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 グラスの中の氷は尚もゆるゆると時間をかけて溶けていく。
 少し小さくなったその身が、からんと音を立てて浮上した。
 じっと見つめていると、よく磨かれたグラスの表面にぼんやりと自分が映ってこちらを見ている。
 無表情を通り越したそのからっぽな顔が、なんとなく昨夜のあんずの顔と重なって見えた。
 オレが拒絶したあの女も、同じ気持ちになっただろうか。

 今のは全部冗談だから、忘れてね

 確か彼女は去り際にそう言っていた。
 冗談、忘れてね、か──。
 成る程。苦しみから逃げるのに、それはなかなか利にかなった方法なのかも知れない。





「冗談だったことにする、だぁ?」

「それが一番お互いが傷付かないでしょ」

「伝えることより傷付かないことを優先するのか、お前は」

「オレの気持ちなんて問題じゃないんだよ、アスマ」


 もう泣かせない。
 彼女の望まないことはしない。
 誤解されても、
 伝わらなくても、
 触れられなくても。
 オレたちにとって重要なのは、変わらない関係で居ること。
 ただ側に居ること。
 側に居て、またあの横顔を眺めることを許されるなら。
 自分の気持ちなんていくらでも押し潰せる。
 心に仮面を着けるなんて簡単なことだ。
 いつも任務でしているのだから、なんてこと無い。
 そうだろう?



 お前がそんなに不器用な奴だと思わなかった、とアスマが呆れたように言う。
 何故だかそれが誉め言葉のように聞こえて、ありがとうと言いたくなった。






 氷はすっかり溶けて消え、琥珀の色も随分と薄まってしまった。
 結局、ウィスキーにはまったく口を付けていない。
 安易に酔っ払うよりも、友人と話をすることのほうがよっぽど意義があったみたいだ。
 気持ちの整理が出来たし、ある種の覚悟も出来た。
 明日にでも、アスマにも立ち会ってもらって、形ばかりの謝罪でもって"仲直り"をしよう。
 二人きりでは絶対に警戒されてしまうし、アスマが一緒ならばオレの言葉の信憑性も認めてくれるだろう。
 仲直りという名の、オレの心を偽るための儀式。
 この先も彼女の側にいるための予防線。

「面倒な役を引き受けた気がするな...」

「ま、そう言わずに。ついて来てくれるだけでいーのよ。オレとサキホが拗れっぱなしじゃ、アスマも困るでしょ」

「...別にいーけどよ」

 店に入ってから何本目かの煙草を灰皿に押し付けながら、彼は席を立つ。
 カウンターの向こう、女店主が立っている後ろの柱に掛かった時計を睨んで、舌打ちをひとつ打った。

「もう行くぜ。随分話込んじまった」

 そう言う言葉尻にどこか焦りの色が滲んでいる。

「オレも帰るよ。...もしかして紅と約束ある?オレなんかに構っててよかったの?」

 言いにくそうに眉を下げて見せたのが肯定のしるしだった。
 この男に時間を気にかけさせることが出来る相手と言ったら、夕日紅ただ一人。
 本人たち曰く恋人同士では無いらしいが、どう考えてもそうなる日は遠くない。人目を憚らずデートをしているし、互いの隣が定位置であることは同期連中でなくとも承知だ。
 つまり、彼らの関係は公然のものだった。

「あー...、今頃ブチ切れてんな。カカシ、お前代わりに殴られろよ」

「え、やだよ」

「さっき殴ってもいいっつったろ」

「いやいやいや、マジギレの紅はさすがに勘弁」

 冗談半分本気半分の軽口に、ハハハと二人で笑い声を挙げた瞬間。

 突如、ひゅっ、と背筋が寒くなる。

 背後にびりびりと痛い程の殺気を帯びた気配。
 オレもアスマも声が出ず、横目で互いに合図を送り、同時に両手を挙げてホールドアップのポーズをとった。
 こんなこと戦場ではまずしないけれど、今は状況が違う。




