんか?」

 そう、まるで、もう何十年もやってきた百戦錬磨のベテランみたいな。
 先輩とはいえ、ほんの数年でバッジがそこまでの変化を遂げるとは考えにくい。
 え?と彼女は反射的に手のひらで胸元のバッジを覆って、それから少し驚いたように言った。

「よく気付いたね。さすが。牙琉さんも言ってたよ、法介君は観察力が凄いって」

「え、あ、あ...ッそう、ですか...!」

「あはは、動揺しちゃって。良かったねセンセイに褒めてもらって」

 そっちじゃ、ない。
 いや、そちらはもちろん嬉しい。牙琉先生は物腰こそ柔らかだが言葉にして褒めてくれることなど滅多にない。
 でも今はそちらより。

 法介君。

 ほうすけくん、って。

 もちろんオレのこと、だよな。

 思わずあたりをキョロキョロと見渡して、どこかにもう一人の「ホースケ君」が潜んでいないか確認したが、当然そんな者は存在していなかった。
 みつばさんがオレの名前を呼んでくれたのだ。
 やばい。
 頬がむずむずしてニヤケ顔になるのを必死で堪えた。

「あのね、このバッジはね...、」

 オレの暴走しそうな歓喜をよそに、彼女は少しだけ潜めた声で言葉を続ける。

「私のじゃあないの」

「え...」

「ある人に、貰ったの。私の尊敬する先輩弁護士にね」

 あ、もちろん私のは別にちゃんとあるけれど。と付け加え。
 彼女は指先で優しく優しく撫でるようにその黒ずみのあるバッジに触れた。
 伏せる睫毛。
 それは、いとおしげに。


 その人って、男性ですか?


 とても聞けなかった。




 八時五十五分。
 いつも決まった時間。五分後、九時きっかりに牙琉先生は事務所に現れる。
 短すぎるふたりきりの時間。
 甘苦い気持ちを噛み締めながら、一日が始まる。




ゆれる落日

式日