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 この春に新卒で採用された新米弁護士に初めて会ったとき、わたしは言い知れない悲しさに襲われた、なんて、言えやしない。
 少し接しただけでも、彼の人柄はすぐにわかった。
 はつらつとした話ぶり、照れたり笑ったり感情の出やすい表情。謙遜や遠慮の見える態度。
 法介君は熱心で誠実でとてもきれい。
 だから、悲しかった。
 どうしてこんな事務所を選んでしまったのだろう。
 ここには、悪魔が棲んでいるのに。


 法介君の存在はわたしにはとても新鮮だった。悪癖であることは自覚しているが、ついついからかってしまいたくなる。
 そんな悪癖の一貫で「王泥喜法介弁護士」とわざとらしく呼ぶのを彼が嫌がったときはさすがに、ああこれはいけないと改めた。
 彼が弁護士の肩書を持っていることは事実だったが、今後弁護士として実績を積んで、もっと立派になっていかなきゃいけない。
 そういう人の自尊心を傷付けるのは良くない。
 もっと力をつけて、そして、なるべく早く、気付いて欲しい。
 ここに居てはいけない。自分はここに居るべき人間ではないのだと。



 毎朝、一人きりで事務所の清掃をするのがわたしの日課。
 窓とデスクを磨いて、フローリングワイパーで床の埃を払うだけの簡単な清掃ではあるが、これをすると少しでもこの空間から邪気のようなものを祓えるような気がしてやっている。
 気持ちを落ち着かせるにもとても良い。
 もうすぐ牙琉霧人がやってくる。今日もまたあの悪魔と対峙しなくてはいけない。という背中に粟立つような気持ちが、多少は和らいだ。
 もっとも最近は嬉しいことに法介君がいる。
 掃除より何よりも彼が居てくれることが空気を浄化させていた。
 階段を駆け昇る足音。
 勢いよくドアが開き。
 おはようと笑顔。
 それだけのことが、絶望と恐怖に震えるわたしの手をとって、明るい場所へ連れ出してくれる小さな救いになっていた。


 彼は、天使みたい。





 午前九時を十分過ぎる。

 この事務所の主はいつも恐ろしいほどの正確さで九時きっかりに現れるのだが、今日はまだ姿を現さない。
 ときどき事件の調査や公判の準備のために時間が前後することも勿論ままあった。
 しかし、遅れる場合は連絡を寄越すのが常で。
 あの男と顔を合わさないで済むのならこれ以上わたしにとって爽快なことはないけれど、来るはずのものが来ないというのはまた逆に気持ちが悪くて落ち着かない。
 来るにしても来ないにしても、そのどちらなのかをハッキリしてくれなくては。
 カチ、とまたひとつ針を進めるアンティークの時計を見遣ってから視線を法介君のほうへ移すと、彼もまた同じタイミングでこちらを見て、視線がぶつかった。

「...遅い、ですね」

「うん」

「何かあったんでしょうか。オレ、携帯にかけてみます」

 心配げに眉を寄せる。
 そんな顔、しなくていいのに。
 あんなやつのために、きみみたいな人がそんな顔を。

 わたしのお腹の中で真っ黒い感情がぐるぐると渦巻く。
 天使よ、逃げてください。
 そう叫びたくて堪らなくなる。
 そうだ。今ならわたしと彼の二人きり。すべてをぶちまけるチャンスなのかも知れない。
 天使よ、牙琉霧人は悪魔です。
 そしてわたしもまた――。

 法介君の指先がてきぱきと慣れた所作で携帯電話の上を踊る。
 履歴を開いて、牙琉霧人の名を選んでコールボタンを押そうとするその瞬間、わたしは思わずその手を上から掴み、動きを制していた。

「待って...」

 ぎゅ、と握りしめる。
 その手の甲は温かくて、綺麗だけれど男っぽい骨付きをしていた。

「っ、みつば、さん?」

「法介君、」

 突然に手を握られ、戸惑った表情で彼はわたしを見た。

「話があるの」

 喉が焼け付くように熱を帯びていくのを感じて唾を飲んだ。
 わたしの喉が上下するのを追うように、法介君の喉も動く。

「あの、オレ、電話...」

「だめ。聞いて」

 噛み付くように言葉を遮ると、彼はびくりと小さく肩を揺らした。

「みつばさん」

「あのね、あの人は......。牙琉...霧人は.........」

 情けないことに、憎きその名を口にするだけで口許が震える。思わず言葉が途切れてしまうほど。
 純粋な憎しみ、それから、悪魔を告発するという恐怖。
 もう何年もわたしはその中で生きていたし、自分を生かす糧もまた、それら憎しみと恐怖に他ならなかった。

 その時。
 ギィ...と音をたてて重厚な扉が開いた。
 そこに立つ人物を認めて、わたしは法介君の手の甲を掴んでいた手をゆっくりと離した。
 じわりと、汗ばんでいる。
 好機を逸してしまったようだ。
 一度、きつく目を閉じ、息を短く吐いてから、また見開いた。
 牙琉霧人が立っている。

「先生っ」

「...おはよう。青井君、オドロキ君」

「おはようございます。...遅かったのですね」

「オレ、今電話をしようと。何かあったのかと思って」

 法介君に言われて時計へと目を遣った牙琉は、そのときやっと自分がいつもより遅れているということに気付いたように軽く眉をしかめた。

「おや...これは失礼。心配させてしまいましたね」

 たかが十五分に満たない遅刻だったが、それがわたしや法介君の気にかかってしまう程に、彼は普段時間にとても正確なのだ。
 イレギュラーを好まない。
 その分、周囲に隙を見せることがない。

「実は少しバタバタとしていまして」

「仕事...ですか?」

「ええ、そうです。オドロキ君。きみのね」

 きみのね。牙琉はそう言いながら目を細め、少し首を傾けて笑った。それはそれは美しく、楽しげに。

「......へっ?」

 ワンテンポ遅れたリアクションで栗色の瞳をぱちぱちと瞬かせ、わたしと牙琉を交互に見やり、それからもう一度「へ?」と彼は言った。

「弁護の依頼があります。依頼人のたっての希望だ。オドロキ君に弁護をしてほしいと」

「あら、やったじゃない」

 その時軽くそう言った自分をわたしは後に恨めしく思う。




ゆれる落日

式日