「ずいぶん楽しそうじゃない?アンタたち...」





 手を挙げたままゆっくり振り向くと、殺気を放つ人物は小首を傾げてそれはそれは美しく笑った。

「...やあ紅、ひさしぶっ─!!!」

 音も無く目の上すれすれを何か横切り、それはオレの髪を数本切って次の瞬間壁に突き刺さっていた。
 細かな細工の施された、高価そうな漆塗りのカンザシだった。
 おそらく、彼女の髪に刺さっていたのだろう。アップに纏めた長い髪がぱらりと一筋だけ垂れる。
 紅はそうしてオレを黙らせると、こちらには視線を寄越さず、まっすぐにアスマへと向かった。
 回し蹴り、からの手刀、突き、跳び蹴りと素早く組み手の技を繰り出す。
 アスマがそれらの攻撃を慣れた風に一つ一つ受けかわし、最後の正拳突きを手のひらで受け止めると、紅は長い睫毛を震わせるように力強く彼を睨み付けた。

「...どれだけ待ったと、思ってんのよ...!!」

「悪ィ悪ィ、ちっと急用が」

「へぇ、これのどこが急用?」

 言いながらカウンターテーブルの上のグラスや灰皿を指す。
 実際にはオレもアスマも酒は一口も飲んでいないわけだが、まぁ、飲んでダベッて寛いでいたように見える状況であることは違いない。
 何よりアスマが彼女との約束を放ってオレと話をしに来ていたことは事実で、それについては弁明の余地も無い。

「やーごめんね紅、オレが─」

「カカシは黙ってなさいよ」

 一転して静かな口調が、余計に彼女の腹の底にある怒りを強調している。
 怖いな、と思ったけれど素直に口にしたら今度は髪数本では済まされないだろう。
 紅は深く息を吐いた。
 乱れた呼吸を整えるのと同時に、精神も落ち着かせようとしているのだろうが、表情は眉間がしっかりと寄ったままだ。
 アスマに詰め寄った際に派手に立ち回ったせいで、せっかくの浴衣がずいぶんと着崩れてしまっていた。
 袷がはだけ、膝の上まで脚が見えている。
 それはそれで場合によっては非常に扇情的な姿のはずだが、当然今はそういう雰囲気であるはずもなく、彼女は忌々しげに壁に突き刺さったカンザシを引き抜いた。

「...帰るわ」

「花火はまだこれからだろ」

「でもこんな格好じゃあ...」

「...そうだなァ、勿体ねーな、お前、浴衣似合うのに」

 あぁ、やっぱりその柄で正解だったな、とアスマがのんびりと言ったその言葉に反応するように、紅は俯いていた顔を挙げる。
 あどけない少女みたいに頬を染める彼女を、初めて見た。
 白地に椿を咲かせた古典柄の華やかさは、確かにとっても彼女らしくて。
 ふたりで選んだのだろうか。
 浴衣が似合うという何気無いその一言がしっかりと彼女の心まで届いたのを見届けた気分になって、こっちがこそばゆい。
 もう確実にオレのことなんて紅の瞳には映っていなかった。
 誰か特別なたった一人のために着飾る。見てほしい。似合うと言ってほしいと願う。
 待っている時間をどれだけ永く感じただろう。でも、それすらもうどうでもよくなっているみたいだ。
 自分だったらアスマのように上手くは切り返せない。
 その点は、やはり彼のいう通り不器用なのはオレの方だ。

「...着直して、くる」

「あぁ、待ってる」

 アスマも紅もいじらしく、その姿がうらやましく思う。
 恋愛の教科書みたいな、あるべき姿だと思う。
 気持ちを偽るだとか隠すだとか、自分のしてきたこと・しようとしていることがこの上なく不毛で不甲斐ないことだと気付かされるが、やはり遅い。
 そうと分かっても。
 自分のやり方がどんなに間違った方法でも。
 それでもサキホへの気持ちには変わりないじゃないか。


第11話 了



式日